63.天神・桜木(後編)






 ――新選組の幹部の方たちがな、会津のお侍さんと一緒にお酒飲まはるんやて。

 宴会の内容を尋ねたさくらに、明里はそう答えたのだった。

 わかってはいたが、いざこの場に立つと、まだ何もしていないのに「もう帰りたい」という思いがよぎる。だが、明里に倣って体だけは動かし、正座で頭を下げる。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせるが、反面、お辞儀をしたまま二度と顔を上げたくないとも思った。

「明里でございます。本日はどうぞよろしゅう」

「桜木でございます。ゆっくりしていっておくれやす」

 抑揚に気をつけて覚えた台詞を言ったら、さくらはいよいよ顔を上げざるを得なかった。ゆっくりと正面を見ると、歳三と早くも目が合った。歳三は切れ長の目をこれでもかと開けて、口をぱくぱくとさせている。その様子を見て、さくらは笑いそうになった。おかげで、少し緊張が解けた。

 さくらは不自然にならない程度にさっと部屋を隅から隅まで見渡した。勇、歳三、山南の他に、源三郎、谷、武田もいる。それに、上座にはさくらの知らない男が二人いた。身なりがいい。あれが、件の会津藩士だろう。勇たちはいいとして、会津の人間にさくらの正体が知れるわけにはいかない。だが幸い、さくらが顔を知らないということは向こうも島崎朔太郎の顔は知らないに違いなかった。

「おお、これはこれは。近藤どの、よいおなごを選んでくださりましたな」一番奥に座っていた五十がらみの男が言った。すでにいくらかできあがっているようである。

「え、ええ、まあ、この店で最近評判のおなごだということで」勇は苦笑いしていた。当然、「桜木天神」が自分の義姉あねだと気づいての苦笑いである。

 そんな様子をよそに、明里が三味線を構えるとゆったりとした音楽が奏でられはじめた。

 さくらはゆっくりと立ち上がるとしなやかな足取り、もとい、転ばないようにと慎重な足取りで、踊り場に歩き出した。たった数歩の距離が、ひどく遠くに感じられた。

 踊り場に立つと、音楽は単調な前奏から、情緒的な主旋律に変わった。三つ数えて、さくらは動き出した。頭の中では必死に覚えた振り付けの記憶を呼び起こし、しかしそうとは悟られぬような表情で、しなやかに扇を振り、体をくねらせ、くるりと回転し、音楽に合わせ、舞った。途中、振り付けを忘れたら音楽に合わせてなんとなく剣術の型稽古を崩したような動きをして乗り切った。

 曲が終わり、さくらは正座して深々と頭を下げた。ひとまず、終わった。

「桜木といったか、独特な舞であったな。いやはや、楽しませてもらった」先ほどの男の声が聞こえてきた。どうやら、さくらの舞を斬新なものとして受け止めてくれたようだった。

 ほっとしたのもつかの間、”桜木”と明里は出席者一人ひとりに酌をして回らなければいけなかった。明里が会津藩士の方に率先していってくれたので、さくらは廓言葉で会話するという危険を冒さずに済んだが、この格好で仲間に酌をして回るという羽目になりこれはこれで地獄だった。さくらは、すぐ傍に座っていた源三郎のところに行きたかったが、立場的には歳三の隣に座る勇のところに行かざるを得ず、銚子を持ってすすす、と移動した。

 おひとつどうぞ、としとやかな声色で声をかけ、勇と歳三の間に腰を下ろしたさくらに、二人は同時に

「なんでお前が」

 とごくごく小さな声で言った。

「事情は後で説明する。事故だ事故」さくらは小声で返した。

「はあ、万に一つ違っていればと思ったが」

「サクか、やっぱりそうなのか」

「ああもう、とにかく、あの方々はどちらがどちらだ」

「奥にいるのが最近ご上洛された会津藩の神保様だ。手前が同じく山浦様」勇の説明を受けてさくらは改めて二人を見た。先ほどさくらに声をかけた男・神保は、明里の酌を受けて上機嫌そうである。隣に座る山浦という藩士は総司や平助とそう変わらない年ごろの青年で、ぼんやりと明里に見とれているようだ。

 やがて、明里がさくらにちらりと目配せした。その目が「こっちへ」と言っていた。おそらく、神保たちに桜木を呼べと言われたのだろう。困ったことになった。練習してきたとはいえ、遊女に化けきれるほど廓言葉を使いこなしてるわけではない。どう乗り切ろうかと思っているうちに、明里はすっと場所を空けて、向かい側に座っている山南のもとへ酌をしに行った。

 つい、さくらは二人を凝視してしまった。見なければよかった、と後悔した。胸の中でなにかがぐにゃりと音もなく崩れていくような心地がする。明里も山南も、互いを見るその表情はさくらが今まで一度も見たことのないものだった。

