闇の棲家

 エンジンはいつもと変わらず、乾いた音で車を揺らした。ただ車体に打ち付ける雨音はあまりに騒々しく、恐怖の中にある大森にしてみれば、耳を塞ぎたいほどだった。かたや俊樹はただでさえ狭い軽自動車の助手席で両腕を頭の後ろに組んでいる。いまに口笛でも吹きそうな姿だったが、彼が考えを止めている様子はなかった。

 状況に流されるばかりだった大森たちは、俊樹の登場によって確かに前進した。彼の豪胆で理知的な振る舞いに、大森だけでなく多くの人が命を救われている。


「そういえば堀越さんは?」

「え? なんで堀越さん?」

「いやだってこれ、鉱山絡みだろ? 避難所で演説でもしてるかと思って」

「あーうん。まぁ似たような感じ。でも悪く言わないで。本当に人が死んだんだから、今までそうやって白い目で見てたのが間違いだったってことでしょ」


 小さな沈黙が挟まった。大森の政治的信条の変化を俊樹に笑われるかと思ったが、チラと見た俊樹の表情は固かった。


「陸を連れてったときいなかったな」

「避難所に? 家は荒らされちゃったらしいから、帰るはずないと思うけど……。あ、そういえば教頭先生がなんか体調不良っておっしゃってた気がする。奥さん亡くなったあとからすぐに戻ってきてあの調子だったから、疲れたんじゃないかって」

「堀越さんが疲れる? みんな頭やられたんじゃないか?」

「それくらいの非常事態ってことでしょ」


 大森はつい昨日の堀越と話していたが、これまでろくな睡眠も取らずにきて、その記憶は今ひとつ錯綜さくそうしていた。ただ初めての存在を共有したとき、数日前までの皮肉な視線を悔いたことははっきりと覚えている。大森が見たのは戦い続けるという苦難の人生を選んだ逞しさだった。どれほど年齢を重ねようとも戦おうとする断固とした姿。わずかな敬意をもてば、その老体の見え方は全く違っていた。その皺も、手の……


「あのシミ……」


 数日前の酒宴の席でも、大森は堀越と短い会話を交わしていた。そのときは威圧的な声量とアルコールの入った赤ら顔に嫌悪感を抱いているばかりで、盃を置いてしきりに動かしていた手になどなんら注意を向けなかった。しかしおぼろげな記憶が大森の中で像を結ぶ。堀越の手には、ああもシミが散ってはいなかったはずだ。あるいは年齢、あるいはその夜の揉み合いの末のあざ、あるいはその妻から堀越へが移動した結果。


「いや、でも堀越さんは話せてたし、そんなわけ」

「なにが?」

「堀越さんの奥さんが最初にやられてて、たぶんの行方がわかんないでしょ? で、堀越さんの手に小さいけどあざだかシミみたいのがいくつかあって」

「で、昨日までは演説ぶってたのに今朝俺が飛び込んだときには存在感がなくなってた」


 その状況は受け入れ難い推論を導くには十分だった。しかし大森にはそれを否定するだけの根拠もある。


「いやまさか。じゃあ昨日話したときにはもう体の中にいたってことになるけど、全然頭もはっきりしてたし」


 俊樹は顎に手を当てて考え込む。もし全ての条件を満たすなら、は相手の知性を失わせないまま1日以上人間に寄生できることになる。あの暴力的な姿だけを目撃した俊樹にとって、それは信じ難い能力だった。


「須藤先生が自分に注射をさせたのは……」


 俊樹は自分の言葉に目を丸くした。なぜその言葉が口に出たのかわからなかったが、それこそがこの可能性を肯定する違和感に違いなかったのだ。


「体に入られたのに、すぐに脳をやられなかったからだ。神経も筋肉も生きてないとできるわけがない」


 それでもなお可能性の段階——しかし大森と俊樹の判断は早かった。助手席で俊樹は携帯を操作して耳にあてる。発信音が止まることはない。


「あいつマナーモードにしてんな」

「とばす?」

「頼む」


 大森はアクセルを踏み込む。一帯の停電で、もはや信号は点灯していなかった。しかし大森はすでにそれを守る気もない。そうした瑣末さまつな常識にこそ、黒い水やつらは寄生している。誰も死なせたくないなら、一つでも隙を無くすべきだ。


 通りを抜けて通用門へ曲がると、体育館も集まった人々の車も、依然としてその姿をとどめていた。二人は最悪の事態を免れたことに息を吐き、苦笑いを交わす。


「まず堀越さんの容態を確かめて、何もなければ籠城戦だ」

「お願い」


 体育館の入り口の前で、俊樹がシートベルトを外して先に車を降りる。若い役人が何か手で合図をして、停車スペースがまだ奥の方に残っていることを示した。大森は一度は車を進めようとしたが、すぐに考えを改める。その場で転回を始めると、大森たちを追うように通用門にパトカーが現れた。助手席に前田陸の顔が覗いている。

 大森は「無事」と一言だけ、指差し確認のごとく声に出す。傘を刺した若い役人が窓を叩いた。未だに危機感のないその顔は、大森の眉間に皺を寄らせた。ドアを開け、彼の横に傘を突くように出す。車のエンジンはかけたままだった。


