6.「気だてのいい女」
弘化二(一八四六)年 冬
初の一周忌の法要が試衛館で行われていた。
さくらはお経を聞く気にはなれず、屋根の上で空をぼんやり眺めていた。うっすらした雲がところどころに浮かぶ以外は、どこまでも青い空。
今の気持ちとは裏腹に澄み切った空を見て、さくらは目を閉じた。
――この空は、母上のところに繋がってるんだろうか…
そんなことを考えていると、屋根にかけてあった梯子がガタンと音を立てた。
驚いて屋根の下を覗きこむと、源三郎がこちらを見上げていた。
「ここにいたのか。まったく、娘が法要にも出ないでこんなところで…まぁ、娘だからか」
葬儀には行けなかったから、と源三郎は日野からはるばる試衛館に来ていたのだった。
「上がっていいか?」
さくらはこくりと頷いた。
「天然理心流、入門したんだってな」
「ああ」さくらはポツリと話し始めた。
「私が心身ともに未熟だったのだ。私がしっかり逃げていたら母上は…」
さくらはフッと息をついた。
「わかってる。死んだ人は返ってこないのだからな。だから、今はただ稽古する。稽古している間は全て忘れられるし、強くなれる。一石二鳥というものだろう?」
源三郎は驚いたような眼差しでさくらを見た。
「お前、なんか変わったな…しゃべり方とか」
さくらはニッと笑った。
「これか?この一年、大人の男としかしゃべってないから、女っぽいしゃべり方を忘れてしまったのだ」
さくらはボケたつもりであったが源三郎が突っ込まないので続けた。
「…というのは冗談だが。この方がナメられない気がするのだ。私が生まれる前からいる門人以外は、やはり女子が剣術なんて…と思っているみたいでな。私ももう、『女子のくせに』と言われていちいち喚いたりはしない。悔しいが、やはり剣術をやる女子などそうそういないからな。だからこそ」
さくらはごろんと屋根に寝そべった。
「いつかどんな男よりも強くなる。女のくせにっていう奴に『じゃあお前は私に勝てるのか?』って言ってやるのだ」
次の日、さくらは道場にいた。
一年経った今でも、初の死から完全に立ち直れたかと聞かれれば、自信を持って首を縦に振れるかわからない。
――母上は、私を庇って死んだ。あの時、足がすくんで動けないなどというヘマをやらかさなければ、母上は死なずに済んだのだ。
後悔という二文字を振り払うようにさくらは木刀を振った。いくら気合いを入れたところで、男と女には身体的な差がある。女はちょっとやそっとでは筋骨隆々にはなれない。それでも、強くならなければいけない。
だからさくらは、ひたすら木刀を振るのだった。
*******
初の死から約二年半が経ち、さくらも周助も二人暮らしに慣れたころ、門人の一人である小島という人物がある話を持ち込んだ。 近藤家の一室で、周助と小島は向き合い、一枚の書状を見ていた。
「縁談?俺にか?」周助は驚いて言った。
「ええ、やはり、天然理心流という一流の宗家さまが、いつまでも男やもめというのは…」
「構わねえよ。それに、後妻なんてさくらが受け入れるかどうか…」
「大丈夫ですよ。気だてのいい美人だと、評判だそうですから」
美人、という言葉に周助の耳はピクリと動いた。
「まあ、会うだけ会うか」
周助の縁談話を聞いたさくらの第一声は。
「父上は、母上のことをお忘れになってしまったのですか!?」
予想通りだ、と、周助はさくらの反応にため息をついた。 こうなることを恐れて、周助はさくらに内緒で見合い相手に会っていた。そして、とんとん拍子に話は進み、縁談を承諾してしまった。
「初のことも大好きだったさ。もちろん今もだ。だが、それとこれとは話が違うんだ。一流の宗家たるもの、
「わかりません」
「お前もきっと気に入るさ。気だてのいい女だから」
かくして、「気だてのいい女」キチが近藤家にやってきた。
さくらはずっと会いたくないの一点張りだったが、祝言を数日後に控え、観念してキチに会うことを承諾した。
「初めまして。さくらさんですね?お話は伺っております」
