2章

01 拝藤組

――いつ来てもでかい会社だ。


 競うように超高層ビルが立ち並んでる西新宿内に、拝藤組の本社ビルがあった。周りに比べて頭ひとつ突き抜けている。新後とは違い、常に比べものにならない喧噪や人波で溢れ返っている。

 仲は近くの商業ビルの2階にあるカフェから眼下を行き交う人々を眺めていた。

 なぜ、仲にとっても仇敵(きゅうてき)である拝藤組の前にいるのか。鎌倉造船に行かなかったのか。

 坂戸と新後の倉本家で接触する前に、仲は髪の長い薄気味悪い女と接触していたのである。封筒を渡され、拝藤組に何時までに行くようにとだけしか言われなかった。

 封筒を開ければ、仲正弥に関する情報をまとめた冊子が履歴書付きで入っていた。条件が書かれていたのはその中の1枚である。

 1・坂戸にウソをつき続ける

 2・新後アイリスを定められた期間までに崩壊させる

 3・新後アイリスに定められた期間までに勝利する

 4・拝藤組のチームを崩壊させない一手を打つ

 以上の4つのうち、ふたつを達成すれば願いが叶えられるというものである。仲もまた坂戸と同じような条件を出されていたのだ。

 誰かに操られている、指示されている気持ち悪さはあった。しかし、仲は考えた。


――内部から食い破って致命傷を負わせることも可能なはずだよな。


 あくまで表向きは従い、いざとなれば牙を向く。あえて敵の懐に飛び込むのもひとつの手だと思えたのだ。それゆれに仲は、いらぬ心配はかけまいと坂戸に鎌倉造船に行くと嘘をついた。こうすることで坂戸には、嘘をつかざるをえない状況を作り出したのだ。


――拝藤組に行くなんて言えば、アイツの精神が積み重なった心労に加えて壊れてしまうかもしれんからな。


 拝藤組はスカウト不足で社長が発狂している――。不意に、冊子を新幹線で読み込んでいて仲は鼻で笑ったことを思い出した。


――拝藤組も人材難で困ってる、か。あんなに人材を集めておいてよく言うわ。


 仲が憶えている限り、プロにも劣らないほどのスカウトを抱えていたはずである。よほど新後アイリスに負けたのが堪(こた)えたと見える。嘘でも本当でも確かめる必要があった。いや、確かめたかった。


――べつに門前払いを食らってもいいんだ。それなら他の手を使えばいい。付け入る隙はどこかにあるはずだ。


 仲がスマホを眺めている。指でスライドするたびに、家族との思い出が映し出された。妻の幸せそうな笑顔と子どもたちの無邪気な笑顔が何よりの活力だ。

 しばらく家族の写真を見ていたが、不意に電源を切って胸ポケットの内側に突っ込んだ。


――行かねばね(行かないと)。


 まだ覚悟し切れてない仲であるが、このままズルズル時間を浪費していてもなんにもならない。大きく息を吐いて席を立った。




 エントランスに足を踏み入れるとすぐに、茶髪のショートヘアでパンツスーツ姿の長身の女が近づいてきた。


「仲(なか)正弥(まさや)様ですね?」

「はい、そうですが……あなたは?」


 過去にはいなかった人物がいきなり現れた。警戒心を強めている仲とは対照的に、女は軽く笑みを浮かべた。


「私は拝藤の第一秘書の五月(さつき)です」


 ヒールも手伝って仲を見下ろしている。仲も172センチとそんなに低い身長ではないのだが、明らかにこの女はでかかった。ヒールを履かなくても、180センチ近くはあるはずである。身長が高い理由は、顔が健康的な色に焼けていることから察せられた。何かスポーツでもしているのであろう。


