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自分たちの姿を視界に捉えたときから、彼女には拒絶や排除の色が濃かった。大人しく話を聞いてくれるかどうかは一か八かだと佑次は覚悟していたが、まさか逃げられるとは正直なところ思っていなかった。裏を返せば、それだけ彼女は傷ついたということなのだろうが、でも、こちらとしては、逃げる彼女を捕まえなければ謝ることもできない。
「頼む、待ってくれ!」
なずなの後ろ姿にそう叫びながら、昼休み中の生徒で賑わう廊下を駆ける。
「俺たちはただ謝りたいだけなんだ!」
「西窪!」
「お願い、なずな、話を聞いて!」
彼女を呼び止める声が次第に大きくなり、廊下に溢れた生徒が何事かと四人の姿を目で追いはじめる。教室の中にいた連中も、そのただならぬ声と気配を聞きつけて教室の前後の戸にわらわらと集まってくる。
おびただしい数の好奇の目。膨張して膨れ上がるひそひそ声や囁き声。おいおいどうしたー、修羅場かー? なんていう、心にざっくりとナイフを突き立てるような囃し声に嘲笑。衆目に晒されて頬が火照り、体が一気に重くなる。心臓のあたりが一番重い。ぐっと喉の気管も絞られ、息が苦しい。
それでも佑次はなずなを追い、なずなは逃げ、佑次の後ろを走る中島と小田島もけして足を止めなかった。なずなとの距離はまだ十分に開いている。もうすぐ廊下の突き当りだ。階段を使って逃げられたら、上か下か、手分けをしなければならなくなるかもしれない。
しかしなずなは、そんな佑次の焦りとは裏腹に、十分な距離を保ったまま三年の階の廊下を駆け抜け、突き当りの階段を左に折れて消えていった。数秒遅れで階段までたどり着いた佑次にも、もう彼女が上の階へ逃げたのか、下の階へ逃げたのかはわからない。
「……そういえば、なずなって……超足速いんだよね」
佑次よりさらに数秒遅れて小田島愛が、
「前にフィギュアスケートやってるって……そういや、言ってたわ」
そのさらに数秒遅れて、中島も階段にたどり着くなり言う。
「マジかよ! そういう大事な情報はもっと早く言ってくれよ~……」
文化部だからそんなに運動神経はよくないだろうと高を括っていた、とはさすがに言わなかったが、どうりで距離が縮まらないはずだし、身のこなしも軽いと思った。廊下に散らばる生徒を軽々と避けていたのには、どうやらそれなりの理由があったらしい。
「仕方ねえ、三人で手分けすっぞ」
校舎内はガヤガヤと賑わっているので、足音でどっちに行ったかなんてわかるはずもない。うねうねの髪を盛大に揉みながら言えば、息も絶え絶えのふたりも、こくりと頷く。
その後、ものの数秒で決まった割り振りは、上の階の捜索が中島と小田島、下の階が佑次という布陣だった。音楽室で昼休みを過ごす部員もいるので、もしかしたらそこへ逃げ込むこともあるかもしれないという島島コンビの推測だ。そうなれば、まったくの部外者である佑次が押し掛けるよりは、なずなも少しは話を聞く気が起きてくれるかもしれない。
部に顔を出さなくなってしばらく経つが、やはりそこは、なずなのテリトリー内だ。とっさに逃げ込む先として足が向くことも十分に考えられるのではないだろうか。
「じゃあ」
「おう」
短く言葉を交わし、佑次はひとり、階段を下りはじめる。
ここは四階建て校舎の三階。中学のときは、三年が一階の教室を使うという年功序列スタイルだったが、北高は小学校のときと同じで学年が上がるにつれて階も上がっていくという仕組みを取っている学校だった。とりあえず一階まで下りて下駄箱を確認し、外履きがあれば、そのまま別棟の特別教室をひとつずつ回ろうと算段を付ける。
四階を探しに行った島島コンビも、そこにいないとわかれば必然的に別棟に意識が向くだろう。ふたりとは番号の交換はしていないが、校舎内を探していれば、そのうち落ち合えるはずだ。
「マジか……」
しかし、果たして下駄箱には、なずなの外履きはなかった。内履きを乱暴に突っ込んだ痕跡だけが残っており、相当急いでいたんだろうという状況を生々しく物語っていた。
