-12話 『修行と別れのワンコ神』
「ふう……ゴチソーさまでありんすワン」
弁当を食べ終わったちゃーこは、食後のストレッチをしようと軒下から這い出し、前足もとい
「……あれっ!? な、何でありワンすかこれ!?」
やっと、自分の体の異変に気付いた。
ちゃーこは握り飯を食べている内に、人間の姿へと変貌してしまったのだ。
五歳程度の少女。そして全裸。
「何でって、あたしの方が聞きたいんだけど。チャカ子ちゃんは、その姿になれるって事を自分でも知らなかったの?」
「うん……こんなん初めてでありんすワン……」
ちゃーこは不安そうに返事をする。
するとそのしぼんだ気持ちに呼応するように、白い子犬の姿に戻った。
「……っ!? おお……も、戻れたでありんすワン!」
「うへー。犬から人、人から犬になれるのね。外国の活動写真みたい」
ちゃーこは活動写真、つまり映画が何かさえ知らなかったが、目の前の人間が『良い人』だと言うのは分かった。
喋っても怖がらないし、餌もくれたし、野犬駆除団体に引き渡す事もしないだろう。
もしかして、この女性ならば自分の天国――飼い主に、なってくれるかもしれない。
頼んでみようか。でも断られたらどうしよう。
少しの間迷ったが、聞いてみないと始まらない。
「あ、あの、ウチは……ウチを……」
「ねえチャカ子ちゃん。あたしと一緒に暮らそうよ!」
「……えっ?」
そしてその日からちゃーこは、チャカ子と呼ばれるようになった。
◇
チャカ子の新たな飼い主は、二十代前半の女性だ。
名前は
心眼流亜系真奥派、当主の娘。
彼女自身は特に剣術を得意とし、その端麗な容姿と快活な性格から『剣術小町』と評され、門下生やご近所さんに慕われている。
彼女は後の、テルミ達の曾祖母である。
チャカ子いわく、花実の容姿はテルミに「そっくりでありんすワン!」との事。
そして、チャカ子と出会った頃の花実は……
「お花ちゃんって、お腹がとても大きいでありんすが……しばらく
「まあ、やあねえ。便秘じゃないわよ、この中には赤ちゃんがいるの」
「ワンと!?」
子を宿していた。
彼女の夫は婿養子。それも武術家でなく貿易企業のサラリーマン。しかも長男。そして当時ではまだ珍しい恋愛婚。
相手方の家にとっては、跡取り息子が他に行ってしまう。
真奥家にとっても、武術の跡取りにはなれない婿。
両家ともに猛反対したのだが、
「もうお侍の時代じゃないの! 家が決めたお見合い婚って時代じゃないの! 家督なんてのも形骸化した古臭い風習よ! 自由恋愛って言葉知ってる!? 例え跡取り不足になろうが、身分違いだろうが、国籍が違おうが、兄弟姉妹同士だろうが、愛を妨げるのはナンセンスなのよ!」
と、近代恋愛論と自前理論を混ぜて強引に説得した。
父は「いや兄弟姉妹は駄目だろ……」と言いつつ、当時事件にもなっていた心中……は娘の性格的に無いにせよ、駆け落ちくらいは平気でやってのけるかもしれないと思い、渋々折れた。
夫の方も時間をかけ両親を説得し、弟に跡を頼むという形でなんとか話が付く。
というわけで真奥家当主である父は、花実の腹にいる初孫が男子である事を切に望んでいた。
「お花ちゃんの赤ん坊、楽しみでありんすワン」
「あらチャカ子、また人間の姿になってるわよ」
「ワン!?」
チャカ子は花実に拾われた日から、嬉しくなると人間に変身してしまうようになっていた。
当然変身後は全裸。
花実はチャカ子に羽織らせるため、いつも小さな浴衣を持ち歩いた。
チャカ子の変身を知っているのは花実だけ……ともいかず、両親と夫は流石にすぐ気付く。
夫は驚き混乱。しかし父は、妖怪を見ても平然としていた。
不思議に思ったチャカ子が、どうして動じないのかを当主に聞いたら、
「もう何百年も生きてるジジイを知っているからな。先代……いや先々代だったかの当主から、真奥家と付き合いがあるらしいが」
と、初めて会った時の花実と似たような台詞を言う。
チャカ子には『何百年も生きてるジジイ』と『何故驚かないのか』の結びつきがよく理解出来ず、
「ニンゲンって長生きなんでありんすワンなあ」
と言って、花実を笑わせた。
◇
犬神が真奥家に来て一年。
その頃には、花実も母になっていた。
チャカ子はいつも花実に付いて、赤ん坊を見守っている。
「よしよしでありんすワン
大地とは花実の子の名。
後の、テルミ達の祖父である。
「ウチもオシメを変えるでありんすワン……で、でもこの手じゃ無理でありんした……」
チャカ子は自由に変身出来ない。基本的にはずっと犬の姿で生活していた。
時々人間の姿にもなるが、すぐ元に戻る。
大地が危ない目に遭わないよう監視は出来ても、細かい世話をするのは無理だった。
幸せながらもちょっとした葛藤を抱える日々を送っていた、ある日。
「おや犬神か。民家にいるのは珍しいな」
真奥家へ来た客人――白髪頭の老人が、チャカ子の姿を見るなりそう言った。
チャカ子は自分が言われているものとは思わず、寝転がっている大地の隣で、いつも客の前でとっている『普通の犬のふり』をした。