「拝藤がお待ちです。どうぞこちらへ」


 五月に促されるままだだっ広いエントランスを突っ切り、仲はエレベーターに乗り込んだ。


「手足が長くてモデルみたいですね。何かスポーツでもやられているのですか?」

「ふふ、そうですね。球技を少々」 

「球技、ですか」


 質問のような言い方をしたのがまずかったのか、会話が止まってしまった。しかし、女のほうも曖昧な言い方である。きっと訳があるのだろう、と、仲はそれ以上何か聞くことはしなかった。

 やがて60階でエレベーターが停まり、ドアが開いた。極彩色(ごくさいしき)の絨毯(じゅうたん)が真っ先に目につく。足を踏み出してみれば、まるで雲の上を歩いているかのごとくふかふかしていた。

 五月は浮遊感に浸ることもなくさっさと歩き出している。仲は少し遅れながらも後に続いた。

 ふたりは言葉を交わすこともせず、とてつもなく長い廊下の突き当たりにある社長室へ向かう。


「失礼致しました」


 社長室へ着く寸前にひとりの女性が出てきた。顔色が真っ青で、明らかに体調のすぐれない様子である。

 仲が心配して思わず声をかけそうになったが、先に五月が声をかけた。


「どうかされましたか」


 黒髪を三つ編みにし、丸くて大きいレンズの眼鏡をかけている。そのレンズの奥の垂れ目には、涙が溜まっていた。


「いえ、なんでもありません」


 首を軽く横に振る女の髪の合間から、キラリと光るものが見える。見間違えじゃなければ右耳にピアスをしていた。


――地味な娘(こ)の割りにピアスなんてするんだな。なんだか意外だ。

「失礼します」


 三つ編みの女が、長い廊下を仲たちと逆に歩み始めた。

 仲が悲壮感溢れる背中をなんとも言えない思いで見つめていると、五月が社長室のドアをノックしていた。


「仲様をお連れしました」


 部屋の主(あるじ)の返答がない。もう一度ノックして来訪を告げるのかと思いきや、なんの躊躇もなくドアを開けた。

 ネイビースーツの男の背中が見えた。整髪料をたっぷりつけているのか、白髪交じりの髪がやけに艶やかだ。


「仲くんだけこちらに来たまえ」


 他を圧する地鳴りのような低い声が飛んできた。まだ背中は外へ向けたままである。

 仲は生唾を飲み込み、五月に目配せをする。五月は深くうなずいて自らは部屋の隅に控えた。

 仲は部屋の中央にある応接セットの間を通って、執務机の前に立った。

 ようやく部屋の主――拝藤富士夫(ふじお)が振り返った。


「俺が拝藤組の社長の拝藤だ」


 ネイビースーツに臙脂(えんじ)色のネクタイを締め、白髪交じりの髪をポマードでオールバックにしている。整えられた眉の下で切れ長の悪眼(あくめ)――白目の部分が黄色く、常時血走ったような眼――が、鷹のような眼光を発し、容赦なく仲の瞳に突き刺さる。口の周りとあご一体を包むひげも手伝ってか、言葉が出てこなかった。無理もない、威圧感の塊がそこにいたのである。

 我知らず泳ごうとする目を必死に拝藤の双眸(そうぼう)に固定しつつ、仲は自分の名を名乗った。


「ああ、存じておる」


 隙あらば喰らってやろうとする肉食獣の眼だ。何か不敵な考えをひとつでも思い浮かべようなら、即座に首筋に刃のような歯が喰いたちかねない。


「我が拝藤組硬式野球部は常に強者であらねばならん。……理解しておるな?」

「もちろんです」

「一敗地(いっぱいち)に塗れたあの試合……今でも鮮明に憶えている」


 一敗地に塗れた試合とは、10月に行われた社会人野球日本選手権大会のことである。拝藤にとって、同じ企業チームに負けるのは百歩譲って許せた。だが、クラブチーム且つ野球弱小県のひとつである新後県に負けたことが堪らなく悔しかったのだろう。みるみるうちに悪鬼の様相(ようそう)を呈(てい)していき、忌々(いまいま)しげに吐き捨てた。


