第8話 妄執を裁く神

 ――Side 幸希


 王宮の地下から戻った私達は、その光景を前に言葉を失ってしまった。

 恐ろしい化け物達の姿はないものの、――夜空の闇を禍々しく照らすその『赤』が。

 騒がしく喚き出す鼓動の音を不安で苛んでいく、悪夢のような光景。


「火事……?」


 どこから聞こえてくる、騒がしい焦燥の気配……。

 あの大庭での事態は収束したのではなかったのかと、レアンと一緒にルイヴェルさん達に視線を注ぐ。まだ私達のいる場所まで炎の浸食は届いていないけれど、間違いなく、王宮内のどこかで火災が起きている。


「神の恩恵とやらは、俺達の準備さえも台無しにしてくれるものらしいな……」


 ルイヴェルさんが空を見上げ眉を顰めると、小さく忌々しそうな舌打ちの音が聞こえた。

 予想の範疇……、そんな含みを感じつつも、ルイヴェルさん達の表情に余裕は見えない。


「ルイ、予定通りユキ達を安全な場所に移してくれ。俺は元凶への対処にまわる」


「いや、俺が行こう。罠の可能性もあるからな……。お前はユキ達を守りつつ進め。カイン、お前は俺と一緒に来い」


「おう」


 私達への説明もなく、ルイヴェルさんはカインさんと一緒に、何人かの手勢を連れて消えてしまった。

 まだ何も終わっていない……。紅蓮の炎に怯える夜空を見上げながら、私は揺り起こされた不安に恐怖を覚えながら、回廊の先へと進む事になった。

 レアンと手を繋いだまま、火災の起きていない区域を早足で急ぎながら、私達は避難場所へと向かう。今夜の事は予め予想されていた事態であり、その為にアレクさん達が水面下で準備を進めていた事。レアンのお父さんや王族の人達、それから、王宮に来ていた町の人達も避難を終えていると聞かされた私達は、ほっと緊張を和らげる事が出来た。

 

「ねぇ、町の方は? そっちは、どうなってるの?」


 アレクさんからの説明に疑問を感じたらしいレアンが、夜空を浸食する赤を見上げながら尋ねた。

 女神様に捧げる舞を見に来ていなかった人達は、王宮の外は今どうなっているのか……。

 私もそれが心配だった。レアンを狙っているというヴァルドナーツさんや、大庭に現れた恐ろしい化け物達の存在。もしも、町の方にも被害が出ていたら……。

 

「大丈夫ですよ。事前に町の方にも人員を配していますからね。無傷……、とはいかないかもしれませんが、獅貴族の騎士団や魔術師団も動いてくれています。どうかご安心を」


 前を歩いていた魔術師の青年が私達へと振り返り、安心させるように笑ってくれた。

 今夜の事態を想定出来ていたからこそ、それぞれが自分の役割を果たす為にスムーズに動けているのだと。心強い味方が大勢いる。だから、心配ない……。

 そう納得して安心すればいいのに、私の心の奥底から滲み出てくるこの嫌な気配はなんだろう。

 何故か、この先に進んではいけないと……、誰かが警告を鳴らしているような気がする。


「――待て」


 その時、私の中で響いている警鐘を察したかのように、アレクさんが静かなその一音を落とした。

 光の檻に囚われているアヴェル君達を後方へと移動させ、一番前にアレクさんが進み出て周囲を見渡す。遠くから小さく聞こえてくる騒ぎの気配を除けば、私達の周囲に異変は起きていない。

 けれど、何かが近づいて来ている……。そんな予感があった。

 肌に触れる夜風がざわりと何かに緊張した様子を見せ、奇妙な息苦しさを覚えてしまう。


『レフェナ……』


 誰かの名前だろうか。耳、というよりは、頭の中に直接囁かれたかのように聞こえたその禍々しい音が、さらなる緊張を走らせる。今の声は……、ヴァルドナーツさん? とてもよく似ていたように思える。撤退したはずのあの男性が、レアンを諦められずに戻って来たのだろうか。

