第23話 変身ヒーローが異世界で生態調査する⑤
風が、重い。
いつの間にか月が輝いた空は厚い雲に覆われ、ぽつぽつと雨が降り始めていた。
根がうねった大木。その自然にできたくぼみ。堆積した湿った土の上に二人の影があった。
エルが走ることをやめてから、どれほどの時間が過ぎたのか。
マリアは、木の根元に崩れるように座り込んでいた。
「……っあぁ……っ……ケンスケさん……ケンスケさん……」
ひとしきり叫び続け、今はもう声すら枯れていた。
両手で口を塞ぎ、肩を震わせる。目からは涙が止めどなく流れ、地面に点々と落ちていく。
それは、温もりを失っていく誰かの血のようだった。
「……マリアさん……」
エルも、隣にしゃがみ込んでいた。
エルの肩も上下に波打ち、悲しみに打ち震えている。
しかし、マリアほどには泣けなかった。
泣いてしまえば、気持ちの全てが崩れてしまいそうで、ただ歯を食いしばっていた。
「ケンスケさん……」
ぽつりと零れたエル言葉に、マリアは一層強く顔を伏せた。
喉の奥から嗚咽が漏れ、胸の内で何かが千切れる音がした。
「私のせい……私が……あの時、もっと上手くできていれば……」
震える声はもはや懺悔だった。
「自分のせいっスよ……」
エルが俯いたまま答える。
「自分があそこで油断しなければ……ケンスケさんが、あんな傷を……」
マリアはかぶりを振る。
「違う……違うの……ケンスケさんは、ああいう人だった……誰かを守るためなら、命を捨ててもいいって……そういう人だったの……!」
その言葉に、エルはなにもいう事が出来なかった。
しばし、二人の間には森の風音と、遠くの木々が軋む音だけが漂った。
………ッドォォン…
だが、その音に紛れて、異様な音が忍び寄っていた。
「……ッ!?」
エルが咄嗟に顔を上げる。
地鳴り。枝の軋み。重い何かが、森の向こうから迫っている。
音の発生源は未だ遠いが、確実にこちらに近づいている。
「嘘……」
エルは、すぐにマリアの腕を引いた。
「立って!来てるっス!あいつが追ってきてるっスよ……!」
「……っ!」
マリアはふらつきながらも立ち上がる。未だに涙はとまっていない。
だが、脚は動いた。走れないまでも、逃げるだけの力はまだ残っていた。
「じゃ、じゃあ、ケンスケさんはもう……本当に……」
マリアの脚が止まりかける。
「今はそれを考えちゃダメっス!!!逃げる事だけを考えるっス!!!」
エルがマリアを無理やり引っ張る。
それに引きずられるように、マリアはぽつぽつと歩き出す。
決して早くはない。
ぶらぶらと散歩をするようなスピードだが、それでも、起伏が激しい木々の間を抜け、かなりの距離を歩いた。
それでも追跡の音は一向になくならない。
それどころか、徐々に近づいている気配すらし始めている。
「……どこまで……どこまで私たちを……!」
まるで、狡猾な蛇がわざと獲物を走らせ弄ぶように、インサニディウスは音を立てて、ジワリジワりと二人に迫っていた。
左に開けた道が見えたと思ったら、その方向から気をなぎ倒す音を立て、道を塞ぐように追い込み、一定の距離を保ちつつ、さりとて息をつく隙すら与えないように、距離を詰めてくる。
「まるで、こっちがどこに逃げても……全部分かってるみたいっス……」
岩の段差を乗り越えようとしたとき、マリアの足がもつれて滑る。
手を引いていたエルが引っ張られ、二人して泥水の中にもんどりうって倒れ込んでしまった。
マリアの呼吸が荒れている、乾いた喉の奥から血の味がする。
エルは何も言わない。
顔の泥をぬぐい、マリアの呼吸が落ち着くまで、うつむいたままになっている。
「ケンスケさん…ケンスケさぁん…うっ、ぐぅ…」
かすれた喉を引き絞る様に、マリアの嗚咽が溢れる。
「…そろそろ、行くっスよ」
マリアが落ち着いた頃、エルがまたマリアを引き起こす。
心も体も、限界を超えていた。それでも二人は止まらなかった。
木々の間を縫うように進む。倒木を乗り越え、泥と雨に湿った根に足を取られながら、それでも前へ。
どこまで進んだのかも、今が夜中なのか明け方なのかもわからなくなった頃、エルが何かに気付き、マリアの手を引いた。
「マリアさん、こっちっス」
声を潜めエルがマリアを呼ぶ。
エルが脇の獣道へと身を投げるように滑り込み、マリアもそれに続く。
その直後、二人が通って来た森の一部が爆ぜた。
巨木が倒れ轟音を上げる。さらにそれに追い打ちをかけるような衝撃と振動。
物陰からそっと振り返れば、先ほどまで二人が歩いてきた小道が根こそぎ薙ぎ払われていた。
