恋白夜
@YAMAYO
❄白夜❄
それはそれは素晴らしい夜だった。
空気は澄み、星は瞬き、世界は白く、そして何よりすぐ傍には愛しい人がいた。
駅前を通り過ぎようかという時にふと外気温計が目に入る。
『AM0:12 –22℃』
摂氏二十二度という無機質なデジタル表記よりも。
刃物のように鋭利に尖る凍えた空気よりも。
自分自身の体にへばり付かせた氷雪の寒々しさでもって気温計は、今宵が紛れもなく厳寒の夜であるということを如実に、切実に、実直に訴えかけている。
どこかで事故でもあったのだろうか?
先ほどから救急車やパトカーのサイレンの音が聞こえる。
辺りを見渡してみても赤色灯のあかりは見えなかったし、音量も極々小さい。
まるで僕らには知覚のできない。
僕らとは決して交わってはいけない別次元の隙間から手違いで漏れ出てしまったかのように、サイレンはただ控えめに空気だけをわずかに震わせている。
それがこんな季節のこんな時刻に出歩く僕らに対する親切な警告なのか。
はたまたこんな季節のこんな時刻にどうして出歩いているのか?という異次元人の嘲笑であるのかはわからない。
ともかく僕は、そんな夜と冬、黒と白とに隙間なく塗り固められた街を黙々と歩く。
鼻頭やニットの帽子からはみ出した耳などは痛みを通り越して鈍い疼きへと変わっていた。
撥水能力があってないような安物のミリタリーブーツに包まれた爪先の感覚がなくなってからは随分と久しい。
軽い凍傷と重度の霜焼けではどちらが症状として深刻なのだろう?
などとどうでもいい事を考えてしまうのは余裕のあらわれというよりも思考の停止。
どちらにしても精神的にはそれなりに深刻な状況にまできているのかもしれない。
それが証拠に寒さらしい寒さは不思議と感じない。
極限状態からくる酩酊とか、ブラックホールを辿る壮絶な旅の果てにようやく安寧の地に立ったとか、まあ、一周回ってなんとやらというところだろうか。
だけど薄氷よりも儚く脆く、子犬のように未熟で多感な一介の高校生である僕は、まだまだロマンスというものを捨てきれないでいる。
そう、僕がこうやって極寒の街を心暖かに澄ました顔で歩けるのは、単に彼女がいてくれるからに違いないのだ。
水気を含んで重くなった丈の短いダッフルコート。
防寒対策として生地が厚いレギンスを履いているとはいえ結局は脚を風雪にさらすだけさらしているチェックのスカート。
マイナス気温のせいで艶が幾らか失われた髪には緩やかでふわりとしたウェーブがかかり、嫌みにならない程度の薄化粧と香水の香りが先ほどから僕の凍り付いた鼻腔をゆらす。
幼い頃から隣で成長を共にし、色々と見たり見せたり、聞いたり聞かれたりしてきた僕にとって、こうまで年相応に垢ぬけた彼女にはいまだどうにも違和感がある。
恋心というものはこうまで一人の少女を女へと変えてしまうのか。
だから今こうやって図らずも背中におんぶする体勢になって初めて触れることになってしまった、布越しでも感じる彼女の太腿や乳房がもつ肉感的な柔らかさに、僕は悲しいやら恥ずかしいやら嬉しいやらと複雑な気持ちだ。
そんな彼女の女性的魅力の一面を誰よりも身近で知りたかった反面、それと同じくらい、永遠に気づかなければよかったのにと思う気持ちも決して嘘じゃない。
これもきっと寒さのせいに違いない……。
一人で勝手に盛り上がってはまた盛り下がる実に程度の低い二律背反。
要するにふらふらと取り留めもない情緒の不安定さを僕はとりあえず寒さのせいにして納得しておくことにする。
もう一度言うけれど、僕なんて本当にどこにでもいるただの高校生、たとえ浅ましいと笑われても、好きな女の子の前でささやかな見栄くらい張らせてほしい。
「よいしょ……」
と、一つ声を上げて彼女を抱え直すふりをして入り組んだ邪念を胡麻化す。
随分とわざとらしいような気もしたけれど、幸い彼女は気づいていないようだ。
鈴が鳴るよりも心地よく澄んだ声がこぼれ落ちる唇は静かに閉じられたまま。
深みのある黒を湛えた美しい瞳も変わらずそっと目蓋の下に隠されたまま。
僕のしがなき虚栄心など関知しない……もっと言えばこの世の理になど一切合切、興味はないのだという風に、彼女は彼女自身の中でだけ完結された輪から出てこようとはしない。
なんだか置いてけぼりをくらったような気がして僕は少しだけ寂しさを感じる。
ほんの数秒前まで揺れ動く脆弱な気持ちを悟られまいとした心が一転、今度は構ってくれないとばかりに拗ねたような感情を抱くのだから、本当に自分の器の小ささなり歪さなりに嫌気がさす。
体と我欲ばかりが大きくなって、受け入れる地盤の方だけが年齢を重ねていっても成長してはくれない。
そんな収まりのよくない心と体のズレみたいなものを、いわゆる思春期に入ってから常に持て余し気味だった僕。
それでも彼女は「可愛いなぁ」と言って笑って肯定してくれた。
大げさではなく、それがどれくらい僕の救いになってきたことか。
そしてその度に抱く感情が、おおよそ『可愛い』などという無邪気な言葉で括れるほどキレイなものではなかったことか。
……きっと彼女にはすべてお見通しだったに違いない。
すべてを見通し、理解し、許容した上でなお、彼女は彼女のままで変わらず僕に接していてくれたのだと思う。
ああ、また甘えが顔をだす。
ああ、今すぐに救いが欲しい。
ああ、ああ、今すぐにでも許しが欲しい。
彼女の声が聴きたい。
彼女の瞳の中に映り込みたい。
愛の囁きや慈愛の眼差しであればより良いのだけれど、この際贅沢は言わない。
憎まれ口だっていい。
いつも通り優しく強く、されど呆れたような諦めたような視線を送ってくれたっていい。
子供の頃から見慣れた、いつまでも変わることなく僕の憧れであり続けた彼女のままでただただ傍にいて欲しいと切に願う。
だけど僕は願うだけ。
いつでもいつも、いつも通り。
子供の頃からいつまでも変わることなく。
僕は彼女に憧れる。
憧れを抱いたまま、ただ傍にいることしかできない。
彼女の方から歩み寄ってくれるのを、ただただ待つことしかできない。
❆❆❆ ❆❆❆ ❆❆❆ ❆❆❆
❆❆❆ ❆❆❆ ❆❆❆ ❆❆❆
何の前触れもなく、まるで思い出したかのように、またハラハラと雪が降り始める。
僕は顔を上げる。
黒い暗幕から次々と、ポツポツと。
粒の小さな真冬の雪が、まるで夜空から直接剥がれ落ちてくるみたいにして生まれては落ちてくる。
風が無いせいだろう。
ゆっくりと、舞うように。
規則正しく美しい螺旋を描きながら雪が降る。
いや、そのどこまでもたおやかな有りようは、『降る』というよりも『降りてくる』といった表現の方が相応しいだろうか。
ああ、キレイだな。
そして白い。本当に白い。
抗いようもなくすべてが白に染まっていく。
空を、夜を、街を、
僕を、彼女を、彼を、彼女を、
体を、心を、殻を、壁を、涙を、笑いを、
罪を、罰を、愛を、憎しみを、後悔を、戒めを、
寄る辺を、導を、妄執を、慕情を、
春の息吹を、真夏の夢を、秋の実りを、冬の憂いを、
過去を、明日を、昨日を、未来を……。
雪は貴賤も偏見も分け隔てもなく、すべてを等しく純白に染め上げていく。
それでも僕の足は止まらない。
根雪の上に積もったばかりの乾いた雪を、踏みしめるように、蹴散らすように。
前へ前へ
前に前に
進む、進む、進む
無彩色の世界に向かって、当てもなく。
ただ真っ白な未来に向かって、当て所なく。
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