頭を掻きむしりながら昇降口のガラス戸に目を向けると、しとしとと雨が降り出していた。昼休みがはじまる前まではなんとか降らずにもっていた天気も、ここにきて、どうやら空から雨を降らすことに決めたらしい。天に見放された気分とはこのことだろうか。
当たりくじを引いたのか、それともこれは、ハズレくじなのか。
「……くそっ」
誰かの置き傘を乱暴に引き抜き、一目散に雨の中へと駆け出していく。島島コンビのもとへ戻って状況を説明する時間さえ惜しかった。だって、もし傘も持たずに飛び出していったんだとしたら、今頃なずなは雨に打たれて途方もなくなっているに違いないのだから。
こうなったすべての原因は佑次なのだから、そんなやつに傘を差し出されることを、なずなはきっと良しとはしないだろう。その気持ちはよくわかる。もし佑次がなずなと同じ立場だったら、ものすごく嫌だし気まずい。けれど、なずなのもとへたどり着くためのチケットをいち早く手に入れてしまったのもまた、ほかならぬ佑次なのである。
こればっかりは俺も西窪も仕方がないと諦めるしかない。そう腹を括った佑次は、傘を広げる時間も惜しいままに、ところどころに出来はじめたアスファルトの窪みから水しぶきを上げながら、校門を抜けて昼下がりの閑散とした通学路に闇雲に駆け出した。
風邪を引かせてしまう前に、なんとしてでも見つけたかった。謝って謝って謝って、そして自分たちのところへ――みんなが待っている吹部のところへ連れ戻してやりたかった。
*
しばらく走ると、幹線道路とぶつかる大きな通りに出た。コンビニやファミレスの看板の間に背の低いビルが並んでいて、傘を差していたり隣の人の傘に入れてもらったりしながら、制服姿のOLやスーツ姿のサラリーマンがビニール袋を下げてビルの中へ消えていく。
佑次は、通りの左右や向かいの通りをひととおり眺めて北高のセーラー服を探す。すぐに大手コンビニチェーンの軒先に目当ての人物を見つけた佑次は、安堵のため息をつくと、
「西窪」
彼女の名前を呼んだ。
どんなに逃げ出したくても、勢い込んで学校を飛び出しても、結局は高校生の足で行けるところなんてコンビニくらいがせいぜいだ。なにも持たずに飛び出したのだから、さらに行動範囲は絞られる。学校近くのコンビニ前なんて可愛いなと思うのと同時に、これくらいしか行くところがないのに学校を飛び出せた彼女の行動力に感服する。
それほどまでに彼女は佑次とも中島とも話をしたくなかったのだろう。名前を呼ばれてもこちらを見ようともしない行為そのものが、それを如実に物語っていた。
「……なんで追いかけてきたのが浅石君なの」
それでも逃げる様子はなかったので、ゆっくりとなずなの前まで行くと、彼女は実に面白くないといった声で開口一番そう言った。佑次もおおいに同感だった。なんで追いかけてきたのが俺なんだろう。島島コンビならどんなによかったことかと心の底から思う。
「だよな、マジごめん……。手分けして探そうってなったときに、俺が下の階を探すことになったからさ。期待してないやつに追いかけられても、西窪も困るよな」
「……っ。そういうことを言いたいわけじゃなくて。どっちにしろ、誰に追いかけられても同じことを言うつもりだったんだよ。たまたま浅石君が言われるハメになっただけ」
「そっか」
「うん……」
それきりなずなは口を閉ざした。佑次も、次になにを言おうか考えながら、しばし閉口することにする。今日は朝から肌寒い日だった。セーラー服の上に羽織ったカーディガンの前を抱き合わせたり腕をさすったりしながら、彼女は俯き、じっと自分の足元を見つめる。
佑次もそこに目をやり、そっか西窪はスニーカー派なんだな、なんていう、どうでもいい発見をする。北高女子は圧倒的にローファーが多いが、中にはなずなのようにスニーカーを愛用している女子生徒もいる。なずなの足元は、アニマル柄のハイカットスニーカーだった。なかなか個性的なセンスをしているなと思う。ハイカットなら自分も普通に手に取るが、アニマル柄はさすがに手が出ない。いつも無難に黒とか目立たない柄を選んでしまう。