その土煙と土砂の中で、巨大な剣角を振り回し、岩を跳ね上げ、木々を切り倒しているのは、雨に濡れててらてらと不気味に輝く漆黒の巨竜。
「……あいつ、わざと自分の位置を知らせるように……っ!」
マリアが苦々し気に呟く。
「完全に遊ばれているっス……」
やみくもに逃げてもいずれ追い付かれる。恐らく走ったとしても距離を離すことは難しいだろう。
インサニディウスの追撃には、他の竜種には無い恐ろしいほどの「正確さ」があった。
「逃げるルートを読まれてる?……完全に、あいつの手の平の上っス……!」
エルが唇を噛む。かつてエルフの村が襲われたとき、迎撃に当たった誰かの言葉を思い出す。
“あいつは、ただの竜種じゃない。狙った獲物を分析し、弄び、心も体も追い詰めていく。まるで狩りを楽しむ人間の様だ”
今ならわかる。その通りだった。
「……静かに自分に付いてくるっス」
インサニディウスが音を立てている間に、身を隠さなくてはならない。
エルが見つけたのは古い倒木の裏手、苔とツタ、茂った草に覆われた地面の窪みだった。
そのくぼみにマリアを押し込むように隠す。
エル自身も身を低くし、草の間に潜むようにして気配を殺した。
インサニディウスの足音が徐々に遠ざかっていく。
しばしの静寂――
二人が、ほっと息を吐きかけた瞬間。
…ゥゥン…ズゥウン…
夜の闇の奥から、再び鈍い足音が聞こえてきた。
一歩一歩が重く、するすると木々の間を滑るように動く気配。
戯れて木や岩を切りつけているのか、足音が近付いてくるにつれ斬撃の音が混じってくる。
咆哮は無い。むしろ静かすぎて、それが恐ろしかった。
マリアは口元を押さえ、震えながら目を閉じる。
隠れていれば見逃してもらえる。そう自分に言い聞かせて、祈るように息を潜めた。
「……っ……」
身を隠している倒木のそばを、黒い影がよぎった。
すぐそばを通り抜けていく。
その目は周囲を見渡し、時折振り返ったりしている。明らかに「二人の存在を感じている」ようだった。
インサニディウスは、少し歩くたびに、ゆっくりと首を振るのだ。
獲物の匂いを嗅ぐように。匂いを楽しむように。
「ク……」
エルの額から汗が流れる。
マリアも顔を伏せて、じっと息を殺している。
……数十秒が、数時間にも感じられた。
やがて――その気配が森の奥へと離れていった。
「今……っス……!」
エルがマリアの手を引いた。
体はもう限界を超えていた。雨が体温を奪い去り、身体が鉛の様に重い。一歩踏み出す度に脚が悲鳴を上げる。
だが、まだ止まることなく歩き続ける。
何度も枝が顔をかすめ、何度も泥に足を取られながら。
どこまで逃げればいいのか分からないまま、ただただ逃げ続ける。
それでも、黒い気配はすぐ背後をつけ回し始める。
十数分も歩かないうちに、再びあの地鳴りが迫ってきた。
「くそっ……!」
エルが叫びたくなる衝動を飲み込む。
振り返らない。
そんな暇があったら、一歩でも遠くに逃げる。
森の道が切れた。眼前にはバックリと口を開けた谷の様なクレバス。
対岸までは十数メートルほどの距離がある。
背後には確実に迫ってくる、インサニディウスの気配。
エルが覚悟を決め、アラハバキを励起させる。
その瞬間、速度を増して近づいてくるインサニディウスの殺意。
「マリアさん、飛ぶっス!」
「えっ――きゃあああっ!!」
エルはマリアの腰を掴み、クレバスに向かって跳躍した。
マリアの叫びが響き、エルの着地の衝撃で再び泥が跳ねた。
「う……あぁ……っ!」
すぐさまアラハバキを仕舞い、急いで身を隠す。
間一髪で、インサニディウスが対岸に姿を現した。
周囲に二人の姿が見えないので、しきりに首を振り匂いを追っている。
「あ、危なかったっス」
マリアが地面に膝をつく。
顔を伏せ、もう動けないとばかりに肩を震わせる。
「もう……もう無理……もう嫌っ……」
「マリアさん……」
エルもその場にしゃがみこむ。
連続したアラハバキの励起は、エルの身体に少なくない負担をかけていた。
脚が震えて、立っていられない。
全身の筋肉が焼けている。頭が痛い、視界も暗い。
そして――背後の森から、インサニディウスの咆哮が聞こえてきた。
二人の姿も見えず、クレバスを渡れない状況で、苛立ちの咆哮を上げたのだ。
「嫌ぁ……もう嫌よ……」
マリアが頭を抱えてうずくまる。
もう、あの怪物は姿を見せなくても、その存在の片鱗をにおわすだけで、精神が悲鳴を上げ始めている。
―――この先逃げたとしても、ずっと追い続けられる。
「ケンスケさん……ごめんなさい……私はもう無理です……」
ぽろぽろと涙を流しながら、マリアが呟いた。