「奥の方に停めていただけますか、まだ人が来るかもしれませんので」

「5分だけ置かせてください。すぐ戻ります」


 役人の眉が下がる。それは不満というよりも面倒という表情に感じられた。大森はキーを抜き取ることさえせず、俊樹の後を追う。

 ホワイトボードに汚い文字で書かれた「指定避難所」という文字は、まるでそれが安全を約束するとでも言わんばかりの表情だ。まだを目の当たりにしていない誰もが、それを信じてここに集まっている。すでに恐怖の中核がここにこそ潜んでいるかもしれないというのに。


 舞台上に人だかりがあった。教頭と俊樹が何か話している。どこを探しても堀越が見当たらない。大森も俊樹の靴跡を追って駆け出した。


「同行しない人はどうします?」

「見捨てるしかない」


 はじめに耳に入ったのはその二つの言葉だった。


「決まった。役場の方に移動する」

「どういうこと?」

「その中に堀越さんを収容してあって、たぶんダメ」


 指し示された先は、放送機材室だった。そのドアが一度内側から叩かれる。


「高熱だったので感染の恐れがあると言って運びました。ご本人も朦朧もうろうとはしていましたが意識があって……とにかく、すぐに移動しましょう」


 しかし人だかりはそう易々と通してはくれなかった。


「熱出した堀越さん置いて自分たちは逃げるんね?」

「須藤先生がおらんでも、命は助けろいうたんはあんたやろ」


 人々の気迫に教頭はたじろぐ。この数時間こうやって耐えてきたのだろう。いつ弾け飛ぶかわからない薄い扉を横目にしながら、怒声をあげないのがどれほど難しかっただろうか。


「俺たちが出たら勝手にしろ。ただな、ありゃ死病だ。近づくな」


 むしろ挑発するような言葉に続けて、俊樹は教頭から鍵を奪って体育館のはるか後方に放り投げた。人々の視線がそれを追った末、鳴ったのは低い衝撃音だった。一度後ろへ集まった視線は、再び前へ戻り、一つの薄い扉に集められた。

 俊樹に腕を引かれる。立て続けに衝撃音がいくつも響く。


 眼前を何かが通り抜け、入り口から悲鳴が体育館を切り裂いた。一度倒れた大森はすでに立ち上がった俊樹に腕を引かれてようやく足を立てる。そこにいたはずの教頭の姿がなかった。


「行って……」


 何か大きな機材が転がって、頭から血を流した教頭が這いつくばったまま、かろうじてそう言う。続けてどこからともなく声が上がった。


「堀越さん!」


 しかし姿を現したを、大森はもう堀越悦司と呼べそうにはなかった。食い破られた腹からが滴り落ち、関節の秩序も保たれずに、下手な操り人形のように足をばたつかせながら、その歩みとは全く無関係に滑るように進み出る。すでに肩から引き剥がされていた腕は、しなるの先端で骨を晒していた。その背で引き裂かれた壁に扉が支えを失って倒れる。


「こ……こへ……こうどk……hです!」


 もはや言葉ではない。それは堀越悦司を使って作られた音だった。しかしその語気と言葉選びは、まだ彼の意識が残っていると錯覚させるには十分だった。あまりに悪趣味なの人形遊びの最後に、堀越悦司の顔に笑みが形作られる。


「皆さん逃げて! それが怪物です!」


 銃を抜いた米森巡査は、両手を添えて射撃姿勢をとる。しかし人々の足取りはあまりに鈍かった。堀越を助けようと勇気を振り絞る者、ただその場で頭を抱えてうずくまる者、目と口を見開いたまま腰が抜けて座り込む者、ようやく走り出せたのは、その場にいたうち片手で数えられるほどの人数だった。

 俊樹の静止を振り払って、教頭の元へ一人が走る。奥さんだろう。しかし大森にはもう振り返る時間など残されていない。左の方に何かが落ちて激しい音を立てる。二つ折りになった人間が弾んで、また別の悲鳴が起こった。

 二人の前に怒気を放つ老人が片膝をつく。その手には猟銃が構えられていた。大森は咄嗟とっさに耳を塞ぐ。


 激しい砲声が轟いた。


「化け物が!」


 そう叫ぶ横を走り抜けると、入り口には青白い顔で一点を見つめながら叫び続ける前田陸がいた。俊樹が肩に担ぐように抱えて走っても、その絶叫はいつまでも続く。


 再び激しい砲声が轟いた。次には小さな爆竹のような音も続く。


「逃げてください! 皆さん逃げて!」


 米森巡査の声だった。発砲音が二つ三つと続く。

 俊樹は前田陸を大森に押し付けると運転席に走った。やむなく大森は後部座席を開けて前田陸を後部座席に押し込み、自分も倒れるように後部座席に滑り込む。車はすぐに走り出し、大森は助手席を支えに体勢を立て直す。走る車の中から腕を伸ばして、ようやく扉を閉めた。振り返った体育館から黒い影が弾き出され、石垣に叩きつけられる。そこから弱々しく垂れた制服の腕に、大森は巡査の死を悟った。

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