ゴッドチャイルド

桂木直

第一部 天上の神 地上の女神

序章 奪われた花嫁

奪われた花嫁 1

「リリアナ!」

 乾いた地面の上に突き倒されながら、エアは叫んだ。

 うつぶせに押さえつけられた状態で口を開いたせいで、乾いた土の味と香りとが、口内へ瞬時に広がってしまう。しかしそんな不快感など、たった今エアを襲っている悲劇と比較すれば些末な事だった。

「リリアナ!」

 情熱と渇望を秘めたエアの声は、喉を引き裂かん勢いで飛び出し、辺りに響き渡る。だからその叫びを聞いた者は、少なく見積もっても、100人はいるはずだ。しかし、その内の誰ひとりとして、エアの望みを叶えてくれようとはしない。

 エアは多くを望んでいるわけではなかった。自身の体を捕らえる者から解放してもらえれば、それで充分だった。あとの事は、自分ひとりでやってみせると決めていた。奪われた大切なものを奪い返すのは、自分自身でやり遂げねば意味がないのだから。

「どけ! 離せ!」

 願いを直接的に口にしてみたものの、何も変わりはなかった。エアは相変わらず地面に縛り付けられたままで、その間に、愛した少女はどんどん遠ざかっていくのだ。

「リリアナ!」

 行かないでくれ。

 エアの中にある、唯一にして強固な願いを込めて、呼ぶ。エアが誰よりも幸せにするはずだった、エアが何よりも強く焦がれたものを与えてくれるはずだった、3日後に神の名の下に永遠を誓い合うはずだった、これから先の一生を共に生きていくはずだった、愛しい少女の名を。

 だが、やはり、叫びは誰にも届かない。エアを拘束する者たちにも、エアに哀れみの視線を向ける村人たちにも。

 悲しげな瞳を反らしてエアに背を向けた、リリアナ本人にも。

「リリアナ……!」

 回りはじめた車輪が重苦しい音を響かせると、リリアナを乗せた馬車が遠ざかっていく。はじめはゆっくりと、次第に速度を上げて。やがて、村の中心を通る道を抜けた先の、ゆるやかな坂道を下っていくと、エアの視界から完全に消え去ってしまった。

 残された轍を視界に入れる事に耐えきれなくなり、エアはかたく目を瞑る。

 そうして闇と絶望に飲み込まれたエアの中で、悲哀、嫌悪、愛情、憎悪といった感情が、熱く火花を散らしはじめる。どれが勝利を収めるかは、エア本人にも予想がつかない。全てが勝利者にも、敗者にもなりえた。

 しばらくして、双眸から涙が滲み出た時、エアは結果を悟った。激しい戦いの果て、感情は複雑に融合し、膨れ上がったのだと。

 その感情は、エアを内側から徐々に蝕んでいった。この場に居る全ての人間が、空から地上を見下ろしているだろう偉大なる神エイドルードが――全てが呪わしく、憎らしかった。世界中の、全てが。

「返してくれ」

 エアは涙に濡れた目を開いて空を睨み、震える声を搾り出す。

「……返……せ……」

 一体何をしたと言うのだろう。

 約束された幸福を乱暴に奪われ、けれど抗う事も許されない。そんな罰を与えられるほどの罪を、自身やリリアナが犯していたとは、エアにはどうしても思えなかった。

 もし犯していたと言うならば、何をしたのか教えて欲しい。自覚していなかった事を恥じ、心から謝罪しよう。大切な者と引き裂かれる以外の全ての方法をもって贖おう。

 だから、返してほしい。

「リ――」

 再び少女の名を呼ぼうとして、胸の中の熱が喉に詰まった。声にならない願望はエアの中を駆け巡り、もはや記憶の中だけのものとなったリリアナの笑顔が、胸と脳裏を支配する。

 滂沱たる涙がこぼれ落ちたが、それを恥じる気にはならなかった。情けないと、みっともないと、笑われたってかまわなかった。笑いものになる事でリリアナが戻ってきてくれるならば、いくらでも道化を演じてやるのに、とすら思う。