エルの背筋に冷たい汗が走る。
「……いずれ追い付かれるっスね」
呟いた声は、どこか吹っ切れていた。
乾いた絶望。
死の淵の開き直り。
そんな風をはらんだ声だった。
「……もう、逃げ切れないっスよこれ」
マリアが独白を続けるエルを見つめる。
森の中、枝葉の間から細い月の光が差し込んでいる。
泥に汚れ、森の枝葉に傷をつけられたエルの白い顔が照らし出される。
「自分、悔しいっス……」
エルが、歯を噛み締めたまま言った。
「自分の家族を、ケンスケさんを殺した奴が目の前にいるって言うのに、ただ逃げるだけなんて、悔しいっス!不甲斐ないっス!!!」
マリアは目を閉じたまま、首を振った。
「……でも、ここで逃げるのをやめたら……ケンスケ様に…命をかけてまで逃がしてくれたケンスケさんに、申し訳がたたない……」
「その結果、あいつに玩具にされながら、みじめに逃げて、泣きわめいて殺されてもっスか」
エルの言葉にマリアが目を見張る。
「ケンスケさんは、確かに逃げろって言ったっス。でもそれは、自分らに生き残って欲しいからっス。
少しでもあの状況から良い方向に向かって欲しいって想いからっス」
それが、この様は何なんスか!――エルの乾いた声は、いつしか心の底から湧き上がる怒りに染められていた。
ケンスケの死、逃げ惑うしかない自分―――理不尽に対するやるかたない怒りの声だった。
「自分は嫌っス!これ以上は全部嫌っス!
逃げるのも、あいつを怖がるのも、何より、あいつに舐められるのは、絶対に嫌っス!!!」
お前は違うのかと、エルがマリアを問いただす。
この理不尽を諦めて受け入れるのかと。
その正当な怒りが灯った両の瞳でマリアを睨め付けた。
マリアは問う。自身に問う。
ケンスケの死は無駄なりや―――否
ケンスケの仇から逃げる事は是なりや―――否
ケンスケの仇は恐ろしきなりや―――否
ケンスケの仇に侮られ、弄ばれし事は是なりや―――否
否、否、否否否否!
断じて、否っ!!!
「ならばせめて、一太刀だけでも……」
マリアの瞳に暗い火が灯る。
「ケンスケさん、お一人では逝かせません」
マリアが杖を支えに立ち上がる。
それでこそだと、エルが頷く。
「あの世への案内は、自分に任せるっスよ蜥蜴野郎」
アラハバキを肩に担ぐと、エルはゆっくりと歩き出した。
足取りはおぼつかなかったが、その怒りに満ちた目だけは真っすぐに前を見据えていた。
「一矢……報いるっス。
あいつに、自分のやった事を後悔させてやるっス……!」
「這いつくばらせ、腹を見せて許しを請わせてやるわ…」
マリアの全身に、白く輝く魔術模様が浮き出ている。
残された魔力をかき集めて、限界の身体を無理やり動かしている。
「死ぬのは怖い。でも……このままめそめそと嬲り殺されるのは、もっと怖い……」
「大丈夫っス。ケンスケさんなら、よく頑張ったって褒めてくれるっス」
「…そうね。あの方は優しいから…ちょっと困った顔で笑って、頭を撫でてくれるかしらね…」
「じゃあ、ケンスケさんに顔向けできないような戦い方は出来ないっスね」
向かう先の森から、咆哮が響いた。
それは、二人の決意を嘲笑うかのような咆哮だった。
だが―――二人はもう、背を向けなかった。
どれだけ醜く、どれだけ短い抵抗でもいい。
ただ一度でいい。あの怪物に、痛みを刻み込む。
それが、ケンスケの遺志に報いる、唯一の償いだと信じて。
少し開けた岩場に、インサニディウスが立っていた。
まるで、二人を待っていたかのように、ひときわ高い岩の上から見下ろしている。
つややかな黒い甲殻に覆われ、黄色く光る眼だけが、ニタニタと歪められている。
その頭部から伸びる長大な剣角は、月明りを受けて巨大な刀剣の様に輝いている。
しかし、今やそれすら恐怖ではなくなっていた。
―――あれが、ケンスケさんの命を奪った―――
―――ぶち折ってやるっス蜥蜴野郎―――
マリアとエルの目に、どす黒い怒りの炎が立ち上る。
マリアに浮かび上がる魔術模様の輝きが増す。
その手には、白銀に輝く槍と盾が握られている。
同時にエルもアラハバキの三重発動機に火を入れた。
筋肉が悲鳴を上げながらも、全身にエネルギーが満ち、長く伸びた髪と瞳が黄金に輝く。
二人とも同時に獲物を構え、吠え猛るインサニディウスを睨みつけた。
「……よくも舐めくさってくれたわね……」
「……腕の一本や二本で済むと思わない事っス」
月が輝く夜空の下で、覚悟を決めた二人の戦いが始まる。
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