18.行き倒れの男


 山南は試衛館にほど近い長屋に居を構え、毎日のように試衛館に稽古に来ていた。仙台藩のれっきとした武士の家系の出であったせいか、山南にはまさに文武両道という言葉が相応しく、剣術の稽古でも、学問においても試衛館に新たな風を送り込んでいた。

 特に勇やさくらは普段あまり話題にしていなかった世の中の情勢や学問の話を山南から聞くにつれ、自分の見識も広がるような新鮮な気持ちを味わっていた。

 そんなある日、勇とさくらは山南の長屋を訪れていた。

 珍しいものを手に入れた、というので、山南から本を借りるついでに同行したのだった。

「これが、世界地図です」

 山南は大きな紙を広げて、勇とさくらに見せた。

「世界…地図??」見せられた二人は意味がわからない、といった表情で紙を眺めた。

「そうです。私も実際に見るのは初めてなんですけどね。横浜あたりでは結構出回っているみたいなんです」山南はそう言うと、地図の右端を指差した。

「これが、日本列島だそうです」

「えっ!」

 二人は地図の真ん中に描かれた菱形の大陸と逆三角形の大陸、つまりユーラシア大陸とアフリカ大陸、そしてそのまた左で縦に二つ連なる三角形の南北アメリカ大陸ばかり見ていた。

「嘘ですよね。日本がこんなに小さかったら、こっちの大陸の大きさはおかしいじゃないですか」さくらはやだなぁ、と言わんばかりにははは、と笑った。

「うーん、でもさくら、よく見てみろよ。この島のここ、薩摩のあるところだろう…?」

 さくらは九州を見た。さすがにさくらも勇も日本列島がだいたいどんな形かは知っていたが、小さな九州と小さな四国を見ると、これが日本列島だと認めざるを得なかった。

「ちなみに、これがメリケン」山南が左の大陸を指差した。

「え、これが全部、メリケンなんですか…?」さくらはぽかんと口を開けた。

「全部、というわけではないようなのですが、少なくともこの右半分あたりはメリケンの土地のようですね」

「それでも、日本よりはるかに大きい…」勇も目を丸くした。

「ですからね、今、攘夷攘夷とは言いますけど、闇雲に追い払おうとしてもこんな大きな国を相手にしていたら返り討ちに合うだけなんです」山南は声の調子を落とした。

「そ、それじゃあ、日本はこのまま異国に乗っ取られてしまうんですか??」さくらは前のめりになって聞いた。

「もちろん、そうやすやすと異国の力に屈するわけにはいきません。今まさに目指しているのが、公武合体。公方様と天子様が協力して日本を強くして異国と渡り合おうとしているものです」

 勇とさくらはうんうんと頷いた。

「ですから、先の井伊大老の事件のように、短絡的にご公儀の役人を斬ったりしている場合ではないのです。日本人同士、協力しなければ」

 勇とさくらは、山南のそんな話をただ黙って聞いていた。



「ただいま帰りましたー」

 山南の家で数冊の本を借り、勇とさくらが試衛館に帰ると、歳三が土間の上がりかまちに腰掛けて薬の整理をしていた。

 歳三は天然理心流入門後も、時々石田散薬の在庫を近所で売りさばいていたのだった。

「おう」歳三は二人をちらりと見やると、また薬箱に視線を落とした。

 さくらは歳三の隣に座ると興奮気味にまくし立てた。

「歳三!山南さんはすごいぞ!世界地図っていうのを見せてもらったんだがな、あんなに世界が広いなんて私は知らなかった!歳三も今度見せてもらったらいい!あれを見たら物の見方が変わるぞ!」