「手荒な真似をしてすまなかった」

 静かな声で紡がれる謝罪と共に、エアを地面に押し付ける力が失われた。

 自由を手に入れた瞬間、エアは立ち上がった。馬車を追おうと地面を蹴ったが、それまでエアを捕らえていた青年が前に立ちふさがり、それ以上進む事はできなかった。人の足で馬の足に追い着けるはずもなかろうに、無駄な努力もさせないつもりらしい。

 エアは腕をがむしゃらに振り回したが、青年は何事もなかったかのように、涼しい顔で全てをかわしてしまう。ならばと体当たりをしてみたが、鍛え上げられた青年はびくともしない。

 どうしようもなくなったエアは、首を傾け、青年を見上げた。

 彼こそが、大陸中の誰ひとり逆らえない権力を笠に着て、エアからリリアナを奪った張本人だった。

 きっと、どこに居ても、人々の視線と女性の執着を一身に集めるのだろう。上質の漆を思わせる深く滑らかな黒い髪に覆われた輪郭は整っていて、その中に配置された目も鼻も口も、やはり嫌味なほど整っていた。特に紫色の瞳は、大粒の宝石のような輝きだ。そんな繊細な美の持ち主でありながら、か弱さ儚さは見当たらず、まなざしの鋭さや立派すぎる上背、無駄な肉をすべて削り落として鍛え上げられた体躯は、農民の目から見ても判るほどに一流の戦士の風格を漂わせている。

 大して難しい仕事ではないとは言え、王や大司教の書状を手に遣わされたのだから、それなりに身分も高いのだろう。平民には縁遠い絹の外套や、宝石の埋まった剣を身に着けられるほどに、裕福なのだろう。彼が引き連れてきた部下たちの、一分の隙もなく指示を全うする様子を見ていれば、人望があるだろう事も察しがつく。

「どうして……俺から奪うんだよ」

 エアは吐き出しながら、頭半分は高い位置にある紫水晶の瞳を睨みつけた。

「どうして……」

 目の前の青年のように、エアよりも恵まれている者など、この国にいくらでも居るだろう。そういう奴らから奪えばいいではないか。

 エアには特別美しい容姿も、豊かな財力もない。あえて優れているところを探すならば身長で、村の住民の誰よりも高かったが、それでも眼前の青年には見下ろされている。

 母はエアを産んですぐ、父は2年前に事故で死んだ。兄弟も親戚もなく、父のあとを継いで畑を耕しながら、ひとりで生きてきた。

 だから、エアにはリリアナだけだったのだ。

 リリアナだけが、エアに許されたものだったのだ。

「返せよ!」

 無意識に項垂れていた頭を持ち上げたエアは、噛み付かん勢いで青年に迫ると、掴みかかった。

 戦闘に長けているだろう青年ならば、先ほどのように、いくらでも逃れようがあっただろう。ならば、今エアの手の中にある上質な布の手触りは、青年があえて避けなかった証。施しを受ける虚しさを認めるわけにも行かず、エアは青年を突き飛ばすように素早く手を放した。

「すまない」

 言葉だけの謝罪でない事は、耐えるように揺れる声音、悲痛が色濃く浮かぶ表情、深い影が落ちる瞳を見れば明らかだ。

 だからと言って、許せはしない。

 許す事などできるはずもないのだ。

「うるせえよ。なんでリリアナなんだよ。女なんていくらでも居るだろ。ここにだって何十人も居るんだ。アンタや……王様の周りには、もっと美人が沢山居るだろ? なんでリリアナなんだよ!」

「代わりは居ない」

 エアが投げかけた問いに、青年は無機質な声で簡素な返答をよこしてきた。

「どれほど高貴な女性でも、どれほど美しい女性でも、どれほど心清らかな女性でも、リリアナ様の代わりにはなれないのだ」

 そうだ、そのとおりだ。

 誰ひとりとして、リリアナの代わりにはなれないのだ。

 それが判っているならなぜ、俺からリリアナを奪う? 俺が辺境の田舎村に住むしがない農民だからか? リリアナを望む者が、この国で最も偉大なる存在だからか?

