4.剣術少女・さくら(後編)
天保十一(一八四〇)年 春
「ひゃっ…落としちゃった。やっぱりさくらちゃんにはかなわないなぁ」カヨはぺろっと舌を出すと、お手玉を拾い上げた。
「さくらちゃん…最近来ないね」キクがポツリと言った。
「やっぱり…あたしのせい…だよね」ミチが俯いた。
「あたしが、さくらちゃんは強いなんて言ったから、あんなことになっちゃって…来づらいよね」
すっかり落ち込んだミチの肩を、カヨがバシンと叩いた。
「大丈夫だよ!さくらちゃんは強いよ!きっとまたここに来て一緒に遊べるって!」
言いながらカヨも不安げな顔になった。ふと広い場所を見やると、相変わらず男の子たちがチャンバラをやっている。
そしてその向こうから、小さな人影が現れるのを見つけた。
「ねぇ、あれ」カヨは他の二人に呼びかけた。
「さくらちゃんだ!」キクが嬉しそうに声を上げた。
さくらはキク達の方に駆け寄ってくると、ニッと笑った。
「久しぶり!ちょっと稽古してたらここに来る時間なくなっちゃって」
「稽古?」三人が同時に聞いた。
「うん、女だから女だからってバカにされた挙げ句、負けっぱなしなんて悔しいじゃん?だから、父上と源兄ぃに鍛えてもらってたんだ」
ポカンと口を開けている三人を前に、さくらは背負っている竹刀を得意気に指差した。
一方で、チャンバラをしていた男の子たちは手を止めて女の子たちを見た。
「おい、あそこにいるの、さくらじゃねぇか?」
「ホントだ。信吉にやられて逃げ帰ったさくらだぜ」
「ふん、よくまた顔出せたもんだな」
ミチがゆっくりとさくらの背後を指差した。
「さくらちゃん、信吉たちがこっちを見てるよ」
さくらはくるりと振り向き、信吉たちの方に数歩近づいた。向こうもこちらに近づいてくる。
「よぉ、久しぶりじゃねえか」
「ふん。誰のせいで…」さくらは背中の竹刀に手をかけた。
「オレと勝負しようってのか?」信吉は少し驚いているようだった。
「そうだよ」
「ちょっと待てよ。こっちはただの棒だぜ。お前だけちゃんとした竹刀を使うなんて不公平だ」
「何?怖気づいたの?」
「バカ、そんなわけあるかよ!」
「いいよ。確かに、不公平だもんね」
さくらはそう言うと、信吉の横に立っていた男の子を見た。
「平次朗、それ貸して」
平次朗と呼ばれた少年はこくりと頷くと、持っていた棒きれを黙って差し出した。
「今度は負けないんだから」さくらはスッと棒を構えた。
信吉はゴクリと唾をのむと、同じく構えた。
「やーっ!」
「えーいっ!」
さくらは父と源三郎の言葉を思い出していた。
『いいか、さくら。素振りはすべての基本だ。素振りをする時は竹刀の先、相手の目を見るんだ。あの壁を相手の目だと思って…』
『実際勝負する時はそのまま型通りってわけにはいかないけど、応用して使うんだってさ。だから、この基本の型を完璧にするんだ。ま、オレもまだ完璧とは言えないんだけどな』
誰かと戦うのは源三郎との試合をいれてこれがまだ二回目だ。しかも、信吉はひょこひょことすばしっこい。さくらの顔に一瞬、焦りの色が浮かぶ。呼吸を整え、信吉から一旦離れた。信吉は急に開いた間に戸惑ったのか、わずかな隙を見せた。
さくらは好機とばかりに、一気に打ちこんだ。
「ぜぇぇぇぇいっ!!」
信吉の棒が手を離れ、くるくると弧を描いて飛んでいった。
飛んでいった棒はカランと地面に落ちた。
「やったー!さくらちゃん!」カヨ、ミチ、キクが駆け寄ってきて、さくらに抱きついた。
「ちっくしょう!」信吉が悪態をついて、さくらに殴りかかってきた。さくらは棒を投げ捨て、応戦した。
いつの間にか、二人は取っ組み合いの喧嘩にもつれ込んだ。やがて、同時に力尽きて仰向けに寝転んだ。
「はぁ…なかなかやるじゃねぇか…」
「はは…信吉もね…」
しばらくの沈黙。他の子供たちは、また喧嘩が始まるのでは、とビクビクして二人を見ていた。
「さくらが勝ったら、土下座して謝るんじゃなかったっけ?」さくらは首だけを横に向けて信吉を見た。
「…お前だって俺を殴ったじゃねえか。チャラだ」
「今先に殴ったのは信吉じゃん。チャラだよ」
信吉はぐっと口をつぐんだ。
そして、ムクリと起き上がってさくらとキクを交互に見た。
「…悪かった」
さくらは目線をキクに向けた。キクははにかんだように微笑んでいた。さくらもにこりと微笑んだ。
「行くよ!だーるーまーさーんが…」
カヨが木の幹に向かって言うと、他の子供たちはじりじりと歩き始めた。
「こーろーんーだっ」
カヨはすかさず振り向き、わずかに動いた者を見逃さなかった。
「平次郎、動いた!」
「ええー?動いてないよ」
「動いてたのっ」カヨが頬を膨らませると、平次郎はつまらなさそうにカヨの横に立った。
「よし、次行くよ」カヨは再び木の幹の方を向いた。
「…こーろーんーだっ」
カヨは振り向くと、すぐ目の前に来ていたさくらにギョッとした。
「へへん、追いついたよ」さくらは得意気に言うと、カヨの肩を軽く叩いた。
