当時僕は大学を卒業して入社した会社を一年で辞め、アルバイトで食いつなぐ日々を送っていた。再就職する意欲も起きず、出口のない毎日だった。ただ、小説だけは、毎日コツコツと書いていた。

 たまたまその日はアルバイトが休みで、昼過ぎに起きだした僕は、夕方まで小説を書いて、食事をしに出かけた。ドアの鍵を閉めたとき、唐突に皿うどんが食べたくなった。学生の時によく通った古い店。卒業してからは滅多に行くことはなくなったけど、まだあるだろうか。こうして僕は取り立ててたいした理由もなく、四年後に取材することになる店に向かった。

 店は空いていた。少なくとも僕が入ったときまでは。

 皿うどんを注文し、料理を待っている間にどんどん店は混みはじめ、あっという間に満席になった。

 僕はテーブルに置かれていたスポーツ新聞を広げた。

 また新しい客が入ってきたようだったけど、僕は新聞から顔を上げなかった。

 やがて、店主の奥さんが、「合い席、いいですか?」と僕に声をかけた。

「いいですよ」と答えて、ふと僕は顔を上げた。

 高校生くらいの女の子と、小学校低学年くらいの男の子が四人掛けのテーブルの向かいの席に座った。

「すみません」と女の子がいった。

「いえ」と僕は答えて、またスポーツ新聞に意識を戻した。

 女の子は皿うどんとちゃんぽんの小――その店のちゃんぽんは大と小の二種類がある――を頼んだ。

「お姉ちゃん、お尻が痛い」男の子がもぞもぞと体を動かした。

「がまんしなさい」女の子がぴしりといった。

「だって……痛いんだもん」なおも、男の子はもぞもぞしている。

「あの」僕は女の子に声をかけた。「こっちのイスの方が柔らかいから、代わりましょうか」

 少女は一瞬、戸惑いの表情を見せたけど、首を振った。

「いえ、いいんです。いつも何かしら文句をいうんです」そして、男の子の両脇に手を差し入れて座っている位置をずらした。「ほら、ちゃんと座れば痛くないでしょ」

 男の子はしぶしぶうなずいた。

 やがて店主の奥さんが皿うどんを運んできた。

「皿うどん、お待ちどうさま」

 奥さんが僕の前に皿を置こうとしたとき、男の子が大きな声で「はいっ」といって手を上げた。

 僕と奥さんと女の子が固まった。

「だ、だめよ」まっさきに女の子が反応した。「これは、お兄さんのなのよ」

 僕と奥さんはまだ固まったままだ。

「いいですよ」僕は女の子にいった。「どうぞ」

「でも……」

 僕は奥さんにうなずくと、奥さんも頷いて男の子の前に皿を置いて、いった。「よかったわね」

「すみません」女の子は頭を下げた。「ほら、しんちゃんも、ちゃんとお礼いいなさい」

 男の子はふいっと、よそ見をして、いった。「いいんだ。だって、僕、せつなしゅぎしゃだから、いいんだもん」

「しんちゃん!」女の子がいった。

 僕は笑って、男の子に問いかけた。

「君、すごい言葉知ってるね」

 ここでようやく男の子は僕の方を見た。「お姉ちゃんが、いつも僕のことをそう呼ぶんだ。僕がいつも――」

「もう! しんちゃん、黙って食べなさい」

 意外にも男の子は、素直に皿うどんを食べ始めた。

 しばらくして、女の子のちゃんぽん小と僕の皿うどんが運ばれてきた。彼女は取り皿をもらって、男の子の皿うどんを少し取り分けて、それも食べている。

「お姉ちゃん」突然男の子がいった。「この人、新聞読みながら食べてるよ」

 スポーツ新聞を読みながら、皿うどんを食べている僕を、男の子がじっと見ている。

「大人になったらいいのよ。黙って食べなさい」女の子は申し訳なさそうに僕を見た。「すみません。気にしないでください。弟にはいつも行儀が悪いっていってるから」

「いや。その通りだよ」僕は皿うどんと格闘している男の子にいった。「お姉さんは偉いね」

「うん」男の子は顔を上げた。皿うどんにかかっていたあんで、口の周りがべとべとになっている。「だって、お姉ちゃん、しょーせつかになるんだもん」

「ちょっと、しんちゃん!」

 女の子は真っ赤になってしまった。

「もう、べたべたじゃない」恥ずかしさをごまかすように、女の子はテーブルの上の箱からティッシュペーパーを何枚か抜き取って、男の子の口の周りをぬぐってやっている。

 そんな彼女を見ていた僕と視線が合うと、彼女は「すみません」といって、うつむいてしまった。

「僕と同じだ」

 思わず僕は、そんな言葉を口にしていた。

 彼女は顔を上げた。

「小説家。僕もなりたいと思ってるんだ」

 そんなことをいったのは初めてだった。これまで誰にも、友達にも、親にさえもいったことがなかったのに。

「そうなんですか」

「うん。なれるかどうかわからないけど」

「じゃあ、あの、これまで小説書いたことあるんですか」

「まあ、一応」

「どれくらいの長さですか」

「長編が二本と、あと短編もいくつか――」

「すごい」

「そうかな」

「私、だめなんです。書き始めても、最後まで書き終えたことがなくて。途中ですぐに詰まっちゃうんです。それでまた別のを書き始めるんですけど、結局はまた同じで……」

「うん。よくわかるよ」

「そ、そうですか」

「僕も最初はそうだった。でも、君くらいの頃からがんばって書いていれば、絶対に上手くなる。今はまだどうやって形にすればいいのかが、わからないだけだよ」

「そうでしょうか」

「うん」

「でも、誰も本気にしてくれないんです。私が小説家になりたいっていっても」

「どうして」

「私、学校の成績悪いから」

「そんなことは関係ないよ」

「そうなんですか」

「うん」

「本当にそう思いますか」

「そう思う」

 僕の向かいの席に座ってから初めて、女の子はほっとした表情を見せた。彼女が何かいいかけたとき、男の子が大きな声でいった。

「僕もしょーせつか!」

 僕は男の子に向かって、いった。

「お姉ちゃんのいうことをきかなきゃ、なれないよ」

「きく!」

 男の子の答えに、僕と女の子は顔を見合わせて笑った。

 やがて客は減っていき、例によって、店主の奥さんがラジオのボリュームを上げた。

 大きなラジカセから、曲が流れてきた。

「お姉ちゃん、『にーとびーいんらー』だよ」

「うん、そうだね」

 それは、カーペンターズの曲だった。  

 たぶん男の子がいったのは、サビの部分の歌詞だろう。英語の発音をそのまま真似ているんだ。

「好きなの?」

 女の子はうなずいた。

「いい曲だよね。僕も好きだよ」

 ふたたびうなずいて、「あの」と女の子がいった。

「はい」

「なんていうか、ありがとうございました」

「僕は別になにも……」

「ちゃんと話を聞いてくれた人、いなかったから。だから、嬉しかったです」女の子は姿勢を正した。「私、改めて、がんばろうって、思えました」

「マニュフェスト」

「え?」僕の言葉に、女の子は首をかしげた。

「宣言、っていう意味だよ」僕はいった。「確かに、聞いたよ。君のマニュフェスト」

「はい。私も確かに、聞きました。あなたのマニュフェスト」女の子がいった。「ほんとうは、何か形にして残しておきたいですね」

「宣言を?」

「はい。今日の気持ちみたいなものを。そういうのって、たぶんどんどん忘れていっちゃうと思うんです」女の子は窓の外を見た。外はもうすでに真っ暗で、街灯がともり始めてていた。

 僕はしばらく考えて、いった。

「こういうのはどうかな。もしも、いつか僕たちが書いた小説が本になったときに、献辞ってあるよね、本の最初のページに、誰々に捧ぐ――ってよく書いてあるでしょ」

 女の子はうなずいた。

「あそこに、共通の人の名前を書くっていうのはどうかな。それを見たら、今日のことを思い出すと思うんだ」

「なるほど。いいと思います。でも誰の――」

 そのとき、僕たちの耳に、ちょうど男の子が口真似をしていた曲のサビの部分が流れ込んできた。

 カレン・カーペンターは、少しハスキーな声で、こう歌っていた。

 ――私はわかってる。この不完全な世界で、完全な物を求めてるって。

   愚かだと思うけれど、私はこう思ってる。

   いつかきっと、それを見つけることができるって。

 僕たちはどちらからともなく、うなずいた。

「カレンに捧ぐ」と僕はいった。

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