「世が世ならすぐにでも攻め滅ぼしておったわ!」


 拝藤は勝利至上主義者である。拝藤からしたら新後アイリスはアリのような存在であり、抵抗することなくただ踏み潰されるべきものであると信じて疑わなかった。


「象とアリとの戦いに象は負けるはずがない、そうだろう?」

「はい、その通りです」


 肯定(こうてい)の言葉しか出せない。ひとつでも否定の言葉が出た瞬間、今の世でも首が飛びかねない雰囲気なのであるから。


「君のスカウティング能力は、幾多のチームを強豪へと導いたと見ている。指導者としての実力も買っているのだが……アレにも一応挽回の機会を与えてやらんとな」


 アレとは拝藤組の監督である園木(そのぎ)恵三(けいぞう)のことを指している。采配に優れ、求心力があり、強大な戦力を思うがままに動かすことができる。一敗地に塗れる原因となった彼もまたそれまでは名将の名を欲しいがままにしていた。が、新後アイリスに負けたことで顔に泥どころか、全身に泥を塗りたくられた状態なのである。それゆえに、いつ挽回の時期が来てもいいように徹底的に選手をしごいているのだ。


「アレが不適格の器(うつわ)と判断でき次第、君には指導者になってもらうかもしれない。そののち君が所属していた新後アイリスを――」


 拝藤の眼がすがめられていく。


「潰せ」


 慈悲(じひ)のかけらすらない重厚で酷薄(こくはく)な命令。


「これは絶対だ」


 息が詰まる空気が漂う。拝藤はこれまでライバルや同業者を金と権力と己の胆力(たんりょく)で屠(ほふ)ってきた。その培(つちか)われた胆力が、ここぞとばかりに空気に滲み出てくるのは当たり前なのである。修羅場を潜り抜けてきた百戦錬磨の男が、蛇のように己を呑み込もうとしている。仲の右手が首元に伸び、半ば無意識にネクタイを緩めた。


――なるほどな。ここでは自分の思考を抹殺しなければ、生きていけない所なんだな。拝藤に忠実に従うことが、生きる道……。


 自分の胆力が溶かされていくのがわかる。口の中がカラカラに渇き、脂(あぶら)汗が止まらない。

 仲を厳しく観察していた拝藤の表情が、何かを思い出したかのように若干和らいだ。


「そういえば、君には家族がいたな。子どもはまだ幼く、かわいい盛りと聞いておる。食わしていくために、一家の大黒柱としてがんばらないといかんな」


 今度は背筋に冷たいものが走った。心臓を直接掴まれたような、危うい感覚。とっさに脳裏に微笑みを浮かべた家族たちの顔が映し出された。


「新後アイリスをこの世から消し去った暁には、特別に白紙の小切手をやろう。上の子は男の子だったな? グローブでもバットでも好きなだけ与えるぞ」


 拝藤の甘い言葉はもはや、仲の耳には届いていなかった。頬の肉を噛み、己の頭を回転させる。


――家族のためには拝藤組に尽くさねばならないのか。坂戸とも敵対しなければならない……。意に反することばかりだな。でも俺は、家族が一番大事だ。元の世界に帰るためには、拝藤組の狗(いぬ)だろうがなんだろうが、なんにだってなるしかない……。


 あわよくば拝藤の眼を欺(あざむ)きつつ、坂戸に協力しようとも考えていた計画は頓挫しそうだった。自分の身を滅ぼす原因もなりえる。拝藤相手に面従(めんじゅう)腹背(ふくはい)は通用する自信がなくなってきた。

 一度視線を床に投げた。やや間があって再び拝藤と目を合わせたときには、仲の目が据わっていた。


「必ず、拝藤組を勝利に導く選手を連れてきます」


 仲は自分と家族のために坂戸と敵対する道を選んだ。

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