「あら。犬神って種類の妖怪だったの? 一目見ただけで分かるのねルイさん」
「分かるとも。しかしまさか妖怪を飼うとは先鋭的だな。しばらくご無沙汰している間に、真奥家も
そう言って老人は静かに笑った。
チャカ子は気付かなかったが、この老人こそ以前家族が言っていた『何百年も生きてるジジイ』その人である。
そんな大人達の会話の横で、赤ん坊がふいにチャカ子の前足を握った。
「あーう、ちゃかー」
「はーいでありんすワン…………あれ?」
大地は最近母親の真似をし喋り始めていたが、その単語は初めて口にするものであった。
「ええっ! 大地が、ウチの名前を喋ったでありんすワン! ねーねーお花ちゃん聞いた!?」
「あらあらチャカ子、また変身しちゃってるわよ」
嬉しさのあまり、チャカ子は客人の前で人間の姿に
花実はすぐに浴衣を羽織らせる。
老人は変身を見ても驚かず、
「喜ぶと犬から少女の姿になる。それは犬神の
花実達にそう説明しながら、赤子と犬の触れ合いを眺め微笑んだ。
◇
それから程なくして、同じ犬神であると自称する『喋る犬』が真奥家の門を叩いた。肉球でぷにっと叩いたのである。その隣には『鬼』を自称する大女もいた。
驚く花実の夫を無視し、妖怪二人は花実とチャカ子の傍に寄る。
「間違いない、この子は犬神だ」
喋る犬が、チャカ子の姿を見た瞬間にそう言った。
鬼女も頷き、
「
と言って畳の上へ腰を降ろし、無作法に胡坐をかく。
威圧感がある妖怪二匹に、花実は物怖じせず、
「あんた達は、チャカ子に用があって来たの?」
と尋ねた。
すると喋る犬が低い声で「その通りであるニンゲン」と答える。
「我々は東海道妖怪を統べる
「東海道とはまた大きく出たわね!」
「とーかいど? って何でありんすワンかお花ちゃん?」
喋る犬はわざとらしく「オホン!」と咳払いで花実とチャカ子の言葉を遮り、話を続けた。
「この地に住まう
「アイサツでありんすワン?」
鬼女がチャカ子の頭に手を置き、乱暴にごしごしと撫でた。
「望むのならば、私達が修行を付けてやっても良いぞ。少し修練を積めば、犬と人の姿を自由に変えられるようになるだろうさ」
「ワンと! 自由に変身出来るようになるんでありんすか!」
鬼女の「少しの修練」という言葉で、チャカ子は軽く考えてしまった。
「ウチ、しばらく修行するでありんすワン! 自由にニンゲンになれれば、お花ちゃんのお手伝いできるかもしれワンす!」
「お手伝い? んもうチャカ子ったら良い子!」
そして翌日。
妖怪二人とチャカ子は、旅支度を済ませ真奥家の門前へ出た。
「では、しばらくチャカ子殿をお借りしますぞ」
その犬神の言葉に、花実は「おねがいね」と頷いた。
「チャカ子、怪我とかしないように気を付けなさいよ」
「分かったでありんすワン! 力を付けてすぐに戻るから、楽しみにしてておくんなんし!」
花実はチャカ子を抱き上げた。
チャカ子も嬉しそうに花実の顔を舐める。
そしてそれが、二人の最後の会話になった。
◇
チャカ子は先輩妖怪達から修練を受けた。
ただでさえ、時間の流れというものを意識せずに生きている妖怪。
そしてその修行場は、世俗と時の進み方が違った。
チャカ子の修行が
久々に町へ降りてみると、人間の暮らしの様相がガラリと変わっている。
高層ビルに、綺麗な道路、色とりどりの灯り。
「ニンゲンの町って、こんなにピカピカだったでありワンしたかねえ?」
「修行中に七十か八十か九十年くらいは経ってるからね。人間もまた進歩したみたいだ」
という先輩妖怪である鬼女の言葉に、チャカ子は「そんなもんでありんすかワン」と気軽に相づちを打った。
明治大正昭和の移り変わりを知っているチャカ子は、町の繁栄を疑問には思わなかった。
そして八十、九十年と言われても、ぴんと来なかったのである。
「さて姉さん、お世話になりんしたワン。ウチはお花ちゃんの元に帰りんす」
「待ちなチャカ子。まだ修行済んでいないだろ」
チャカ子は自分の意思で変身出来るようになっていたが、大量の血や満月を見た時は興奮を抑えきれず、犬の姿で固定されてしまう。
それを克服出来て、やっと修練完了となるのだ。
「そうでありんしたワン。でも姉さん、それならどうしてウチを町に降ろしたのでありんすワン?」
「金さね、金が無いから修行の続きも出来ねえ。それも人間の金が必要なんだ。今の時代は、妖怪も人間サマに金を払わないと何も出来ないのさ」
妖怪世界も世知辛いのである。
「人間に混じって生活してる妖怪達に話は通してある。そいつらに
「稼ぐ……でありんすかワン?」
「ああそうだ。お前、人間態の見た目だけは良いからな。『てれび』の『あくしょんあくたあ』ってのがピッタリだとさ」
「て、てれびぃ? あくしおんあくた? でありんすワンか?」
首を捻るチャカ子。
鬼女も同じく首を捻りながら言った。
「私もよく分からんけどな。要は活動写真の俳優だとさ」
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