キチはさくらに向かって深々と頭を下げた。 会ってみると、さくらの中にあったもやもやした気持ちはいくぶん和らいだ。キチは本当に気だてが良さそうな女で、笑った顔は初のそれに少し似ていた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」さくらも頭を下げた。しかし、やはりまだ今日会ったばかりの女を母上とは呼べなかった。
そして、祝言も滞りなく終わり、近藤家の新しい日常が始まった。 周助は、もうすっかりキチのことを気に入ったらしく、食事に何が出ようが褒めてばかりいた。さくらも、キチの料理の腕は確かだと思い、母上と呼べるように努力しようと思い始めていた。
「よし、さくら、稽古だ」
「はいっ」
ある日の食事のあと、食べ終わるなり立ち上がった二人に、キチは目を丸くした。
「今日は道場はお休みではないのですか?」
「他の奴らはな。だが、さくらに休みはねぇ。な!」周助が少し自慢気に言った。
「はい!」
さくらは近頃、天然理心流の目録をもらい、稽古が楽しくてしょうがない時期だった。
にこにこしながら道場に向かう周助とさくらを、キチはただじっと見つめていた。
数日後、キチが井戸で水を汲んでいると、稽古を終えた門人たちがわらわらとやってきた。
「あらみなさん、お疲れ様です」キチはにこりと微笑んだ。
「さくらさんは?一緒に稽古していたのでは?」
すると、その集団の中にいた小島がにこやかに答えた。
「残って一人で稽古してますよ。さすがは近藤先生の娘御だ。人一倍稽古しないと男の筋力には追い付かないからって、がんばってるんです。本当に感心しますよ」
「さくらさんは、そんなに一生懸命稽古をしてどうするのです?」
今度は小太りの門人が、苦々しい顔をして答えた。
「どうやら、本気で天然理心流を継ぐ気みたいですよ」
キチは二の句を継げずに小島たちを見た。 周助に初めて会った時のことを思い出した。
『私には一人娘がいましてね。目の前で母親を亡くして、 もう二度とこんな目に会いたくないと言って、剣術の稽古を始めたんです。だから、俺も持ってる技は全部あいつに伝授しようと思ってまして』
それがまさか、天然理心流の宗家を継ぐという意味だとは、つゆほども思わなかった。
「それは本当なのですか?」キチは表情を変えないようにしながら尋ねた。
「ええ、近藤先生も、血のつながった跡継ぎがいいらしくて」小島が答えた。
「しかし…さくらさんがお強いのも、人一倍稽古をがんばっていることもわかりますが…女子ですよ?」小太りの方が言った。
「だからどうした。さくらさんこそ、腕もあるし、天然理心流を継ぐにふさわしい方なんだ」
「小島さんは古株だからそんなことが言えるんですよ。正直、新参者の我々にとっては、いささか受け入れがたいというか…」
「なんだと?」
「我々にだって、矜持というものがあります。女子の下で剣術稽古なんて…みなさんだって、そう思ってるんでしょう?」
小太りの門人が振り返った。他の門人たちは、ゆっくりとうなずいた。 小島だけが、苦い顔でそれを見ていた。
「奥様、必ずや、男の跡継ぎをお願いします」別の門人がキチをじっと見た。
「おい、失礼だぞ」小島が叱った。
このやり取りを黙って見つめていたキチは、にこりと微笑んだ。
「私は、この道場と近藤家が豊かで幸せになれば、それで構いませんわ」
さくらが一人で稽古していると、道場に人が入ってくる気配がした。 手を止めて気配がした方を見やると、キチが申し訳なさそうな顔をして戸口に立っていた。
「すみません。稽古の邪魔を…」キチが言った。
「構いませんよ」さくらは胴着の袖で額の汗をぬぐった。
「でも、道場に何のご用で?」
キチはさくらをじっと見つめた。
「いえ。ただ…一度二人でゆっくりお話ししたいと思っていましたの」
「はあ…」
「さくらさん、あなた、この道場を継ぐのですか?」
さくらは突然の質問に面喰らい、言葉を発することができなかった。が、やがて口を開いた。
「はい。今はまだ目録の段階ではございますが、稽古を積んだのちには必ずや父上の跡を継ぎ、試衛館を守っていくつもりにございます」
さくらが剣術の道に進むと決意したあの夜。 きっかけは、「目の前で大切な人を死なせたくない」という思いからであった。
しかし稽古を重ねていくうちに、さくらには新たな夢が生まれていた。