 微かに震えている親友の肩を抱き締めながら、ヴァルドナーツさんの姿を闇夜の中に探す。


『ようやく迎えに来れたのに、逃げちゃ駄目だよ……。俺の愛する、レフェナ……』


 姿の見えない相手が誰なのか、アレクさんにもわかっているのだろう。

 レフェナ、それがレアンを求める音である事を察し、アレクさんは先手を打って攻撃を仕掛けた。

 それは空間を引き裂くかのように、アレクさんの手から放たれた蒼銀の光によって歪みを生じ、隠れていた相手を表へと引き摺り出した。

 葉巻を手に微笑むだらしのない男性……、間違いなくヴァルドナーツさんだ。

 怪我をしているらしく、破れた衣服の隙間から見える肌には、血が滴っている。

 

「ヴァルドナーツ……、お前に力を与えている神は捕らえてある。抵抗はするな」


「あぁ……、さっきの可愛くない偽物とは全然違うね。本物のレフェナ……、俺の」


 アレクさんが牽制しているのにも関わらず、ヴァルドナーツさんはその背に庇われているレアンの事しか眼中にないようだった。彼が指を鳴らした瞬間に、また恐ろしい異形の化け物達が私達を追い詰めるように現れる。けれど、アレクさん達に動揺の気配はない。

 冷静に化け物達を迎え撃つ為に攻撃の手を加え始めた魔術師さん達の手際に無駄はなく、隙を見せない動きが私達を守ってくれている。

 けれど、化け物達が一体、また一体と消滅させられても、ヴァルドナーツさんの顔に敗色の気配はなかった。ゆらりと廃人のように……、私達の傍へと歩いてくる。


「レフェナ……、会いたかったよ。あの時……、愛する君の手で殺されてから、もう一度愛し合える日を夢見ていたんだ……。レフェナ、俺の」


「ちょっ、こっち来ないでよ!! 変態! ストーカー!! アタシはアンタなんて知らないよ!!」


「れ、レアン……」


 確かに、正気を失ってそうな昏い目をしているヴァルドナーツさんは怖すぎる存在だけど、下手に刺激するのもどうかと……。レアンからの完全な拒絶の言葉にもめげず、時を超えたストーカーさんは確実に近づいてくる。けれど、アレクさんの手のひらから生じている蒼銀の光が私達の周囲を包み込むかのようにドーム状の輝きを見せたかと思うと、ヴァルドナーツさんがこれ以上近づけないようにその歩みを阻んだ。


「たとえ前世に何があろうと、彼女はもうお前の知っている存在ではない。大人しく導きに従え」


「レフェナは、たとえ何に生まれ変わっても、俺の愛するレフェナだよ……。死んでからもずっと見てたんだ……。レフェナの魂が巡る姿を……、ずっと、ずっと」


「だ、だから、知らないって言ってるだろ!! アタシは、レフェナじゃない!! レアンティーヌなんだから!!」


「うん、まだ思い出せないよね……。だから、俺と一緒においで。君が一体誰なのか、俺が思い出させてあげる……」


 拒絶されているのに、ヴァルドナーツさんはにっこりと微笑んでレアンへと手を伸ばしてくる。

 その手をとる事が当然だと信じているのか、蒼銀の光に指先を焼かれても、ずぶずぶと光の内側へと入り込み、やがて……、私達の目の前で、ぼろりと手首から先が落ちた。

 その恐ろしい光景に、私とレアンは小さく悲鳴を飲み込んで一歩下がる。

 普通はその壮絶な痛みのあまりに絶叫が上がりそうなものなのに、ヴァルドナーツさんは地面に落ちた自分の右手に興味を抱く事もなく、今度は左手を光の中に突き入れてきた。

 同じ事になるとわかっているはずなのに……。

自分にとって壁となっているその光にべったりと張り付いてみせると、ニタリと凶悪な笑みを深めて見せた。どろり……、どろりと、ヴァルドナーツさんの肌が服越しに爛れていく様が視界に映り込む。


「ふふふ……、レフェナぁ、隠れないで、俺から逃げようとしないで。ねぇ、ほら……、俺の手を」


「ひいいいい! ちょっ、怖すぎだから!! ホラーすぎだからあああ!」


 がしっと、まるで木によじ登るお猿さんのように、レアンは恐怖がピークに達してしまったのか、私の身体に抱き着いてくる。……うん、確かにあれは怖い!

