ドリームエンコーダー
ぴぃた
第1話
目が覚めてから10分間、僕は森にいる。
実際には日毎に散らかっていく自室のベッドで横になっているのだが、夢と現実を繋ぐまどろみの中で、まだ薄らと聞こえる小鳥の囀りに耳を傾ける。
眠れない夜に苦しむ時、辛い現実から逃れたい時、温かい森林に寝転がるイメージを浮かべるのは効果的だ。きっと、自分に合っている方法なのだろう。
だが、どうしても解らない事がある。
逃避をする必要など全くないのだ。こんなに幸せなのに、一体何がそんなに不安なのだろう。
人は幸せを手にすると、それを失った時の痛みを想像して不安になる。だけど、この胸騒ぎはそれとは明らかに異質なものだ。
とても、大事なことを忘れているような。
正体が判然としない焦燥感が雲となって木洩れ日を遮り、小鳥の発する心地よい鳴声が遠退いて行く。
起床して10分。森が消え、虚空に浮かぶ僕に救いの手を差し伸べるかのように、いつも決まって声が聞こえる。
「
僕の、幸せそのものである人の声。
上体を起こすと、ソファに座ってラップトップパソコンを眺めている
黒髪がかかる華奢な背中に向けて返事をする。
「おはよう、
同棲を始めて1ヶ月。ゴールデンウィークに突入した僕達。今日は連休初日だが、このまとまった休日を二人でどうやって過ごすかは、まだ決めていない。
今日は5月3日の水曜日。5月7日までの5日間、久しぶりに二人でゆっくり過ごせる。旅行に行くのもいい。
「なにしてるの?」
そう言って、ラップトップパソコンにかじりつく佐奈を見ながら、ベッドから下りようとした時だった。
「いたっ…!」
何かに後頭部の髪が引っ張られ、痛みが走る。しっかりと貼られたテープを突然、剥がされたような痛みだった。
枕元に視線を移すと、4cm四方の小さな粘着パッドが見えた。パッドから伸びる1本のコードは、ベッド横のテーブルの上に置かれているティッシュ箱ほどの大きさの機械に繋がれている。
白い外装の側面に『Dream Encoder』と青く書かれた文字を見て、苦笑交じりに呟いた。
「やりやがったな。俺はやらないって言ったのに」
「勇吾、全然起きないんだもん」
ちょうど1週間前、友人の結婚式に出席した佐奈は、二次会のビンゴゲームで貰った景品を持って帰ってきた。それがこの『ドリームエンコーダー』だ。外国の企業が販売した物で、数年前に海外で少し流行ったらしい。
後頭部に貼ったパッドから睡眠中の脳波を読み取り、『夢』の映像を記録する事が出来る。と、言うのはかなり誇張された宣伝文句であり、実際は科学的根拠など全くないオモチャに過ぎない。
『見た夢を映像として記録する』などという超技術には程遠く、実際には、予め危機内部に記録されている数百種類の映像を、読み取った脳波に合わせてランダムに組み合わせて一本の動画を生成するという仕組みになっている。
ベッドから下ろした足に、何かが当たった。
床を転がる缶ビールの空き缶が、部屋中に散乱している他の空き缶にぶつかって止まる。
「今日はまず掃除だなこりゃ」
貴重な連休の初日が部屋の掃除で潰れる事への落胆を吹き飛ばすように、大きく背伸びをしてみる。
佐奈はパソコンに表示されている何かの映像に釘付けだ。その映像は、おそらく『僕の見た夢』という事になっている動画に違いないだろう。
「なに、もうパソコンに動画移したの?」
「そだよー」
「何時に起きたの」
「んー。4時くらいかな。なんか急に目が覚めちゃって」
壁に掛けられた時計は8時半を指している。
「それからずっと起きてたのか?」
「うん。映画見てた。この前借りてきたやつ、まだ見てなかったじゃん」
「一緒に見ようって言ってたのに、先に見たのかよ。面白かった?」
「うーん、微妙だった。こっちの方が面白いよ。勇吾、いい感じの夢見てるじゃん。ねぇ、一緒に見ようよ」
「いやいや、夢なんて見なかったし。機械が勝手に作った映像でしょ」
はしゃぐ佐奈をあしらって洗面台へ向かう。
「ちょっと、とりあえず見てってば」
「ちょっと待って。先に顔だけ洗いたい」
洗面台の前に立つ直前、不安が体中を駆け巡った。森にいた時に感じた不安とは違う。今度は、不安の正体も同時に思い出した。
「しまった」
洗面台に置かれた皿を見て、そう口に出す。
皿に入れられた水に浸かる根。その根から伸びる豆苗の茎は先細り、茶色く変色していた。
「枯れちゃってるよー」
「何がー?」
「豆苗」
「窓際に置かないからだよ」
数日前、近所のスーパーで買った豆苗を炒めて食べた後、苗の部分を皿に入れて栽培していた。毎日水を入れ替えねばならなかったが、昨日はすっかり忘れていた。
「にしてもさぁ、1日水替えるの忘れただけで、こんなに枯れるかね」
「だから、窓際に置かないからだってば」
溜息をつきながら、冷たい水で顔を洗う。
寝起きに森で感じた不安の正体は、これだったのだろうか。それにしても、栽培している豆苗の水を替え忘れただけで、現実逃避しようとする自分のメンタルの脆さに呆れる。
鏡に映る自嘲した自分の顔を見た後、うがいをし、洗面台に備え付けられた棚を開ける。取り出したビンの蓋を開け、サプリメントを一錠、口に放り込む。
同じく棚から取り出したプラスチックのコップに水を注ぎ、その水でサプリメントを喉の奥に流し込む。
サプリメントのビンの中を覗く。やけに軽いと思ったら、もう後4錠しかない。このまま行くと、連休の最終日に切れてしまう。
「買い物行かなきゃ」
リビングで『夢の映像』を見ているはずの佐奈に聞こえるよう、声を張り上げた。
「何買うの?」
「サプリ。もうなくなりそう」
「それ、飲むのやめなよ」
「駅からちょっと離れたとこにさ、大きいお店出来たじゃん。オープンセールのチラシ来てたよな確か。そこ行ってみようよ。掃除終わってから」
「いいけど、サプリは買わないよ。ねぇ早く、これ見てよ」
リビングに戻り、ソファの後ろから佐奈を抱きしめる。
「はいはい。んで、俺はどんな夢見てたのかな?」
佐奈の細い首筋越しに、パソコンを眺める。
「えっ…」
そう声に出してしまったのは無理もない。その映像は、まだ自分が眠っているのではないかと錯覚させるに値するものだったのだ。
「どう? なんかいい感じじゃない?」
森。
木洩れ日の差し込む、綺麗な森林。それは、いつも起き抜けに想像する森にそっくりだった。その森の中を手を繋ぎながら歩く、二人の男女の後ろ姿が見える。
森などどれも同じようなものだ。ドリームエンコーダーの中に元から記録されている森の映像が、偶然選ばれたに過ぎない。
それにしても、木の形、間隔、何処を見てもあまりにも似過ぎていて、少し驚いた。
「いいね」
率直な感想だった。
自分が毎朝想像していた光景が、実際に、と言っても作り物には違いないが、こうして映像で見られるのは嬉しかった。
「ここどこ? なんか綺麗な森だね」
佐奈が質問する。
「いや、わかんないよ。夢なんだから」
「行ってみたいここ。いいなぁ」
「似たようなとこならあるんじゃないか?」
「ねぇ、この女の人、あたし?」
そう言った佐奈の横顔を覗き込む。怪訝な表情を浮かべる佐奈を見た後、視線を画面に戻す。
画質は荒いが、長い黒髪が背中にかかったその女性は、確かに佐奈に見えなくもない。
「そうでしょ。佐奈だよ」
「ほんとに?」
「他に誰がいるんだよ」
「これすごくない? 浮気発見器だ。もし、他の女の子とデートしてる夢とか記録出来たらさ、浮気の証拠になるよね」
「なるかよそんなの。バッカじゃないの」
僕がそう言うと、佐奈は屈託のない笑顔でケラケラと笑う。この笑顔を見る度、幸せな気持ちになる。
「なんか嬉しい。勇吾の中に、ちゃんと私がいるんだね」
笑うのを止めてそう呟いた佐奈を見て、抱きしめる腕に少し力を入れた。
佐奈は、幼い頃に両親を放火による火事で失くしている。自宅は全焼し、その後、親戚の家で育てられた。
火事の際、佐奈は燃え盛る炎の中、玄関のドアの方から何度も自分の名前を呼び続けてくれた両親のおかげで、外に出られたと話す。だが、実際は父も母も寝室で焼死しており、佐奈は自力で脱出した事になっている。
それでも佐奈は信じていた。
人の心は、記憶の中に宿る。死してなお、霊魂さえも自分の記憶の中で行き続けるのだと。
「勇吾の中にずっと、居させてね。追い出したり、しないでね」
震える声に呼ばれたように流れ出た佐奈の涙が、白い頬に伝った。
佐奈に付き合って欲しいと伝えた時、既に決めていた。この子は何があっても、絶対に守るのだと。
「追い出したりなんか、する訳ないだろ。どこにも行くなよ」
「うん…… うん」
パソコンが映し出していた映像は、既に終了していた。暗くなったスクリーンに、佐奈の泣き顔が映る。
「泣くなよ」
「うん」
「っていうか、佐奈の見た夢は? 俺がやらないって言ったら、じゃあ私がやるって、パッドつけて寝ただろ」
質問に答えない佐奈は、再び映像を再生した。
「どんな夢だったの? 見せてよ」
「見なかった、夢。何も映ってなかった」
「そうなのか。ちゃんと読み取らない事もあるんだな」
「そうみたい」
