第八十五話:その決断が心根を暴く

 


第八十五話:その決断が心根をあば




 とぶささんに外に放り出された後、ポケットの中にいつの間にか入っていた地図を頼りにたどり着いたその先は、攻略組が設置した簡易テントだった。

 血気盛んな新規プレイヤー達を外へ連れ出すのに必要な、【見習い地図士】のアビリティが込められた晶石を統括ギルドと連携し、配っているらしい。


 地図の片隅には走り書きで小さく、『適当に話しかけてみて』とだけ書かれているが、適当に話しかけてもいいのか迷うほど誰もが忙しそうに動き回っていた。

 今、今週中で一番混んでいる、という誘導係のお兄さんの言うとおり、テントの中は人でいっぱい。いや、正しく言えば、テントの中も外も人でいっぱい、という有様だった。


「まったく、テスト組ならどうしてもっと早くこなかったの」


「金が用立てられなくて……いらないと思ってたら、ついさっき急に雇い主から【見習い地図士】のアビリティを購入してこいと……」


 別に自分が悪いわけではないのに、たしなめるようにお兄さんにそう言われ、思わずしどろもどろになりながら言い訳を並べてみる。

 雪花は人混みを見て遠い目をしているだけで、並ぼうという意欲さえわかないようだ。橙とネブラを乗せたギリーと共に、嫌そうに後ろにずりずりと後ずさっている。


「いらないと思ったってことは……“魔王軍”とこの人?」


「――え? なんだって?」


 一瞬でぴんと来るには来たが、ちょっと認めたくなくて聞き返せば、お兄さんは澄ました顔で、一応の正式名称である“名も無きギルド”と言いかえる。おもむろに嫌そうな顔をしたのを見て取って、お兄さんは、あ、違うんだ? と小首を傾げた。


「違います……あー、知ってますかね。【ぐらてれ】の――」


「あ、あー! なるほどそっちか!」


 知ってる、知ってると何度も頷きながら、お兄さんは妙な笑みを浮かべ、よかったねぇ、と言いながら腰元のポーチから小さな袋を取り出した。麻の袋が2つ。中に小瓶らしき膨らみが確認できた。


「朶さんって人から伺ってるよ。普通より多く払うから、2つほど【見習い地図士】のアビリティを確保しておいてくれって」


「……そうきたか」


 普通より多く払うって勝手に……と思っていれば、何か察したのか、お代はすでにもらってるよ、とひらひらと手を振ってみせた。

 お兄さんはそのままそれを、驚きに目を丸くする自分の手に握らせながら、頑張ってね、と期待のこもった視線を向けてくる。


「頑張るって……」


「【ぐらてれ】だよ! 彼の話聞いたよ。激戦だったらしいけど、公式の放送枠勝ち取ったんだってね、おめでとう! 俺、あの動画サイト好きで結構見てるんだ。そこに今回、【Under Ground Online】が公式参加って聞いてわくわくしてたんだけど――いやぁ、まさかプレイヤー自身による生放送が認められるなんて! VRだと初だよ!」


「……」


 いや、なんか知らない話がいくつか混じっていて、お兄さんが言っていることをかみ砕くために数秒、自分の動きが止まった。

 3秒ほどかかって短く息をつき、理解するための追加情報を求め、自分の唇が質問を紡ぐ。


「その動画サイトの名前って……」


「『DDD(でぃーでぃーでぃー)支部局』」


「――う、わホントですか!? 知らなかった、【ぐらてれ】が公式枠で投稿されるんですか!? しかもVR初の生放送!?」


「え、ちょっとなんで君が知らないのさ、いやでもそうだよ。あ、もしかして見てる? 誰が好きとかある?」


「え、やっぱり一番はARリアル実況のパープルさんでしょう!」


「うっそマジで!? うわ嬉しい、あり――いや、そっか、そっか、俺はリアル課金組の魔女ラブさんが好きなんだけど!」


「魔女ラブさんのも見てます! すごいですよね、リアル課金であそこまでのハイペース投稿!」


 突然のことで驚いたが、理解が及んだ途端にテンションが跳ね上がった。動画投稿サイト『DDD支部局』は、ARとVRの投稿動画だけを取り扱うサイトで、主に一般の人の自由投稿による作品群によって成り立っている。

 出資、企画はアイオ公爵家の分家が行っていて、AR・VRの動画サイトの中では最も規模が大きい大手サイトだ。


 その中でも、ARはともかく、VRの生放送は今まで現実世界との時間の差。協定で定められている3倍の時流が問題となり不可能とされてきたのだが、今回の時流の追加に伴い、学習性AIを間に挟んで調整すれば生放送も可能になったのだという。というか、そんな面白い話、今知ったんだけど。


「うわぁ、すごいですねそれ! リアルタイムでVR実況が!」


「3倍の時流だと処理時間が膨大になるから難しいと言われてたけど、1.3倍なら優秀な学習性AIを間に入れれば可能なんだってさ。だから期待してるんだ。頑張ってね! ほんと、応援してるから!」


 最後に握手まで求められ、盛り上がりに盛り上がってから特殊晶石を受け取って互いの仕事に戻っていく。人混みから後ずさっていた雪花の元に戻れば、今度は自分に向けて遠い目を向けてきた。


「ボスが遠い」


「失礼な、雪花お前見てないの!?」


 パープルさんのダンジョン潜入記とかすごい面白いから絶対見るべきだ、と熱く語るも、はいはいはい、と肩を押されて流される。


「いいから帰るよ!」


「そんな! 話聞けよ! 凄いから、絶対面白いから!」


「ボスが動画見るの好きなのは分かったから、ほらネブラ持って。ずっと待ってたんだよ」


 ひょいと渡されたネブラはもう限界だったようで、見ていて哀れなほど必死に自分にしがみつく。どうも橙は、雪花かギリーか適当に誰か知っている人間がいればいい、という呑気な性格のようだが、ネブラは自分以外とお留守番をさせると相当なストレスがかかる神経質な性格らしい。


 滅多に鳴かないはずのネブラがぎゅいぎゅい言い始めたら、相当不味い兆候だ。腕に抱えて赤子にするように揺すりながら、ネブラを宥めつつ仕方なく動画語りを諦める。


「えーっとそれで? 何するんだっけ」


「それ考えるのがボスの仕事だから」


「……あー、メッセージ来てる。中央広場で王霊祭のイベントを録画してるから、適当に楽しんで、だってさ」


「手伝わなくていいって?」


「いいってさ。ネブラに構ってあげなさいって」


 朶さんのメッセージを呼んで、その慧眼けいがんに舌を巻いた。確かに、このまま【ぐらてれ】の仕事に突入し、これ以上ネブラを構わないでいたら、危うくイベント中に暴発していたかもしれない。


 自分はまだいけるだろうと甘く見ていたが、今のネブラの様子をよく観察すれば、確かにそろそろ危ういように見える。つんけんしているから勘違いしやすいが、これでもまだ生まれたばかりで甘えたい盛りなのだろう。


 橙よりもぐいぐいとくっついてくるネブラをよく見れば、蓋氷がいひょうとよばれる薄青の覆いの向こうに見える瞳が、どことなく潤んでいるようにも見える。まあ、ネブラに構いながらゆっくり儀式見物も悪くないだろう。