「ったく、山南山南うるせえな」歳三はぼそっと言った。

「なんでお前はそう山南さんを毛嫌いするんだ」

 なあ?と、さくらは勇に同意を求めた。

「うーん、ほら、トシは基本的に初対面の人を警戒するよな。さくらとも最初仲が悪かったわけだし」

「今だって別に仲良しこよしってわけじゃねえけどな」歳三がふんっと鼻を鳴らした。

「ほんっとお前はかわいくないな」さくらは眉間にシワを寄せた。

「まあいいや。とにかく、今日は稽古休みだし、山南さんに借りた本を読むんだ私は」

 さくらはにっと笑って借りた本を数冊歳三に見せた。

「さくらが本だって?もう夏だってのに雪でも降ったらどうすんだ」

「うるさいな。どの道私は世にも珍しい剣術を嗜む女子なのだから、学問文学を嗜んだって雪は降らない」さくらは得意気に言った。

「女がどうとか今は関係ねえんだよ。剣術バカのお前が本なんか読んだら雪が降るって言ってんだ」

「バカとはなんだ。百歩譲ってそうだとしても、これからこの本で賢くなるんだからそんなこと言われる筋合いはない」

「はいはいはい、二人ともその辺で」

 勇がさくらと歳三の間に割って入った。

「もうなんでお前たちはいつもそうなんだ」

「歳三が勝手にピリピリしているだけではないか。おおかた山南さんが賢くて爽やかなのが気に入らないんだろう」さくらはからかうようににやにやと歳三を見ると、立ち上がって自室に戻っていった。

「どうしたんだよトシ。さくらの言う通り、お前の方から喧嘩をふっかけてるように見えるぞ」再び薬箱の整理を始めた歳三を見ながら勇が言った。

「別に、そんなんじゃねえよ」

「確かに山南さんはお前と真逆の人だけど、何も山南さんの方が優れた人物だというわけじゃない。トシにはトシらしい良いところがあるし」

 勇は心からそう思って助け舟を出したつもりだったが、歳三は黙り込んでしまった。

 やがて歳三が「そういう問題じゃ…」と反論しかけた時、ドタドタと足音がした。

「あっ!若先生!トシさん!ちょっとそこよろしいですか?」源三郎が現れ、勇と歳三には目もくれず板の間に上がると囲炉裏の近くに手直な座布団を敷き始めた。

「源さん、何かあったんですか?」勇が尋ねた。

「出稽古の帰りに行き倒れの男を見つけましてね。見捨てるわけにもいかず、連れて帰ろうと。総司が男をおぶさってもう間もなく帰ってきますから。私は先回りして帰ってきた次第です」

