第八十九話・半:ガルマニアからの使者
第八十九話・半:ガルマニアからの使者
時間は、少し巻き戻る。陵真が睦月と話をする、前日に事は起きた。
唐突だが、金の話をしよう。
この世は――というより人間社会は、価値を保障された貨幣で成り立っている。俗物的に言えば、この世は金で回っているのだ。
何をするにも金がいるのは、子供だって何となく知っている。服を買うのも金がかかる。土地を買うのも、そこに家を建てるのにも金はかかる。食べ物だって、ただでは手に入らない。商売にだって元手がいる。
金がかからないものはない。何かしたいのなら、何か欲しいのなら、欲求を満たす分だけの金がいる。人間社会とはそういうもので、例外は数少ない。
もちろん、VRMMOの運営にだって金はかかる。けれども、金というものはわいてくるものでも、降ってくるものでもない。
何かと引き換えに得られるものだ。それは時に労働であったり、その人が持つ正当な権利に基づくものであったりする。他にもごく稀に、幸運によって転がり込んで来ることもあるだろう。
しかし、その金はどこかから持って来たり、与えられたり、受け継いだりするものであって、何も無い所から幸運にも金がわいた、なんてことはごく稀にも起きたりはしない。
「どこから金を用立てた」
だからこそ今、
「……」
眼下に青く光るビルが並び立つのを眺めることが出来る、高層階の一室――ではなく、【あんぐら】運営部の大本陣となっている、安っぽい雑居ビルの一室に二人はいる。むき出しのコンクリート壁が何とも寒々しく、足下に引かれた安物のカーペットはすれきってしまっている。当然のように、窓から見える景色は下々の景色だ。面白みがなく、夢もない。
ソファも穴あきで、合成皮革の隙間からは中の詰め物が覗いている。煤けた電灯が息切れを起こすように、チカチカと点滅しながら二人を照らした。そろそろ代え時といったところだろうか。
人払いをさせられた部屋の中には、陵真と笹原しかいない。先程からずっと、気を抜けば押しつぶされてしまいそうな、重苦しい空気が漂っている。
陵真は笹原と話していると冷や汗が出る。その瞳は爬虫類のように温度がないし、彼は陵真のやることなすことに文句をつけるからだ。迷惑なことに、時に実力行使さえいとわない。
「あー……」
「答えろ。口座も止めた。アイオ公爵家にも手を回した。その他、考え得る限り金だけは出すな、と方々に圧力をかけたのに、どこからそんな金がわいて出た」
やはり、と。陵真は、押し殺した声で囁かれる笹原の告白に目を細める。どうりでどこからも、資金がいっせいに途絶えたはずだと。
あの日、笹原と意見が分かれて数時間もしないうちに、出資元が一時的に金は出せない、と言い出したのもそのせいだろう。
「金はわいたりしませんし、降っても来ませんよ」
「
「そんなことをすればすぐに足がつく。貨幣はどれも魔力を含む。蓮は確かに貨幣を“移動させる”ことは出来るでしょうけど、“造る”ことは出来ない」
作り出せないものはどこかから持ってくるしかない。錬金術で貨幣を出すという表現は成立しないのだ。正しく言い換えなければならない。錬金術で、銀行から貨幣を移動させる、と。
しかし、そんなことをすれば当然足がつく。銀行は貨幣の番号を必ず控えているし、一般人から少しずつ奪うにも難しい。結局は謎の盗難届が乱立し、すぐに原因はつきとめられる。物理法則には万能な錬金術も、人間社会の内では万能にはなれない。
「……正直に言えば、考慮する余地はある」
しかし、金の出所を聞きながら、彼は本当のところはわかっているのだ。彼の権力にかかれば、そんなことぐらい突き止めるのは造作も無いに違いなかった。
「ガルマニアから……だろう?」
そう。金はガルマニア政府が出している。それも、莫大な金額を。方々の制止を押し切り、黙らせ、ゲーム1つ回し始めるのには十分な額。
