終着点

 俊樹が這い進み、陸を見送り、大森は自らもその亀裂に身を屈める。大森の小さな体躯なら十分身動きが取れるほどの大きさだった。大森は膝を曲げて横を向くと、手を伸ばして送風機の脚を引いく。少しでも空気が入れ替わるなら、気休めでもしておいた方がいい。


「ガスはなさそうだけど……水がひどい」


 奥から俊樹の声が漏れる。ライトで先を照らすと、まだ陸の足が慌ただしく進んでいた。もしこの奥で何かがあったとして、この亀裂を通るしか戻る道はない。つまりに追われれば、誰を生き残らせるか選ぶ必要がある。すでに大森の覚悟は決まっていた。


 亀裂はすぐに穴に姿を変えた。おそらくあの暴力的なたちが、長い月日をかけて岩を砕き続けていたのだ。もちろんには必要のない広さには違いない。もしこんな広さを本当にが作り出したというなら、その目的は間違いなく一つだけだ。


——ここに誰かを招こうとした。


 大森は背筋の凍る思いがする。大森たちは間違いなくの招きを受けていた。あの暴力的で超常的な存在に導かれるままに、闇の奥底に足を踏み入れつつある。しかしそうする他に、この残虐な悲劇を止める方法はないのだろう。大森は手をついた壁面の湿った岩の感触と共に、その推測を受け入れるしかなかった。


 穴の先に腕が伸びて、向こうからの光に目が眩んだ。大森も腕を伸ばし、力を借りてようやく亀裂を這い出る。木の柱が立ち並んではいたが、そのいくつかはすでに朽ちつつあった。壁面の青みがかった岩の表面に水が滴るわけではなかったが、ライトを向けると複雑に光を反射する。湿度のためか空気は一段と喉を詰まらせるようで、大森は咳払いをした。


「ここから地図もなし」


 俊樹の呆れた声。姿を見るまでもなく、肩をすくめているのがわかる。

 たしかに洞窟探検の素人が地図なしで進んでいい道とは思えなかった。見える範囲で横穴はないが、もしそれが見つかってさらに分岐しようものなら、戻って来れる保証もない。見込みが甘かったと言われれば、大森も素直に認めざるを得なかった。


「ごめん、正直想像してなかった」


 耳を澄ませてみても、もはや地下水の音が気味悪く響くばかりだ。光は壁面を撫でたが、少し動かすだけで壁は闇の中に消えてしまう。声の響きに安心を覚えるときが来るとは思わなかった。それでも大森の覚悟は揺るがない。大森は足元を照らして一歩を踏み出す。


「私が様子を見て戻ってくる」

「いやいい。さっきみたいに眠られても困る」

「寝ないよ」

「3人一緒の方がいい」


 恐怖の中で闘志を奮い立たせていたのは大森だけではなかった。ふたりの腕を引いて、俊樹が歩き始める。大森は口を開きかけたが、言葉は発さなかった。ただ一度だけ俊樹の肩を叩いて、ふたりの右手と左手の間に陸を招く。そうしていれば、何があってもいいような気さえした。


 すぐに俊樹の投げる光の先が朽ちた機械に触れた。錆びた側面にはじめ何かわからなかったが、それはコンベアの端だった。光を奥に投げるとコンベアが続いている。そのベルトはところどころ破断していて、中にはコンベアそのものが倒れているものもあった。


「この先だ」


 自分たちの向かうべき先を知った以上、もう引き返す理由はない。どんな理由でその怯えた膝を後ろに向けたとしても、それは運命に対する敗北に違いなかった。いやあるいは、破滅的な運命の導きに対する勝利なのかもしれなかったが、いまの大森にはそのふたつの間に違いはない。ただ彼女の掲げた正義は、このコンベアの先に輝いているはずだった。不吉な黄色い瞳として。


「なんだ……?」


 俊樹が何かを照らし、ひとつ声を漏らす。大森にはそれが何かわからなかった。


「死体だな。救助隊のほうかな」


 三十年以上経過した死体は、もはや腐臭すら漂っていなかった。静かに静かに水が滴った末、骨だけが残されている。大森がこれまで目にしてきた死体に比べれば、むしろ穏やかなものだった。それでも陸の手から緊張が伝わって、大森は手を持ち替えて背を撫でる。


 大森はあの石碑を思い出す。知らない名前、ただの文字。しかし彼らはここにいた。闇の底で、静かにその身を濡らしながら。


 異音に三人は足を止めた。家が軋むような、あるいは巨人の唸り声のような、鯨の呻き声のような、短く切れる音が響き続ける。誰からともなく互いを抱き寄せ、三つの光は慌ただしく壁を走った。