「本当ですか!それは大変だ。そうだトシ、ちょうどいい、石田散薬があるじゃないか!」勇が薬箱を指した。

「これは打ち身・挫きに使う薬なんだが…」歳三は苦笑いしながらも薬箱の中から石田散薬を一包み取り出した。

 程なくして、「行き倒れの男」を背負った総司が帰ってきた。

「おお、総司、とりあえずここに寝かせてやれ」勇は先程源三郎が並べた座布団を指してそう言うと、ツネを探しにその場を離れた。

「なんなんだこいつは」歳三は鼻を摘まみながら囲炉裏の側に横たわった男を見た。男は何日も風呂に入っていないようで、その体からぷんと鼻を突く異臭を発していたのだ。

「お前よくこんなやつおぶさってここまで来れたな」歳三は鼻を摘まんだまま総司に言った。

「一昨日あたりから軽い風邪を引いたみたいで、鼻が利かないんですよねあんまり」総司はけろりとして言った。

「大したやつだよお前は」歳三は総司に言うと、男を見た。彼は激しい腹の音を響かせた。

 やがて、勇とツネ、そして事情を聞きつけたさくらが戻ってきた。

 ツネは土間の竈に置いてある釜の蓋を開けると、「ありました」と言って、慣れた手つきで握り飯を三つ作ると男の前に差し出した。

「食べられますか?」総司が握り飯を男の口元まで近づけた。

 他の五人は嗅覚を失ってはいなかったので、なんとなく遠巻きにその様子を見ていた。

 すると、男はどこからそんな力が出たのか、がばっと起き上がり、目にも留まらぬ速さで握り飯を食べきってしまった。

 総司たちがその様子をぽかんと見ていると、男は皿を差し出し、「おかわり!!」と叫んだ。

 ツネは一瞬固まってから、我に返ったように「あ、は、はい」と言って再びご飯をよそった。

 あっという間に、男は釜の飯をすべて食べてしまった。

「はーっ!!食った食った!!ありがとよ!!いやあ~、三日ぶりの飯でよー!あのまま飢え死にするかと思ったぜ!!」男はがっはっは、と笑って自分の腹をさすった。

「ツネさん、そのご飯って、夕飯用だったんですよね…?大丈夫なんですか??」さくらは勇の陰に隠れてヒソヒソとツネに言った。

「なんとかいたします」ツネはそう言ったが、珍しく不安げな表情だった。ばれたらキチに怒られるのは必至である。

「よかったです、元気になって!」総司がにっこりと笑った。

「いやぁ、ほんとにお前は命の恩人だ。名は何てぇんだ?ここはどこなんだ?おっと、皆さん方も、本当にありがてぇ!」

「私は沖田総司と申します。ここは天然理心流の試衛館という道場です」

 総司が説明すると、続けてあとの者も自己紹介した。

「島崎勇です。こちらは妻のツネ」

「近藤さくら」

「井上源三郎です」

「…土方歳三」

「そっかそっか!俺は原田左之助!伊予松山から武者修行のためにはるばる江戸まで来たんだ。品川宿まであとちょっとってところで路銀がなくなっちまってよー。ほんとに死ぬかと思ったぜ!」

 原田と名乗った男は再びがっはっはと笑った。その先ほどとは打って変わったような威勢の良さに、さくら達は唖然とするしかなかった。

「品川宿はあなたが倒れてた所とは方角が違いますけど…」総司が冷静に言った。

「何?そうなのか!まあ細かいことは気にすんな!こうしてここに来たのも何かの縁!しばらくここで世話になるぜ!」

「は!?」

 全員が今日一番の大声を出した。


 ひとまず原田を銭湯に行かせ、さくら達は時間を稼いだ。

 歳三と総司は、必ず後で米で返すからと隣近所を奔走し「炊いたご飯」をかき集めに行った。これを近藤家の釜に入れておき、後日こっそり彼らの小遣いで米を補填すればツネがキチに大目玉を食らうことは回避できそうだ。

 問題は、原田が「ここで世話になる」と発言したことだ。

 こちらの本題について、歳三と総司がいない間にさくら、勇、源三郎の三人は思案をめぐらせていた。

「総司も源兄ぃも、とんだやつを拾ってきたもんだ。こんな犬猫みたいに行き倒れをほいほい拾ってきてたらうちは保たないぞ」さくらが苦々しげに言った。

「まあまあさくら、あの状態で倒れてたらお前だって同じようにしただろう?」勇がなだめた。

「金も行く宛もないようだから、このまま外に放り出してもまた同じことになってしまう気がするが…問題は大奥様だな」源三郎がため息をついた。

「『なんですかこの男は!うちの家計は火の車!これ以上居候が増えたら全員飢えて死んでしまいます!』とか言いそうだな…」さくらはキチの甲高い声真似をして、はぁ、と考え込んだ。