それが、試衛館を継いで天然理心流の四代目になること。
七歳の時に言われた「宗家を譲ってもいい」という周助の言葉を忘れてはいなかった。
天然理心流初の血の繋がった跡継ぎになりたいというのもあったし、周助と初の期待に形に残ることで応えたいという思いもあった。 それにはただ強いだけでは足りない、険しい道があることも、さくらは覚悟しているつもりだった。
さくらの真っ直ぐな目を見たキチはしばらく間を開けると、険しい表情をした。さくらはそんなキチの顔を初めて見 た。
「認めませんわ」
「…へ?」さくらは耳を疑い、キチの言葉を待った。
「女子が道場を継ぐなんて、近藤家の恥です。女子は大人しく、どこかへ嫁ぐのが世の常。あなたが継ぐくらいなら、養子を取る方がまだマシですわ」
さくらは驚きと戸惑いで、ただ黙ってキチを見つめるしかなかった。その節、「女子のくせに」と言われた時のことが鮮明に蘇ってきた。
ぽろっと涙が出そうになったが、グッとこらえ、睨むようにキチを見つめた。特に勝負をしているわけではないのだが、ここで負けるわけにはいかな い、と思った。
「それを決めるのは父上でございます。私の腕が未熟なゆえに、父上が養子を取った方がよいと判断したならば、私はそれに従いましょう。しかし、父上も、亡き母上も、私が男以上に強くなり、天然理心流のすべてを受け継ぐことをお望みです。私は、その望みに答えるべく、稽古を積んで精進するまでにございます」
それだけ言ってのけると、さくらはキチの出方をうかがった。どうやらキチも反論の言葉を探しているらしい。
「無謀な話ですね。女子の力で、男以上などと…」
「それはまだわかりません。だから、今こうして稽古をしているのです」
さくらはこれ以上の問答は無用だと判断し、「稽古を続けたいのですが」と言った。
キチは思いっきり作り笑いをして「そうですね」と言って道場を去っていった。
残されたさくらは、キチの姿が見えなくなると、ビュッと木刀を振った。
―――負けるものか
「旦那様、さくらさんにこの道場を継がせるおつもりなのですね」キチは部屋に戻ると、門人名簿を眺めていた周助に迫った。
「誰かがそんなこと言ったのか?まあ、あいつが強くなって、そうなるにふさわしい腕前になったらな」
すると突然、キチは目に涙をためた。周助は驚いて名簿を放り投げ、キチの肩をつかんだ。
「おいおい、どうしたんだよ」
「女子の役目は嫁いだ先で家庭を築くことです。さくらさんが後を継ぐのなら、私は必要ないのではありませんか?」
「なんだよ、そんなことか」
周助の言葉に、今度はキチの表情に怒りの色が浮かんだ。
「お前はこの家を守って、俺のそばにいてくれたらいいんだ。もちろん、跡継ぎを産んでくれればそれに越したことはねぇが、そんなのは二の次だ」
「旦那様…」
周助はキチをそっと抱き寄せた。
キチは周助の背中に腕を回して応えた。
次の日から、キチは周助がいる前では以前と変わらなかったが、さくらと二人きりになると(そんな状況にはあまりならなかったが)、途端に冷たい態度で接するのだった。さくらは何度か周助に言いつけてやろうかと思ったが、なかなか好機をつかめず、時は過ぎていってしまっ た。
そして、キチの存在は、初の死を引き立てているようで、さくらはなんとなく試衛館に居心地の悪さを感じていた。
――やはり、私の母上は母上しかいないんだ。
無駄だとわかっても、そう思っては塞いだ気持ちになるのだった。
そんな中でも、さくらにとって一つだけ、キチのおかげで、といえるようなことがあった。 今までは道場を留守にすることはできないからと、周助が出稽古に行ってもさくらは江戸で留守番をする外なかった。 しかし、今ではキチが留守番をしてくれるので、さくらも出稽古についていけるようになったのだ。
この年の前年に、源三郎もようやく天然理心流に正式に入門していた。さくらはずっと源三郎に会っていなかったので、一緒に稽古ができることを楽しみに、周助と共に日野へと歩いた。
そんなさくらを、とある人物との出会いが待ち受けていた。
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