佐奈の返事に被るように、携帯電話のコール音が鳴る。
ドリームエンコーダーの横に置いてある携帯電話が、騒々しい音を奏でながらけたたましく震えている。
「こんな朝から、誰だよ」
「会社からじゃないの?」
「勘弁してくれ。連休初日だよ?」
佐奈を抱きしめたまま、溜息をつく。
「出ないの?」
「出ない。佐奈、泣いてるから」
「もう大丈夫だから、出なよ。早く」
「わかった」
立ち上がり、テーブルに手を伸ばす。
携帯電話を掴む直前、指がドリームエンコーダーのボタンに触れた。『ピッ』と電子音が鳴り、小さなディスプレイに文字が表示される。
通話開始ボタンをタップした携帯電話を耳に当てながら、ドリームエンコーダーのディスプレイに目を通した。
『削除記録:1件 削除日時:5月3日 午前4時14分』
振り返り、再び映像を見始めた佐奈の背中を見る。
佐奈が夢を見たかどうかは定かではない。少なくとも、本人は見ていないと言ったが、何らかの映像は記録されていた。削除時間から考えて、佐奈が自分の夢の記録を削除したのは間違いない。
『何も映ってなかった』と言っていたが、真っ黒な映像だったのだろうか。何故、わざわざ削除したのだろう。
「もしもし?」
携帯電話から聞こえる男性の声が、些細な疑問に深く入り込もうとする僕の意識を呼び戻した。
「あぁ、はい。もしもし?」
「寝てたのか?」
その声は野太く、随分長い間、聞いていない声だった。
電話の相手が会社の上司ではなく、古い友人であると解り、安堵する。
「ああ、おまえか。久しぶり。いや、起きてたよ」
「嘘付け、絶対寝起きだろ。なんか、電話出てから『間』があったぞ」
「起きてたってマジで。んで、どうしたの急に」
「いや、久しぶりに会って話したくなって。元気にしてるかなと思ってね。今日は…… 仕事か?」
「休みに決まってるだろ。仕事だったらもうとっくに遅刻だよ」
「そだな。それで、どう? 今から。駅前の喫茶店にでも」
「今から?」
「こっちから誘っといてなんだけど、午後から用事があってさ」
「なんだよそれ。急だなぁ」
そう言って振り向くと、ふてくされた表情の佐奈と目が合った。
「うーん、ごめん。今日はちょっと一緒に買い物に行こうって言ってて」
「言ってて、って、誰が?」
「誰って、佐奈だよ」
そう答えると、テンポ良く話していた友人の声が途切れた。
「もしもし?」
「ん、あぁ、聞こえてるよ」
「あれ? 言ってなかったっけ? 佐奈と一緒に住み始めた事」
「いや、それは知ってる」
「だよな。悪いけど、そう言う訳で今日は」
「すまん。実を言うと、話したい事がある。大事な話なんだ」
友人が突然、声のボリュームを上げた。
「なに? なんかあったのか?」
只ならぬ雰囲気を感じ取り、僕の声のトーンも自然にシリアスになった。
「あぁ、何かあったと言うなら、そうだな。今すぐ聞いて欲しい話がある」
「電話じゃダメか? 会って話した方がいい?」
「そうだな。会って話した方が、いい」
「わかった。じゃあ…… 9時半に駅前集合でいいか?」
「それでいいよ。悪いな」
「いや、大丈夫だよ。それじゃあ」
通話を終了すると、佐奈が立ち上がった。
「そ・う・じ。するんじゃなかったっけ?」
まるで母親が子供を叱るように、腰に手を当てて仁王立ち。そんな佐奈を説得するには、事情を解ってもらうしかない。
「友達、なんか悩んでるみたいなんだ。ほんとごめん。昼までには帰ってくるから」
「いいよ。私1人でやっとくから」
「すぐ戻るって。帰ってから一緒に、いや、俺が片付けやるから」
「約束?」
「約束、する。やるよ」
「じゃあ行っていいよ。朝ごはんは?」
「食べてくるよ。ごめん、1人でなんか食べてて」
「はーい」
早々と着替え、玄関のドアへ向かう。
リビングからドアまで4m足らずの距離。なのに、いつもより妙に長く感じた。
靴を履いてドアノブを掴んだ時、それは微かに聞こえた。
『ダメ 行かないで』
確かに、佐奈の声だった。
「なんか言った?」
振り返り、声を掛ける。
「ん?」
あっけらかんとした表情の佐奈が、リビングから顔を出す。
「今、なんか言った?」
「ううん、何も言ってないけど?」
「そっか。じゃ、行って来ます」
「はぁい、行ってらっしゃい」
笑顔で手を振る佐奈に背を向け、僕はドアを開けた。
その瞬間、もう二度と佐奈に会えない気がしたのは、きっと、疲れているせいだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます