第7話

 二人は立ち上がり、昇降口を目指す。

 途中、廊下に自販機があった。

 ――校内の自販機。

 虹はふと、足を止める。

 それに気付いて不思議そうな天音に、虹は言った。

「ホットミルク……奢ってやろうか」

驚いたように、自分を見上げてくる後輩が、なんだかくすぐったい。

「お前、好きだろ……ホットミルク」

「え、あ……はいっ」

あ……、と何かに思い当たった顔をして、嬉しそうに天音は微笑んだ。

 ――くそっ、やりにくい。

 心の中で言いつつ、虹にはそれが照れ隠しだと自覚があった。


「――奢ってやろうか」

 先輩が、奢ってくれる。

 それだけで胸が躍る。

「お前、好きだろ……ホットミルク」

虹のその言葉に、あ……、と天音は呟く。

 ――覚えてて、くれたんだ。

 嬉しくて、天音は自然と笑顔になった。


 虹が自販機に近づいた。

 さっき、自分がしたように、いつも通りの動作をする。

 天音が一人、昇降口を目指していた時も、この自販機の前を通った。その瞬間、いつもここでコーヒーを買う、虹の姿が脳裏をよぎった。

 同時に溢れて来た感情を鎮めようと、この自販機に近づくと、体が勝手に動いていた。気付けば、いつも見ていた先輩の動作をなぞるように、小銭を入れていた。

 どうしよう、と意味もなく辺りを見回した。レバーを下げて小銭を出すこともできたが、迷ったのは一瞬だった。

 天音は虹を思い出して、彼がいつも持っていた、いつも買っていた、決まったメーカーの決まったコーヒーのボタンを押した。

 寂しかったのだろうと、天音は思う。

 虹に突き放されて、自業自得だとわかっていっても、何かで虹を感じたかった。

 だから、虹がいつも持っていた缶コーヒーを買ったのだ。

 予想外だったのは、その缶コーヒーに背中を押されたことだ。

 ボタンを押して、出てきた缶コーヒーを手に取る。すると、自分の想いが溢れて、あることが閃いた。

 ――傍に居たい。

 溢れて来たその想いが、答えを連れて来た。

 想いを抑え込もうと、思わず缶コーヒーを握る手に力を込めて、缶コーヒーを胸に抱いて、その温もりでまた、閃いた。


 ――虹の傍に居たい。

 それなら、

 傍に居よう。

 そんな答えが出た。


 傍に居たいのなら、傍に居よう。虹の傍に居て、彼を支えよう。さっき失敗したのだから、無理に話を聞くことはすまい。傍に居るだけで、支えになる。


 そのことは知っていた。虹が天音にしてくれていたからだ。

 きっと、先輩も同じだと思うことにした。傍に居るだけで良いのだ。

 そう考えれば、天音はもう一度、虹のもとに戻ることが出来た。

 保健室の近くの廊下で、天音は虹に声を掛けるタイミングを計っていた。物陰から、虹を窺う。壁にもたれて、一旦考えた。

 どうやって声を掛けよう?

 ここに来るまでの勇気は出たが、最後の一歩が踏み出せない。それは、自分に非があると自覚があるから、罪悪感を認めているからだ。

 ふと、その温もりで存在を主張する、右手の缶コーヒーを見た。

 ――先輩の好きなコーヒー……。

 これをきっかけにしよう! と閃くのに、そう時間は掛からなかった。


「待って!」

自販機に小銭を入れて、ボタンを押そうとしていた虹を止めた。

「カフェ・オレが良いです……」

「え?」

虹の不思議そうな声。虹には申し訳ないが、ふと思ってしまったのだ。そして、その理由に気付いてしまったら、どうしてもカフェ・オレが良い。

「やっぱり……カフェ・オレにしちゃ、ダメですか?」

「別に良いけど……」

言いながら、虹は指の位置を変えて、カフェ・オレのボタンを押した。

 出てきたそれを天音に渡しながら、虹は首を傾げる。

「でも、どうしたんだ? 急に」

「いや、ちょっと……」

「なんだよ?」

訝しげな虹に、ヒミツです! と天音は逃げ切った。


 まだ何も、解決はしていない。虹は暗い顔を隠しているだけかも知れないし、天音も何があったのか気になるし、何も分からないままだ。

 けれど、虹は天音の言った通り、帰ると思うと、気持ちが軽い。

 天音は、虹が隣を歩いているだけで嬉しい。


 天音が虹に言った言葉。

 虹の心を軽くした言葉。


 ――ただ、話さなくて良いですから……


『私を傍に、居させてください』


 お世話になった先輩を、たとえ支えられなくても。


 もう、天音は開き直っていた。

 そして、同時に心に決めてもいた。

 ――この先輩の、傍に居よう、と。


 天音は自らの手の中にある、カフェ・オレを見つめる。

 天音はホットミルクが好きで、虹はコーヒーが好きだ。

 二つが混ぜ合わさって、一つになったカフェ・オレのように……。


 ――離れられないくらい、ずっと、傍に居られますように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る