 次々と胸に湧き上がる疑問を、青年に叩き付けようと、エアは口を開いて深く息を吸う。

 しかし。

「楽になりたければ、忘れるといい」

 エアが声を出す前に、青年は眉ひとつ動かさず、静かに言い切った。

「酷な事を口にしたと判っている。だが、許しを乞うつもりはない。それが君のために最も良い選択だと、私は確信しているからだ」

 青年のまなざしは、あくまでも真剣で、真摯。冗談を言っている様子も、血迷った様子も、どこにも見当たらない。

「はっ……」

 エアは体をくの字に曲げ、左手で腹を、右手で口元を押さえる。そうしたところで、こみ上げてくる笑いは止められず、指の隙間から次々と零れ落ちていった。

 リリアナを忘れる事が、許される中で一番の幸福だと言うのか?

 リリアナのためにしてやれる事は、エアの居ないところで幸せであれと祈る事だけなのか?

 では、今までリリアナと共に生きてきた日々には、何の意味も価値もなかったと言うのか?

 青年も、自分自身も、滑稽でしかたがなかった。徐々に強まっていく笑いは、いつしか勢いよく飛び出し、腹の底で形成しはじめた怒りを引きずり出していく。

 ひとしきり笑い終えたエアは、背を伸ばす勢いを借りて前に飛び出し、数歩の距離を一気に詰めて、青年の胸倉を再び掴んだ。

「ふざけんな! どこから忘れろってんだ! 結婚の約束をした頃からか? あいつに惚れた頃からか? それともガキの頃、みんなで遊んでいた頃からか? それとも」

 エアは乱暴に涙を拭い、嘲笑を織り交ぜながら叫ぶ。

「あいつの存在そのものを忘れろって言うのか!?」

 そんな事ができるわけがない、馬鹿げた事を――そう伝えるため、エアは言ったのだ。青年を見上げながら見下して。

 しかし青年は、エアの求めない答えを、平然と告げた。

「その通りだ」

 そうして、何もかもがどうでも良くなってしまうほどの現実を、眼前に突きつけられる。

 本当に、意味も価値もなかったのだ。と、エアは知った。

 重ねて理解した。つまり、リリアナが居ない世界とは、全てがくだらなく、意味も価値のないものなのだと。

 ならばその世界に、自分はなぜ存在しているのだろう。やはり、意味はない。それはつまり、己の生死に意味はないという事だろうか。

「死ねって事か、俺に!」

 吐き捨てると同時に、エアの憤怒に燃え滾っていた心は、急速に冷静さを取り戻していく。

 ああ、そうか。

 死ねばいいのか――

 思いついてしまえば、簡単な答えだった。今ならばきっと、苦しむ事もなく、笑いながら永遠の眠りにつけるだろう。リリアナを奪った偉大なる存在の名と、知りうる限りの呪わしい言葉を残しながらて命を絶てば、きっと爽快だろう。

 エアは青年の腰に下げられた長剣に手を伸ばす。手入れの行き届いたそれは、さぞ切れ味がいいだろうと思っての事だった。

 しかしエアよりも青年の動きのほうが俊敏だ。あと少しで柄に指が届きそう、となったところで、青年の手はエアの手を払い除けた。エアの右手に鈍い痛みが走り、日に焼けた肌が赤く染まる。

 他の選択肢を奪った男に、最後の道を奪われて、エアは途方に暮れるしかない。僅かに痛みの残る右手を呆然と見つめた後、光のない瞳で青年を見上げた。

「じゃあ、どうしろって言うんだよ」

 立っている事も億劫になり、エアはその場に崩れ落ちた。

「生きる事も許されず、死ぬ事も許されないのなら。じゃあ、俺は、どうすればいい」

 細めた目でエアを見下ろしていた青年は、固く引き結んだ唇を解く。一度、何か言おうと口を開いたが、しかし何も音を発さず、ゆっくりとした動作でエアの前に片膝を着いた。

 エアと視線の高さを等しくしてから、ようやく語る。

「本当に、忘れられないのなら」

「忘れられるものか」

「ならば、もう一度会おう。時の流れをものともせず、未来の君の心がリリアナ様だけを叫び続けるのならば」

 青年はエアにしか聞こえないよう、微かに囁いた。


「私と、手を組もう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る