第二章 純白の中の漆黒

幼馴染の女の子

ある日の朝のこと。

「ぶっは!」

 ジョージは跳ね起きた。掛け布団がベッドからずり落ちた。

「はー、やっと起きたよ」

 キユリは、やれやれと肩を回した。

「死ぬかと思った。なにした?」

 ジョージの顔は真っ赤だ。

「鼻と口を、こんな感じで」

 キユリはジョージの鼻をつまみ、口を手のひらで押さえつけるように覆った。

 わかっていればなんということはない。しばらく息を止めて我慢する。

 しかし、

「んー!」

 ジョージはうめきながらキユリの両手を払いのけた。

「いつまでやる気だ! 死ぬわ!」

「じゃあちゃんと自分で起きてきてよ。ホントに毎朝毎朝……」

 さも迷惑そうに言うが、本当は楽しんでいることをジョージは知っている。つい先日、起こし方のネタ帳を見つけたからだ。『氷水をかける。熱湯も可?(あまり熱すぎないように!)』とか、『フライパンで殴る。まずは底面で。それでも起きなかったら側面でフルスイング』とかなかなか過激だった。『布団にもぐりこんで耳をフーってする』のようなかわいらしいものや『鼻毛を抜く』と比較的マイルドな案もあったが、これはキユリの字ではなかった上に二重線で消されていた。学校の友達とあーでもないこーでもないと考えている様子が目に浮かぶ。

『鼻をつまむ。口もふさぐ』もノートに書いてあったと思う。顔を真っ赤にして手足をじたばたさせている自分と、満面の笑みを浮かべたキユリのまんがイラスト付きだった。

 フライパンの側面で殴られるよりはマシか、と、手首につけていた紺のヘアゴムで髪を後ろに束ねて縛るキユリの後姿を見ながらジョージは思った。



 カール王国。はるか昔、南の大陸からの移住者によって建国されたカール王国はほぼ円に近い形のカール島を領土としている。プレーリー村はカール王国の北部に位置していた。

 島の南部は湿潤で平坦な土地が広がっていた。その最南端にはカール国王の座する首都グロイス。南の大陸との玄関口にもなっている。一方北部はキュベレ山という山がそびえている。キュベレ山からは一筋の川が南に向かって流れ、平野部を貫いた末にグロイスへ達する。南部の肥沃な土地はこの川がもたらしていた。

 プレーリー村はキュベレ山の山頂一帯という特異な立地にあった。そのせいか外来者がほとんどおらず、プレーリー村の記載がない地図すらある。山自体は決して急ではないのだが、山を覆うグランドウッドという険しい森が麓と村の間に立ちふさがっていた。

 山頂付近はまるで山を途中で切り取ったかのようになだらかな平地となっていて、門前集落とバース通りという二つの集落から村が成り立っている。

 北国であるカール王国、なかでもプレーリー村は山の上ともなれば当然冬の寒さは厳しい。雪はそれほど多くないのが救いだ。一度降ると凍結して春まで残ってしまうが、今年はまだ大した降雪はなかった。

 村の少年ジョージ・パーキンソンは村外れの家に一人で住んでいる。バース通りと門前集落のちょうど中間くらいに建つ家だ。元々体の弱かった母は出産直後に亡くなり、五歳の時に父はグランドウッドで消息を絶ったと聞いている。それからちょうど十年。両親の顔も覚えていないが仕方ないだろう。勝手にいなくなった方が悪い。今や一人暮らしも慣れたものである。

 一歳年下の幼馴染キユリ・アールンクルは、毎朝ジョージを起こしに来てくれていた。朝ご飯まで準備してくれる。おかげでジョージは学校へは遅刻知らずであった。


「それなのに!」 

 キユリは語気を荒げてサラダをフォークで突いた。ミニトマトが跳ねてテーブルを転がった。

「なに補習って。もしかしてあんたまた赤点だったの? 今年何回目よ。教科は?」

 キユリはミニトマトを摘まんで口に放り込んだ。

「数学。仕方ねぇだろ。問題が難しかったんだから」

 ジョージはパンにバターを塗った。朝食はパン、サラダ、卵焼き。適度に手を抜いた朝向きのメニューだ。

「他にも赤点の人いた?」

「補習はオレだけ」

「ほらぁ、それ難易度のせいじゃないよ。ジョージ馬鹿なんだよ絶対。あたしが保証する」

 キユリは口許ではにかむ。笑顔でそんなことを保証されたらさすがに傷付く。

「そうだ! あとでそのテスト見せてよ。あたしが教えてあげる」

「いくらなんでも二年生のお前に三年の問題解けるわけないだろ」

「あたし、中等部の数学全部終わってるもんねー!」

 なんで、とジョージの声が裏返る。オレなんて一年生の数学も怪しいのに、と思ったがまた馬鹿にされるだけなので飲み込んだ。

「家で勉強してた。まだ数学だけだけどね。あたし、お父さんの跡継ぎたいから」

 キユリの父は首都グロイスで医師をしている。プレーリー村に帰ってくるのは年に二、三回といったところだ。首都グロイスで数年間にわたる厳しい医師修行に明け暮れ、晴れて医師免許を取得した際には帰郷して開業することも検討したそうだが最終的な彼の選択は先述の通りである。

 プレーリーに残るキユリが母と共にグロイスを訪ねたこともあった。父の背中を見て憧れたのだろうが、ジョージは「父の背中に憧れる」こと自体を少しだけうらやましく思う。うちの親父は憧れる背中を見せてくれるどころか顔すら覚えさせてはくれなかった。

「キユリだったら絶対いい医者になれるよ。オレが保証する 」

「は? いきなりなに気持ち悪いこと言ってんの」

 少しは嬉しそうな顔すればいいのに。可愛げがない。

「しかし勉強が好きなのはただの変態だな。金積まれたってやりたくねぇ」

「好きなわけないでしょ。やんなきゃいけないからやってるだけだよ。あたしからしたらあんたが剣なんかやってる方が変態だけど。なんでわざわざ自分から痛い目にあいにいくわけ? 痣作るわ怪我するわ」

「痛い目になんかあいたくねぇよ。でもそうやって修業しないと強くなれないだろ」

 言いながら気づいた。あ。同じか、とひとりごちる。キユリは満足げにパンを頬張った。

「ね。きつくたって、やんなきゃしょうがないからやってるのは同じでしょ」

 ジョージは剣士だ。師匠のパック・オルタナは、昔遊びで幼いジョージに剣を振らせてみたことがあった。その時ジョージに剣の才能があることを見抜いたのだ。ジョージはパックが見せる剣の型をすぐに真似することができた。体の動かし方に無駄がなく、滑らかであった。歳のわりには膂力にも優れていた。

 グランドウッドには獣や怪物も棲みついている。武術を身に付けていて損はない。なによりジョージは剣を振るのが楽しかった。単純に勝つのが楽しい。負けるとめちゃくちゃ悔しい。こういうのは剣でなくても良かったかもしれない。徒競走でもボードゲームでも、なんなら勉強だって。しかしジョージの場合はそれが偶然剣だったというだけだ。いつか師を叩きのめすことを目標に修業に励んでいる。

「まー、あんたは剣ばっかじゃなくてもうちょっと勉強もしないと将来ヤバそうだけど」

 うるせぇ、と雑なことこの上ない抗議は蚊の鳴くような声だった。

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