感情の読めない表情で、笹原が核心を陵真に問う。しかし、陵真はそれぐらいの警告に折れたりはしない。
「あれは、正式に私が貰いうけた個人の財産で、笹原さんに探られる権利はありません」
静かにそう返す陵真に、笹原は温度の無い目で一枚の紙切れを差し出した。それを無言で陵真の手に握らせ、そのまま踵を返す。
「ちょっと」
思わず硬いソファから腰を浮かせ、そのあっさりぐあいに危機感を覚えた陵真に、笹原は冷たい声で言い放った。
「精々――自分でどうにかするんだな」
彼はそのまま振り返らずに、彼に似合わない雑居ビルから颯爽と立ち去っていった。
これは笹原が出ていって、陵真が握らされた紙切れの中身を読んでしまった後の事だ。
彼はその内容に目を通し、自分の触れてほしくない部分に、無遠慮に踏み込んで来た輩の出現を悟った。
彼にとっての悪夢。憎しみのない困惑の元凶。悲しみと後悔に彩られる、陵真の心の柔らかい部分に、誰かがナイフを振り上げたのだ。
良くも悪くも、有名人の親族というものは大変な立場にある。
例えば親が。兄弟姉妹が、祖父や祖母が、叔父や叔母が、実の子供が。世界に名を
それは時に否定的なものだったり、肯定的なものだったりと様々だ。
ある人は、やはり同じ血が流れていても、天才に偏ったぶん他はぼんくら、と蔑みの言葉を口にする。
ある人は、やっぱり同じ血が流れているんだからきっと秘めた才能があるんだわ、と憧れを口にする。
言う方はさほど考えはないだろう。ただそう思ったから言っただけ。特別に悪意を込めて囁かれる言葉は別であろうが、大抵の人は〝何も考えずに〟そう言うのだ。
誰も彼もが、その道のりを見ずに結果だけを見て
「そこへ至る道のりの――その一歩すら考えないで――ッ!」
絞り出すようにそう吐き出すのは、呼気の荒い男だ。
手始めに掴んだのはテーブルに置かれていた彼自身の携帯だった。高級端末は乱暴に掴み取られ、その値段に見合わない扱いの下、悲鳴を上げるように甲高い音を立てて金属棚にぶち当てられた。当然のように液晶には蜘蛛の巣状に
「誰も――!」
光の絶えたそれを、大股に踏み出した一歩で砕く。革靴の下で機体が割れ砕け、安っぽい床に傷を残しながら踏みにじられる。
完全に形あるものを崩し切り、無意識に次の獲物を探して目を上げれば、物が見えた。彼にとって、今はそれだけの理由が破壊衝動に結びつく。
「彼も――!」
激しい語気と共に金属棚が掴まれる。細身とはいえ、成人男性が怒りのままに腕に力を込めれば、さほど物が置かれていないそれは動かないわけではない。
五指が物を掴み、腕にこめられた筋肉が動く独特の停滞の後、ぐらりと2メートルほどの金属棚が傾ぐ。勢いは止まらず、それは陵真の腕に引きずられて思い切り壁に放られた。
派手な音と共にそれが壁にぶち当たるが、陵真は違和感に眉根を寄せる。音が、聞こえない。聞こえなかったということは大した衝撃ではなかったのかと思い至り、再び手近な物を掴もうとしてろくに見もせずに腕を伸ばした。
がり、と違和感に陵真は振り返る。見もせずに何かを求めて伸ばした腕が、硬いコンクリート壁にぶち当たり、そのまま滑る途中で壁の
小さくは無いその罅に引っかかったままの指を無感動に見る黒い目に、正気があるとは言えなかった。
「なんだよ……」
腕に、力がこめられる。
「なんだよ……っ」
そうすればどうなるか。わかっていて、陵真はやった。
「誰も彼も! 何も知らないくせに――!」
彼は叫びながら腕を振り抜き、引っかかったままだった爪がそのまま半ばまで剥がれかけた。血が吹き出し、赤色がコンクリートに斑模様を描いていく中、異常な音と叫びに異変を察した他の所員達が慌てて部屋の扉を開く。
「――出ていけ!」
間髪入れず、叫びと共に陵真は部屋に踏み込んだまま絶句する所員たちを振り返る。普段からエキセントリックだとか、不安定だとか口にしていた所員達も、その異様な様子に思わず押し黙った。