「いいぞ、さくら!」言いながら信吉が一目散に走った。他の子供たちも全速力で走った。
「もー、そんな遠くまで行かないでよー」言葉とは裏腹に、カヨは楽しそうに笑っていた。さくらたちも、くすくすと笑いが絶えなかった。
あっという間に日が暮れた。さくらたちは鳥居を出て、それぞれ家路に向かった。
「じゃあ、また遊ぼうね!」
「おう、またな!」
さくらは満ち足りた気持ちで試衛館へと歩いた。
稽古の成果が出たことも、男の子たちと仲直りしてみんなで遊べたことも、嬉しかった。
次の日、さくらは昨日の出来事を何も知らない周助と共に道場にいた。
「よし、今日の素振りはどうだ?」
周助は、素振りを完璧にしないと型も教えられないし、チャンバラ相手でも実際に勝負できるようになるには最低ひと月は必要だと言っていた。だから、早まって勝手に源三郎に稽古をつけてもらった挙げ句、すでに勝負は決まっているなどと、さくらはとても言えなかった。
そして、信吉を倒すという当座の目標がなくなった今、さくらにとってひたすら素振りをする時間というのは退屈以外の何物でもなかった。
…という一部始終をさくらは初に話した。
「さくら、天然理心流を継ぐんでしょう」縁側に座ってお茶を飲みながら、初は静かに言った。
「…そうですけど。それはいつなのですか?」
さくらは足をふらふらバタつかせながらぼんやりと道場を見やった。実際には見えなかったが、遠くからかすかに周助と門人たちが稽古する声が聞こえた。
「それは、さくらが大きくなって、お父上に認められた時ですよ」初は諭すように言った。
「大きくって、源兄ぃよりも?」
「そう…ね…」初は少しだけ言葉を濁した。
「じゃあ、まだ稽古しなくていいでしょう?源兄ぃが十二歳なんだから、さくらも十二歳になったらまた稽古し始めます!」
そう言うと、さくらはすっくと立ち上がった。
「さくら、どこに行くのです?」
「神社です!」
「ちょっと、さくら!」
初が止めるのも聞かず、さくらは走り去っていた。
――やはり、女子のさくらに、剣術の稽古をさせるのは酷なのかしら…
初はふう、とため息をついた。
すると、休憩に入った周助がやってきた。
「さくらはどうした。いつもここで稽古してるんだろ?」
初は本当のことを言おうか迷った。さくらには口止めされていたのだ。
「神社に遊びに行きましたよ。あの子も遊び盛りですから、毎日竹刀を振っているのにもたまには退屈してしまうのでしょう」
周助は初の言葉を大して重くは受け止めていない様子で「そうか」と初の隣に腰を下ろした。
「あいつは強くなる。なんたって、俺の娘だ」
次の日も、また次の日も、さくらは自主的な稽古はせずに遊び回っていた。
そして次第に早起きもできなくなり、周助との朝稽古でさえも足が遠のくようになった。
数日ぶりの朝に恐る恐る道場に向かったさくらは、父の姿を見とめて体をこわばらた。
「さくら」周助は重々しく娘の名を呼んだ。
「最近稽古してねぇみてぇじゃねぇか。そんなんじゃ四代目を継ぐどころか例の悪ガキにも勝てないぞ」
さくらは黙って周助の前に正座した。もう黙っているのも限界だと悟ったさくらは、「父上、申し訳ありません」と頭を下げた。
周助はなんだなんだ、と慌てたように言ってさくらを見た。さくらは源三郎と練習試合をした上で、すでに信吉との勝負はついていることを話した。
「天然理心流を継ぐのはまだ何年も先でしょう?それに…」さくらは口をつぐんだ。そしてここ数日考えていたこと、初にも誰にも言えなかったことを、ゆっくり話しだした。
「もう、別に倒したい相手もいないし…今、剣術の稽古がつまらないんです。だから、さくらは天然理心流を継げないと思います」
周助が最も恐れていたことだった。こうならないために、成長するまで剣術は教えないつもりでいた。しかし、動機がなんであれ、さくらが自分から剣術をやりたいと言ってきたのがうれしくて、周助はつい七歳の少女にとってつらすぎる稽古を強いてしまったと後悔した。
「…そうか。ならいい」周助は静かに言った。
「ごめんなさい。怒ってないんですか?」
「お前がやりたくないって言ってるのに、無理矢理やらせたって、意味ないだろ」
さくらは周助が怒っているのか悲しんでいるのかわからなかった。とにかく、父を傷つけたのだ、と子供心にわかった。さくらはいたたまれなくなって立ち上がった。
「お前がそんな辛気くせぇ顔すんな。いいんだよ、ちゃんと言ってくれて俺はホッとしてんだ」周助はニッと笑った。
その言葉を文字通りに受け取り、さくらは「よかった」と胸中で呟きつつ道場を出た。
残された周助は、遠くから聞こえてくる「母上ー!神社に遊びに行ってきまーす!」という声をぼんやりと聞いていた。
――まあ、腕のいい養子をとりゃいいだけの話だ。
周助はふぅ、とため息をついて立ち上がると、重たい木刀をスッと構え、大きく一振りした。
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