「山南さんのところでとりあえず匿ってもらえないだろうか」源三郎が言った。

「うーん、あんなうるさそうな輩がいたら山南さん困るんじゃないか…」さくらは眉間にしわを寄せた。

「何の話をしてるんです?」

 先ほどさくらが真似た声が背後から聞こえ、さくら達はおそるおそる振り返った。案の定、険しい顔つきをしたキチが立っていた。

「は、母上、なんでもありません。今日の夕飯は何かなーって」さくらは「ははは」と取り繕うように笑った。

「何かな、ではありません。あなたも夕飯の用意を手伝いなさい。その歳でもいつ嫁にいくかわからないんですからね」

「あらま、まだ私が嫁に行けると思ってくださってるんですね」

「あなたは、そういう減らず口を…」

「あー!!久しぶりに風呂入ってすっきりしたなー!お!そろそろ夕飯か?…ん?」

 土間に現れた原田を見てさくら達は唖然とし、続けて大きなため息をついた。

「なんなんですかその男は!」キチが甲高い声で言った。

「俺か?俺は原田左之助!今日からここで世話んなるぜ!」原田はにへへ、と笑った。

「だから、なんなんですかこの男は!」キチはさくら達に向かって言った。

 勇がキチに事情を説明した。

「何を言ってるんですか!うちの家計は火の車!これ以上居候が増えたら全員飢えて死んでしまいます!」

 先ほどの物真似と同じ台詞を吐いたので、さくらと源三郎はキチに背を向けて声を殺して笑った。

「この前の山南とかいう人の方がまだましです!」

 ――母上、そればかりは同感です。

 さくらは反論することもできず、もうあとは原田対キチの戦いに持ち込ませようとだんまりを決め込んだ。


 それからしばらくして、周助、勇、歳三、源三郎、総司、そして総司に「面白いことになったから」と呼ばれた山南が道場の縁側に座っていた。

「沖田くん、面白いこととは」山南がヒソヒソと尋ねた。目の前の中庭ではさくらと原田が対峙していた。

「あの人ね、うちに住み込みたいっていうから、それなら剣術の腕を見せろって大先生が。さすがにタダでは住まわせないって話らしいですよ」

「はあ」

「そしたら、あの人剣じゃなくて槍の使い手なんですって。それで姉先生がまずは立ち会うことに」

「なるほど」

 結局、原田ののらりくらりした態度にキチは敗北し、周助に泣きついた結果こうなったのである。

 かくして、さくらは木刀、原田は槍の代わりに木の薙刀、というなんとも珍妙な勝負が始まった。

 ――ちっ、間合いが取りづらい

 原田がくるくると薙刀を振り回すのを、さくらはひょいひょい、と避けていった。

 ――場所を外にしてよかった。道場の中ならこの男、天井に穴を開けかねない。

 そんなことを考える余裕はまだある。

 天然理心流は実戦を重んじる稽古。よって、敵が槍使いだった場合、柔術使いだった場合など、あらゆる想定をした稽古もしている。

 しばらく攻防が続いたあと、さくらはしゃがんで原田の薙刀の下に入ると、下段から思い切り木刀を振り上げ、原田の胴に命中させた。

「そこまで!」周助が止めた。

「さくらの勝ちだ。残念だが…」

「お待ちください、父上」勇が止めに入った。

「確かに勝ったのはさくらですが、私はなかなか筋のよい使い手だと思いました。天然理心流は実戦を重んじる剣術。他流の者と切磋琢磨することで、我々も学ぶことがあるはずです。無碍に追い出すのはいかがなものかと」

 全員が目を丸くして勇を見た。

「父上、私も同意見です」原田が並みの使い手ではないことは戦ったさくらが一番よくわかっていた。彼はいろんな意味でただ者ではない、と。

「若先生らしいや」総司がけらけらと笑った。

「ったく、勝っちゃんは結局優しすぎる」歳三はやれやれといった様子で言ったが、その顔には笑みが浮かんでいた。

 周助はしばらく考え込んだ。

「わかった。いいだろう」

「よっしゃあああ!ありがとよ、島崎さん!さくらちゃんも、いい勝負させてもらったぜ!ありがとな!」

「さ、さくらちゃんって…」

「これからみんなよろしくな!!」

 原田はニッと満面の笑顔を浮かべた。

 こうして、原田左之助は食客として試衛館に出入りするようになったのだった。



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