その隙に陵真は爪が剥がれかけている右手でペン立てを掴み、それを扉を開いたまま硬直している所員に向かって投げつける。
「……社長!」
「出ていけと言ってるだろう!」
彼の最後の良心か、足元を狙って投げられたそれによる被害は無かった。しかし、いつも所員達に気を配ってきた陵真らしからぬ暴挙に、誰もがただ事ではないのだと察しただろう。
「何が……!」
思わず、といった様子で叫ぶ若い所員の口を塞ぎ、三十代ほどの男が静かに宣言してから、一歩下がった。
「……外で待ってます」
彼はそれだけを言い、そのまま他の所員には目配せを。若い所員は力づくで押さえながら、下がっていく。
彼等が暗い廊下の闇に呑まれ、見えなくなったのを確認して、陵真はまだ名残惜しそうに掴み、投げるものを探して視線を彷徨わせる。
俯き、震え、彼は目に涙をためながら必死になってそれを探す。
だらりと力なく垂れた右手から血が零れ、床に小さな血だまりを作った。投げる物を探しても、元が殺風景な部屋だ。もう、手近に投げる物はない。床に横倒しになった金属棚をもう一度投げてみる? それとも粉々になった携帯を窓にでもぶつけてみようか――。
「……誰も」
陵真だって、分かっている。物を投げても、爪を剥がしてみても、叫んでみても。何も変わらない。現状は変わらないのだ。前にも何度も試してみたけど、これで何かが変わったことなんて無かった。
何も変わらない。陵真がどんなに泣き叫んでも。どんなに自分で自分を痛めつけても。何一つ思い通りにはならない。
血を見た頭がふらりと傾ぐ。壁にもたれ、そのままずるずると座り込み、膝を抱えて閉じこもる。ぶつぶつと、何事かを呟きながら、彼はじっと膝を抱えて動かなくなった。
あれから、更に数刻が経っていた。暗かった夜はもうじき明けようとしていて、窓越しに心を浮つかせる色合いの空がだんだんとせり上がってきていた。
相も変わらず、陵真は動かない。膝を抱え、そこに顔を
次第に、呼びかけの声に不安が混じるようになっていく。このままずっと、陵真から返事がなかったら? 完全に、壊れてしまっていたとしたら?
そんな不安が所員達を取り巻き、一人、また一人とその重さに耐えきれずに部屋を
部屋に出たり入ったり、根気よく呼びかけを続けていた所員も、他の所員にとりあえず寝ろと言われるようになってきた頃。誰も部屋に入ってくることがなくなり、部屋はしんとして静かになった。
朝になり損ねている空から差すわずかな光が床に描く模様を、抱えた膝越しに眺めていた陵真に、ふと誰かの声がかかる。
男の声。穏やかで、芯のある声が陵真に届いた。
「――もし」
その呼びかけに、陵真は答える気が無かった。他の誰に対してもやったのと同じように、無視しようとそっと目を閉じた瞬間だった。
「もし、神様」
――神様。その単語に、閉ざされかけた瞳は血走ったまま見開かれ、ずっとうつむいていた顔は跳ね上げられる。現実世界で、この世界で、その名を呼ばれるのは陵真にとっては特大の皮肉か嫌味だからだ。
すぐさま、怒鳴りつけてやろうと口を開きながら顔を上げて、血走った目でその不愉快な呼び方を口にした男を見て――陵真は流石にぽかんと驚きに口を開けた。
ミディアムカットの黒髪、少し垂れた穏やかな目元。不敵な笑みを浮かべるその顔の少し先、首筋の後ろに刻印がある。奴隷の
「……
閉じこもってから数時間ぶりに驚きを覗かせた陵真に、博樹は〝神様〟に対する名乗りを通した。現実世界で、VRの中の存在を引っ張り出して、仮想世界にだけ存在するはずの男の名前で、
「――私は〝フベ〟と申します。ガルマニアより使者として参りました」
驚きに目を丸くする〝神様〟に、彼は堂々とそう名乗った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます