忘却の旅人
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一、時間からの逃走。
「──これはこれは、色男さん。どうしたの? 式を明日に控えた大事な時にこんなところに来て、そんなしけた顔をして」
そのよれよれの白衣を小柄で華奢な肢体にまとった十五、六歳ほどの少女は、長めのボブカットの黒髪に縁取られた端整な小顔の縁なし眼鏡の奥の黒曜石の瞳をいたずらっぽく煌めかせながら、入口から入ってきた僕の姿を見るなり開口一番そう言った。
古都
「いやそれが、挙式を目前にして
我が国でも指折りの名家である
そう。櫛一つ入ってないぼさぼさ頭と伸びたTシャツに色気のないスラックス姿なれど、そこはかとなく気品が感じられ十分に美少女と呼び得る見目麗しさを備えたこの女の子こそ、僕の婚約者である光葉の双子の姉であり三人そろって昵懇の幼なじみの関係にある、草薙
「それでカズ
「うっ」
さすがは双子。歯に衣着せぬ、見事な毒舌っぷりだこと。
「いくら我が国を代表する物理学の権威である
「おまえにだけは、言われたくはないわ!」
そうなのである。彼女こそは大富豪の令嬢として生を受けながら、何かにつけ優秀で品行方正な双子の妹が早々に次期当主に内定してしまったのをいいことに、自分のほうは生家を離れ独立しつつも親の金を使ってこんな山奥に住居兼用の研究所を建ててもらって、小学校を卒業するやいなやそれ以来学校に行くこともなく引きこもっての研究三昧の日々という、正真正銘の社会不適合者なのであった。
もっとも、その世界レベルの天才っぷりは自他共に認めるところであり、SF小説マニアだった僕の影響を受けて小学生のころから量子論なんぞに興味を持ち、生来の図抜けた頭脳と生家の潤沢な資金と最先端の研究施設を最大限に利用して、何と去年独力で量子コンピュータの開発に成功したほどであった。
しかし本来なら中学校に通っていたはずの女の子が、物理学者やSFマニアの夢の象徴だった量子コンピュータを本当に現実のものにしてしまうなんて。
「……まあその、光葉の気持ちもわからないでもないんだけどね。いくら法的には許されているからって、十六歳になったとたんの結婚式なんだし。それでなくてもこの縁組みは、あくまでも本家が強引に取り決めたものなんだしね。いくら次期当主としての責務だからって、そのせいで好きでもない相手と結婚しなければならないなんて、彼女が不本意に思うのも当然だよ」
そのように僕が自嘲混じりにつぶやけば、なぜだか目を丸くしてまじまじとこちらを見つめながら、さもあきれ果てたかのようにため息をつく白衣美少女。
「はあ〜。相変わらずカズ兄ってば、女心というものが全然わかっていないんだから」
十六歳の女の子に、いきなり成人男性としての女性観にダメ出しを食らってしまった。
「な、何だよ? 僕がいったい何をわかっていないって?」
「いえ、何でもないわ。こっちの話。とにかくこのままじゃ、光葉が可哀想だってことよ」
「そんなことはないぞ! 確かにこれは家同士が決めた結婚だけど、僕の光葉に対する愛は本物なんだ。彼女のことは必ず幸せにして見せるぜ!」
「えっ。カズ兄って本家の命令にしぶしぶ従ったとかじゃなくて、本気で光葉のことが好きだったの? ……うわあ。もしかして、ロリコンなの?」
「なっ⁉ だ、誰がロリコンだよ! 歳が離れているといっても、せいぜい四、五歳じゃないか?」
「でも二人が婚約したのって、カズ兄が高校生で光葉が十一、二歳のころじゃない。その当時から本気だったということは、実は私たちのことを心の中では、『ぐへへへへ。やはりロリコンゲームは、双子の小学生モノに限るぜ♡』とか思っていたわけでしょ?」
「思うか! それに僕は、ロリゲーなぞやらん!」
「そりゃそうでしょうね。何せ現実にあんな美少女お嬢様を、すでに攻略しているんですものね」
「攻略なんかしていないよ!」