 ゾンビと叫びたくなる目の前の光景は、腐った匂いまでも伝えてくるから性質(たち)が悪い。

 化け物達の相手をしている魔術師さん達も、ヴァルドナーツさんの執念と恐ろしいその光景に、完全にドン引き状態だ。ただアレクさんだけが、真顔を保ったまま前を見据えている。

 

「凄まじい妄執だな……。でなければ、魂を禁呪で縛る事もない、か」


「アレクさんっ、あ、あの人……、どんどん身体が崩れてっ」


 腐り落ちる、そう表現した方が正しいかもしれない。

 鼻を突く臭気は色濃くなり、ヴァルドナーツさんの狂気に塗れた双眸が、レアンを求めて光の中へとどうにか入って来ようとしている。

 それをアレクさんが力を使って吹き飛ばし、回廊から外れた草地に放り出されたヴァルドナーツさんの遥か頭上に、巨大な蒼銀の光を纏う槍が現れた。

 それは容赦なく地上に向かって突き下ろされ、ヴァルドナーツさんを丸呑みに……。

 大地を震わす程の衝撃が一帯に駆け巡り、凄まじい猛風と光が荒れ狂う。

 

『――無意味』


 アレクさんの背に庇われながら衝撃に耐えていた私は、聞こえるはずのない小さなその冷たい音を、確かに意識の片隅で拾い上げていた。

 それは、聞いた事のない誰かの声……。大人の男性が発する低い音だという事はわかったけれど、何か重要な一言に思えた。感情を伴わない、審判を下すかのような、無慈悲な音。

 目の前の事態が収まり、ゆっくりと瞼を開けた私は、何かに突き動かされるかのように視線を巡らせた。さっきのは……、誰の声だったの?


「び、吃驚した~……。キャンディ、大丈夫?」


「う、うん……。私は何ともない、けど」


 ヴァルドナーツさんは、今の一撃で跡形もなく消え去ってしまった。

 子供達も、まだ気を失ったまま光の檻の中で何事もなく横わたっている。

 私達を護衛してくれている魔術師さん達にも異変の気配はない。

 王宮の一角に残った凄まじい一撃の痕だけが地面を抉るように残っていて、それ以外は、何も……。

 

「アレクさん、さっき……、何か聞こえませんでしたか?」


「キャンディ? 何か、とは……」


「いえ……、誰か、男性の声が聞こえた気がしたんですけど」


 衝撃の音で耳がおかしくなっていたのだろうか。

 特に気になる音を拾った記憶はないと静かに答えるアレクさんに、私は他の人達にも聞いてみたけれど、誰も知らないと答えるばかりだ。

 あんな大きな音が響いていたのだから、当然といえば、当然……、なのかな。

 ヴァルドナーツさんの姿が消滅したその場所からは、煌めく光が蝶のように宙を舞い、まるで旅立つかのように消え入っていく。


「すみません。私の気のせいだったみたいです……。あの、ヴァルドナーツさんは、どうなったんでしょうか?」


「使用していた器を壊した。そして……、妄執に塗れた魂はここに」


 振り返ったアレクさんの右手のひらで揺らめいていたのは、上下に複雑な紋様と共に淡く発光している蒼銀の陣に挟まれた状態でブルブルと震えている存在。

 禍々しい黒銀の光が纏わりつき、蛇の動きを思わせるようにそれは狭い範囲を踊り狂っている。

 

「神の力で弱らせてあるが、かなりの手が加えられているようだ」


 アレクさんがその手のひらを握り締め、もう一度開くと……、魂と呼ばれたそれは消え去っていた。

 

「……まだ、油断は出来ないな。避難場所へ急ごう」


 意識を取り戻していない子供達を一瞥し、アレクさんは私達を急かすと、避難場所へと足取りを速めた。

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