 洞窟の先から生ぬるい湿った風が吹き荒れた。ヘルメットのライトが瞬いたかと思えば消え、手元の電灯も光が細ってやがて消えてしまう。三人の目にはもはや何も見えず、ただ互いを抱き寄せる腕の感覚だけが、互いの存在を感じさせた。


 広大な闇の果てに、何かが光ったように思われた。大森は失われた視界の唯一の拠る辺となりうるその光に縋るように目をこらす。闇の彼方に、横一文字の亀裂が走った。


 低く唸るような、湿り気を帯びた音が轟く。音圧に三人は身をこわばらせた。


 亀裂は上下に裂かれ、その内に白く燃えるような揺らぎを湛えている。ヒルのように微かに蠢くがひとつふたつと滴り落ちた。湿った肉を引き裂く粘着質な音が加わり、闇が呼吸を始める。血生臭い腐乱臭をまとった生ぬるい風が吹きつけた。


 闇の先で爛々と輝いたのは、巨大なだつた。瞳は黄色と白の揺らぎを湛えて、闇の只中に見開かれている。しかしその燃えるような輝きが闇を照らすことはない。ただ傲然と闇と混ざり合ってそこに輝き、大森たちを測るように見つめている。その視線は空気を重くして、大森たちを跪かせた。


 大森を次に襲ったのは、意識を吹き飛ばされるほどの眩暈だった。途端にあたりはくぐもった囁き声に包まれる。暗く黒い果てのない空間で、無数のがのたうっているに違いない。互いを擦り合わせるその音は、まるで囁きのようにあたりを覆い尽くしていた。今や動くこともできない三人の肌を撫でて弄ぶように、その囁きは闇を震わせ続ける。


 大森の口はもはや言葉を結ぶこともできなかった。それでも自分の欲しているものだけははっきりと自覚していた。震える手の先に、まだ確かにプラスチックの電灯は握られている。

 両腕は激しく痙攣していた。すでに前田陸の頭は大森の胸の中に埋もれている。その体を抱きながら、大森は指先の硬直した左手で右手の震えを抑えようとする。電灯のスイッチを探すことさえ、今の大森には難しかった。頭に人の体温を感じるあたり、さらに大森を俊樹が抱いているようだ。


 闇の中で世界は回っていた。たしかに大森の膝は岩肌の上にあったが、手をつこうにも倒れ伏そうにも、ただそこには暗闇があるばかりで、まるで虚空に投げ出されたかのように錯覚する。そうして放埒に振り回されながら、その身はあの燃え上がる瞳の前に引き摺り出されていた。


 俊樹の腕の中にあって、大森の眼下に別の亀裂が光る。頭を離しそうになるが、俊樹の両腕はしっかりと大森を抱いていた。俊樹の体があるはずの深い闇の彼方で、粘液に満ちた亀裂が開くと、黄ばんだ歯列が姿を表す。


「見るな!」


 俊樹がそう叫んだが、腕の中で陸も悲鳴を上げてもがいている。大森もすぐにその理由が知れた。目を背けても、たとえ瞼を閉じたとしても、その口は闇のある限りどこまでも続いていたのだ。


 全身の肌を撫でるように、冷たい水が大森を覆い尽くしていく。


 決して離さないように、大森は両腕に力を込めた。もはやなんの言葉も出ない。悲鳴も叫びさえも出なかった。ただ喉は強張るばかりで、息の一つさえ通ることはかなわない。


 もしこれが大森の望んだであったとしても——この供身に意味があったとしても——到底受け入れられるものではなかった。この死にどんな石碑や哀悼が相応しいというのだろうか。


 (かみさま!!)


 大森の心はようやく言葉を結んだ。自分のこれまでのあらゆる不誠実を呪った。もっと、ほんの少しでも正しく生きていれば、こんな死に様になど会うこともなかったのかもしれない。


 (かみさま!!!)


 大森が二度祈ったとき、その腕から陸が滑り落ちた。たしかに大森の腕にあった温度は消え、前田陸の存在は闇の中に消えてしまう。咄嗟にその姿を探そうとして、大森は両手をばたつかせた。


しかし前田陸の姿は文字通り消えなくなっている。


「どうした!?」


 俊樹の声に応じる声はない。大森は突然の喪失に意識を失いかけ、俊樹の腕から滑り落ちて岩肌に硬直した身体を丸めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る