 ――私は、どうしてこんな格好で、こんなところにいるのだ。何をしているのだ。

「サク」

 歳三が小さく名を呼び、さくらの着物の袖をわずかに引っ張った。

「立ち上がったら、ふらつけ」

 さくらは意味がわからなかったが、歳三に言われるまでもなく狭いところで立ち上がったら着慣れない打掛に足を取られて転びそうになった。

「おっと」歳三はすかさず立ち上がると、よろめいたさくらの肩をがしっと掴んだ。

「いけない、顔色がよろしくありませんな。立派な舞を見せてくださったのですから、もう十分です。そこの禿殿、桜木殿をどこか別室で休ませてやってほしい」

 さくらは目を丸くして歳三を見た。長居すればするほど諸士調役として使い物にならなくなってしまうのだから、唯一さくらの事情を知る者として機転を利かせたに違いなかった。どちらにせよ、一刻も早くこの宴会が終わればいいと願っていたさくらには渡りに船だった。


 さくらは禿に連れられ、空き部屋に入った。ここは普段、明里をはじめとする遊女たちが客を取る部屋だ。

 部屋までさくらを支えるふりをしてついてきた歳三は、一緒にきた禿を外で待たせるとさらに誰にも聞かれように声を落とした。その顔には、明らかに怒りの色が浮かんでいた。

「話はあとでゆっくり聞かせてもらう。宴が終わるまで、絶対ここにいろよ」

 トン、と襖の閉まる音を聞いて、さくらはへなへなとその場に座り込んだ。髪も着物もかさばっていて横にはなれない。とは言え、後にも先にもこんなに着飾ることはないだろうと思うと、すぐに脱いでしまう気にもなれなかった。

 ――山南さんは、本当に明里さんのお馴染みさんなんだなあ。しかも、ただの遊女と客などではない。

 今回の明里の申し出、本気で断ろうと思えば断れた。それでも、今日あの時間をああして迎えてしまったのは、ほんの少しの出来心――下心ともいう――からに他ならなかった。

 ――山南さんは、私を見ただろうか。私だと、気づいただろうか。


 鐘が鳴って、さくらは目覚めた。こんな格好でも、気が抜けたせいか眠ってしまったようである。一刻は経っている。宴会は終わったのだろうか、と思った矢先、荒々しく襖が開いた。

「歳三……」

「明里さんからだいたいの事情は聞いた」

 歳三はツカツカとさくらの前に歩いてくると、どっかと腰を落とした。

「み、みんなは……?」

「先に帰ってもらっている」

「そ、そうか。源兄ぃと山南さん、なんか言ってたか」

「どうして引き受けた。お前、自分が何したかわかってんのか」

 質問を無視して凄む歳三に、さくらはたじろいだ。

「す、すまなかった、とは思っている。軽はずみだった。諸士調役として失格だし……切腹と言われても仕方がない」

 言ってから、より強い後悔の念が押し寄せた。こんなことで、こんなくだらない見栄のようなもののために、ここで自分は死ぬのかと。

 歳三は、これ見よがしにハアとため息をついた。

「とりあえず、ここでの任務はもともともうすぐ終わる予定だったんだ。早めに戻って来い」

 歳三の手が伸びてきた。さくらは叩かれるような気がして、咄嗟に目を瞑った。だが、頬に温かい感触がしただけだった。歳三が、さくらの頬をその手で包んでいた。

「にしても、化けるもんだな。谷と武田は気づいてなかったぜ」

 それを聞いて、さくらはほっと胸を撫でおろした。女であること自体は知られているが、”桜木”に変装しているとは知られたくなかった。

「サンナンさん、言ってたぞ。短い間に舞を覚えて披露するなんて大したもんだと」

「そ、そうか――」

「まだ、想っているか。サンナンさんは――」

「わかっている」

 さくらは、歳三の手首を掴んで、そっと下ろした。歳三の目を直視できず、俯く。部屋は薄暗いが、行燈の光を反射した着物の派手な色が目についた。

「わかっているが、そう簡単に消えるものでもない。そも、私は、どうこうなりたいとも思っておらぬ。ただ同志として傍で、上様のために、京の治安のために働く。それが私の使命だ」

「じゃあ、泣くな」

「な、泣いてなどおらぬ。少し眠ってしまっていたから、そのせいで少し目元が湿っているだけだ」

「ふん、そうかい」

 歳三はスッと立ち上がった。帰るのか?とさくらは尋ねた。

「桜木天神を一晩買うと言って武田たちを撒いてるからな。屯所には戻れねえ。馴染みのとこにでも行くさ」

「そ、そうか。すまないな。いろいろと気を使わせて」

「いつまでそれ着てるんだ」

「お前が帰ったらすぐに着替えるさ。もう、着ている意味もないし」

 歳三はそうか、と返事をするといくつか隊務の用件を告げて部屋を出て行った。襖を閉める直前、さくらをじっと見つめたかと思うと、ふっと笑みを浮かべた。

「天神・桜木、悪くなかったぜ。馬子にも衣裳ってのはよく言ったもんだ」

 おい、どういう意味だ、とさくらが食って掛かる前に、歳三は姿を消してしまった。


 一人残されたさくらは、しばらくぼんやりと歳三が閉めていった襖を見つめていた。

「静かだなぁ」

 やがてさくらは、名残惜しそうに帯を解き始めた。

 自分は遊女ではないけれど、遊女が着物の帯を自分で解くことほど空しいことはないのではないかと、そんなことを思った。

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