「ごめんね、ネブラ。ほら、時間が出来たから、久しぶりに遊ぼう」


 そう言いながら抱えなおせば、感動したように目を見開き、ネブラが突如とつじょ甲高い声で鳴いた。ぴゅーい、とまるでたかのような、フィニーの声に近い鳴き声。

 独特で、耳につくその声に周りが一斉に振り返り、一度に大量の視線を浴びたことでネブラの羽毛がぶわりと逆立つ。威嚇するのは信用ならない他者への恐怖からだ。


「ほらネブラ。大丈夫、行こう」


 すぐに自分の身体で抱え込み、周りの視線からネブラを隠す。恐怖から逆立った尾をキツク自分の腕に巻き付け、鋭い後ろ足の爪が分厚いコートに穴を開けた。


「雪花」


「はいよ」


 皆まで言わずとも察した雪花が、ポーチから取り出した布で自分の腕ごとネブラを覆う。毛布の上からしがみつかれていないほうの腕を添え、足早に道を行く。


 とりあえずは少しでも、人が少ない場所に行くべきだろう。三王を呼び出すという儀式までにはまだ時間があるし、一度、宿屋で休憩しようと、朶さんも加わり、3人で借りることになったベイツの宿屋へと直行する。祭りはいいのかい、とぶっきらぼうだが聞いてくれるベイツに、ありがとう、大丈夫と答えながら部屋に戻ってネブラを覆っていた毛布をどける。


「戻ってきたはいいけど、そろそろ出ないと〝花導はなしるべ〟の授与式に間に合わないよ? ボス、獣王からハリマ元樹の花、もらいたかったんでしょ?」


「――〝花導〟は欲しいけど、ネブラが」


「ネブラ?」


 首を傾げる雪花の真似をし、呑気に同じポーズを取る橙は問題ない。しかし、雑踏からも離れ、知らない人間の視線からも解放されたはずのネブラの羽毛は逆立ったままで、指先で探れば羽毛どころかその下の鱗までがっちがちに逆立っていた。竜としては小さな身体も小刻みに震えていて、ふーっ、ふーっ、と落ち着きのない浅い呼吸を繰り返している。


「ネブラ? ネブラ、大丈夫?」


 寒い、わけはない。本来なら氷雪渦巻く大陸に生まれ育つはずだったネブラにとって、ログノート大陸では秋といえども涼しくもないだろう。ならばこの震えは寒さからではなく、何か別の原因があると考えるべきだ。


「――雪花、ベイツに部屋に近付くなと」


「わかった」


 ネブラの異変に眉を潜めた雪花が即座に頷き、扉を開けて伝言を伝えに行くのを尻目に、素早くメニュー画面を立ち上げる。ボイスチャットを繋ぎ、登録しておいた名前をタップ。数コールの後に、慌ただしい男の声が聞こえてくる。


『どうしたね、何かあったのかい?』


 獣医、アルトマンの声が耳に響く。ネブラには聞こえていないことを確認して、手短に済ませるべく口を開いた。


「ネブラの様子がおかしいんです」


 細かい経緯を手短に話し、どう思うと問えば落ち着いた声が答えを返す。それはやはり、ストレスだろうと。


『氷雪系のモンスターはどの子も神経質な部分が大きい。仲間以外の生き物の視線、息づかい、存在を近くに感じるだけでストレスを感じる学習性AIが多いんだ。一説には、氷雪地帯に住んでいるのは、感じ取る命の数を物理的に減らすためではという論文さえある』


 卵が先か、鶏が先かという話だが、生物の気配ですらストレスになるのは事実だ、というアルトマンの声に、自分は思わず片手で額を抑えた。すぐに自身から腕が離れたことに、軽いパニックを起こしたネブラが、気が違ったように悲鳴のような声を上げる。


『大丈夫かね!?』


「大丈夫です。ネブラ、ほら服の中においで、大丈夫。大丈夫だよ――すみません、切ります」


 ネブラの悲鳴にびっくりした顔をして立ち上がり、あわあわと慌て出す橙に目配せをすれば、賢い橙はすぐに自分が腰かけるベッドに飛び上がり、シャツの中に潜り込ませたネブラに服の上から寄り添うように膝に乗って身体を寄せる。


 宥めるように、ぐあぐあ鳴きながら寄り添う橙ごとネブラを抱えつつ、もう一度メニューを開いて今度は違う人へとボイスチャットを繋ぐ。


『はい、何かな』


「朶さんの予想通り、ネブラが限界みたいで、もうこのまま外に出ます。ログアウト時間が来ても大丈夫なように、自分と雪花でログアウト時間をずらさせてもらいます。朶さんには申し訳ありませんが、ギリーもいるので問題はないかと。外で集合でもいいでしょうか?」