「で。さっき言ってたけど、浅石君はなにをそんなに謝りたいの?」
無難だが面白みの欠片もない自分のスニーカーに目を落としていると、たまらずといった様子でなずなのほうから話を振ってきた。無言を貫こうと思っていたのだろうが、佑次があまりにも無言なので居たたまれなくなったらしい。相変わらず彼女は自分の足元から顔を上げないが、自ら水を向けてきたということは、少し落ち着いてきたようだ。
「ああ、うん。吹部の中でなにがあったのかは俺にはわかんないんだけど。傷つかなくてもいいことで西窪がここまで傷ついたのは、全部俺のせいだから。それを謝らせてほしいと思って、島島コンビと追いかけた。……ほんっとごめん! 俺、西窪がどんな気持ちで吹部と俺らの間に入ってたか、全然考えてなかった。部長だからってだけで頼りすぎちゃって、ほんと悪かったと思ってる。謝って済むことじゃないけど、このとおりだ。俺のことは許さなくていいから、せめてあのふたりの話だけでも聞いてやってもらえないか」
必死に頭を下げ、誠心誠意、気持ちを伝える。ガバリと腰を折った拍子に髪に残る雨の雫がうねうねの間から弾け、貼り付く髪とともに佑次の頬を張った。
「バカじゃないの? そんなこと言われても、今さら話を聞きたいなんて思えない」
「でも、頼む。一回きりでいいんだ、どうか俺の我儘だと思って、聞いてやってくれ」
「……なにそれ。調子乗ってんの? こんなの、雨に打たれながら探しに来た健気な自分アピールじゃん。こんなことで私の気持ちが動くとか、絶対にあり得ないから」
「わかってる。全部わかってるけど、でも……っ!」
「最低だね、浅石君って。最後は決まって私に丸投げとか、ほんといい神経してる」
「……うん」
「そういうの大っ嫌い。結局自分のことしか考えてない人の言い分だよ。こっちがどれだけ浅石君に振り回されて辟易してたのかも知らないで、こうやってのこのこやって来てさ。浅石君が応援に吹奏楽も取り入れたいなんてバカなことを言わなかったら、吹部は今までどおり、ちゃんとみんなで部活できてたのに! 壊した張本人がなに言ってんのよっ」
「うん……ほんと、ごめん。それしか言えなくてごめん……」
「謝ればいいってもんじゃないでしょ? 許さなきゃいけないこっちの身にもなってよ。それがどんなに苦痛か、浅石君にわかる? わかってるなら軽々しく言わないで!」
「っ……」
徐々にヒートアップしてきたなずなの声が、耳に胸に突き刺さる。本当になずなの言う通りだと思う。傷つけたほうより傷つけられたほうが大きな苦痛を伴う選択を迫られる。どうせ結局は謝られたら許すしかないのだ。……傷ついた心は絶対に戻らないにも関わらず。
それを許してほしいだなんて、いったい誰が言えよう。
言えるもんか、そんな最低な台詞。たとえ死んでも、言ったりなんかするもんか。
佑次は申し訳なさや自分の不甲斐なさにギリギリと歯を食いしばった。
教室でなずなに声をかけようとしたときは、ちゃんと謝れば許してくれると思っていた。そんな浅はかな自分を思いっきりぶん殴ってやりたい気分だ。
逃げ出した姿を見て、そこでようやく彼女がどれだけ深く傷ついているのかを知ったのだ。今もこうして頭を下げ続けてはいるが、最初から許しを請うつもりで下げたわけではなかった。ただ、探して、見つけて、今もなずなを心配して校舎中を探し回っているだろう中島と小田島の島島コンビのもとへ無事に連れ帰ることが、今の佑次にできるたったひとつのことで、自分に課した使命で、唯一彼女にできる償い方だと。その気持ちだけだ。
けれどそれを、なずなは詭弁だと言う。傷つけたほうだから言える体のいい台詞だと。
まったくそのとおりで返す言葉もなかった。小学生の悪戯じゃあるまいし、謝れば許してもらえるだなんて、この期に及んでまだ甘えているのは自分のほうだ。
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