『私はそれで問題ないよ。けど、〝花導〟はいいのかい? 獣王に約束したんだろう、会いに行くって。そのためには、〝花導〟はどうしても必要なアイテムだ』


「――――」


 〝花導〟。そのアイテムに、自分が三王の儀式に拘っていた理由がある。節気についての文献でも語られる、『花を授けられし者こそが、後に王とまみえる者となる』という言葉の通り、竜王、精霊王、獣王と邂逅かいこうするためにどうしても必要なアイテムが、この儀式で三王それぞれから誰か一人に授けられる、ハリマ元樹の花なのだ。


 黄麗おうれいとも呼ばれる、麗しい黄色に輝く花。三王から人に贈られるそれは〝花導〟と呼ばれ、三王と会うための〝資格〟を得た証なのだという。

 それは受け取った瞬間に認められ、その後は花を捨ててしまっても、その権利は誰に奪われることも変わることも無い。


「――問題、ありません」


 絞りだした言葉に、通話向こうの朶さんが嫌な沈黙を挟む。わかってはいる。来年、また同じように祭りは開かれる。しかし、今年現れなかった自分に、獣王は花を渡さないだろう。


 三王達は毎回、必ず花を授けるわけではない。当然のように、気に入る人間がいなければそれを授けない。それ以上に、獣王と直接話した自分は、彼がどんなふうに考えるかも何となくの察しはついていた。


『……君から聞いた話を纏めるに、獣王は来年訪ねても〝花〟はくれないと思うよ』


「……」


 朶さんから、自分の甘い願望をはっきりと切り捨てられて黙り込む。自分でそう予測するのと、同じことを他人からはっきり指摘されるのは重みが違う。

 きっとそうだろうとは思うけれど、もしかしたら、という気持ちが朶さんの言葉で息を止めた。おそらくその考えは、正しい。


「……でも」


 それでも。


「大事なんです」


 たとえ、後悔したって構わない。今は、


「ネブラのほうが、大事なんです」


 自分の決断を聞いた途端に、ネブラの震えがぴたりと止まった。
















































 雪花とギリー、その上に橙を伴い、自分は〝始まりの街、エアリス〟の5番路を走っていた。しばらく離れるというのに、別れの感慨かんがいを持つ暇も余裕も無い。自分の決断を扉の外にもたれて聞いていた雪花は無言で出立の準備をしてくれたし、ギリーは元より自分の判断に疑問を持たない。


 橙はギリーの背に大人しくしがみつき、時折不安そうにネブラを見る。震えこそ止まったものの、未だにネブラは浅く荒い呼吸を繰り返している。ここは、命の数が多過ぎる。ネブラにとって、地獄だったろうに今日までずっと耐えていたのだ。

 気が付く余地はあった。人の視線を気にしてずっと毛が逆立っていたとか、あまりにも声を上げないこととか。


「もっと早く気付くべきだった」


 苦々しい思いと共に唇を噛みながら、初めてこの街に来て歩いた道を、今日は旅立つために走っている。人々が慌ただしい雰囲気に振り返る視線からネブラを守りつつ、走り続ければようやく5番と大きく書かれた門が見えた。

 勢いのまま走り抜けようとした瞬間に、思わず予期せぬ影を見つけて足が止まった。


「――」


 勇者は、こう評したという。



 〝三角の耳。暗闇で膨らんだ黒目〟



 背景には、竜王の爪が突き立つ、広大な草原が広がっている。もうじき5時になる。空は朱と藍の斑になり、下方はすでに紫のかすみのようになっている。じきに、完全に日も沈む。



 〝緑の目が悠々と輝き、その〝猫〟は血肉の上に腰を下ろした〟



 何故、誰も、問題にしていないのか。


 そう不思議に思ってしまうほど、眼前には異様な状況が出来上がっている。鳥と、ハイエナと、犬と、猫と、ガゼルのような生き物と。ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた血肉と内臓は、妙にデフォルメされていて、現実離れしていることが殊更ことさらに違和感をかき立てる。


 その上に座っている物体が生きているのが不思議なほど、積み上げられた死の上にそれがいる。

 緑とも青ともつかない色の瞳が、夕暮れに焼ける草原で、数えられないほどの〝死〟の上で瞬く。


 彼は、小首を傾げる。


『やあ、人の子よ。どこへ行くんだい?』


「――」


 答えに詰まる自分に向かって、やあやあ、実は全部分かっているんだけどね、と猫が言った。


「なら……どうして、ここに?」


 恐る恐るの問いを聞き取り、猫は、獣王はその長い尾をひゅっと振る。彼の癖だ。面白がっている時、獣王はあんな風に尾を横に振る。

 何でもないように獣王は言う。花が欲しいかと思って、と。しかし、不意の希望に自分の瞳が輝く前に、獣王はこうも言った。


『今、戻れば、花をあげるよ』


 けれど、来年はあげはしないよ、とも。


 雪花が、何か言いかけて口を開いたが、すぐに閉じて唇を噛んだ。緊張に構えてはいるが、あまりの圧迫感にこの場にいる誰も動けはしない。もし動いたら、次の瞬間には猫が喉を裂いているかもしれないなんて、妙な不安が掠めるから。


『選んで、ほら。もう一度。あのカメラマンから聞くよりはっきりするだろう? ちゃんと、私の口から聞いたほうが、その決断に重みが出る』


 このチャンスを逃せば、約束は果たされないかもしれない。でももしかしたら、そんな花など無くても、方法は見つかるかもしれないだろうと屁理屈をこねる自分がいる。

 どちらが得かを並べる自分がいる。見えない天秤が揺れている。何を乗せているのだろう。何を乗せれば、後悔しないだろう。どちらかが正しいというわけでもない。


 ネブラがちょっと我慢してくれさえすればいいんじゃないか? ちょっとだ。少し、ストレスがキツイかもしれないが、でも一生じゃない。ほんの少し、花を貰う間だけ。

 獣王との約束はこれっきりだ。そう比べれば、ネブラよりも獣王との約束のほうが合理的に考えてチャンスが無い。


『そう、論理的に考えれば、引き返すべきだ』


「……」


 獣王の優しげな声が、自分の向かうべき方向を変えるように迫る。街に戻るか、このまま出るか。二つに一つの決断だ。片足が浮いた。その足が、前へ踏み出す一歩なのか、後ろへ戻る一歩なのか。簡単な選択だ。合理的に考えれば――、


「――なぃ」


『……聞こえなかった』


「――花なんて、いらない」


 合理的に考える必要なんて――ない。何が一番大切か。何を天秤に乗せるべきか。ネブラの気持ちを乗せたなら、その天秤がどちらへ傾くかは決まっている。


「今年来なきゃくれないって言うなら、そんなものいらない!」


 勝手に自分で制限をつけて、約束を台無しにしようとするのは獣王自身だ。そうまでするなら、選ばれなかった悲しみを語る権利なんてない。そうしたいなら、そうすればいいんだ。


「急に現れて、言いたいことはそれだけか――」


 低く、唸るようにそう問えば、目を丸くしていた獣王は目を細め、にっこりと笑ったように見えた。


『だから、君のことは忘れられなかったんだ』


 幸せそうに、猫が言う。塞いでいた道を退き、尾で行く先を示せば血の臭いさえ感じ取れたはずの血肉の山は幻のように消え去っていた。

 戻らないなら、花は渡さない。さあ、行くと良い、と言いながら、獣王は自分達に道を譲る。浮いた片足が、前進した。前へ踏み出したそれが繰り返され、段々と駆け足になっていく。


 ネブラのために街から離れるべく走り出した自分の耳に、背後に置いてきた獣王の声が、追いすがるように届いた。



 〝君の決断は――正しい〟と。



 水面みなもに落ちるような声だった。








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