しかもどさくさに紛れて自分と瓜二つの双子の妹のことを、ぬけぬけと美少女とか言うんじゃねえ。
「とにかく、年齢差とかそんなものは関係ない。何せ僕の光葉に対する愛は、未来永劫変わりはしないのだからな!」
僕がそのように自信満々豪語した、その瞬間。
目の前の少女の表情が、一変した。
「……へえ。未来永劫ねえ。だったら確かめてみる?」
「え? 確かめるって……」
「あそこを見てちょうだい」
涼華の指さすほうへと視線を向ければ、広大な研究室の壁際で優に総面積の四分の一ほどを占めている、御自慢の巨大な漆黒の量子コンピュータと極太のチューブで連結されている、何やら見慣れない珍妙なる物体が鎮座していた。
それは一言で言えば、SF映画あたりでよく見受けられるコールドスリープ用のカプセルベッドのようなもので、コンピュータ本体同様に漆黒の細長い卵形をしており、上面だけが透明のガラス製の蓋に覆われていた。
「……何だこりゃ」
「タイムマシンよ」
「はあ⁉」
「ほんの数日前に完成したばかりなの。これを使えば自由自在に未来に行って、カズ兄自身の目で今の自分の言葉が本当に守られているか、実際に確かめることができるってわけよ」
にこやかな笑顔でさも何でもないように、とんでもないことを言い出す少女科学者。
「ちょ、ちょっと。何がタイムマシンだ、自由自在に未来に行けるだよ⁉ そこらの三流SF小説でもあるまいし、量子コンピュータさえあれば何でも実現できるってわけじゃないだろうが! そもそもタイムトラベルなんて、この物理法則が支配する現実世界で実際に行えるはずがないじゃないか⁉」
おいおい。最近じゃすっかり食傷気味のSF小説における量子コンピュータ万能論を、現実世界にまで持ち込むんじゃないよ!
「ええ、そうね。確かに物理的には無理でしょうね。──だったら『精神的』なら、どうかしら?」
「へ? 精神的って……」
「大学で量子論を専攻していて古今東西のSF小説にも明るいカズ兄なら、当然御存じよね? 量子コンピュータが並行世界に存在している同じ量子コンピュータと、
「あ、ああ。もちろん」
むしろこれは量子コンピュータというか量子そのものを語る上での、基本中の基本の理論であった。
何せ量子コンピュータのこれまでのコンピュータとは比較にならない計算処理能力──いわゆる量子ビット演算能力の実現は、この仮説に基づくゆえと言われているくらいだからな。
ちなみに量子とは我々人間を含むすべての物質を構成する物理量の最小単位である分子とか電子とかいったもののことだが、形ある『粒子』であるとともに形なきエネルギー的存在の『波』でもあるという相反する性質を同時に有するゆえに、観測するごとに形や位置情報が違ったり場合によっては形なき波として観測できなかったりするという、文字通りに『存在自体が確率的な存在』であった。
言うなれば通常の物体のように元々存在しているものを目で見て確認をとるのとは異なり、実際に観測するまではそもそも存在するか存在しないかが決まっておらず、あくまでも確率的に存在し得るに過ぎないのだ。
このいわゆる確率的な性質をコンピュータの演算方式に利用したのが量子コンピュータなのであり、これまでの『存在するかしないか』──つまり『1か0か』の二進法に限定される一般的なデジタル式の演算方式とは違って、量子というものが1(粒子たる完全存在)から0(波たる非存在)の間で無数の形態を取り得ることから、理論上では無限のビット数の超演算処理能力を実現することが可能となっている。
これは量子論の一派であるコペンハーゲン解釈においては、量子というものが常に無数の形態を取り得る可能性を同時に存在させているからとするが、それに対して同じ量子論の一派である多世界解釈においては、量子というミクロレベルでは何と無数の並行世界が
つまり多世界解釈に基づけば、量子コンピュータは世界の垣根を越えて無数の並行世界に存在している同じ量子コンピュータ同士で、超並列計算処理をしていることになるのだ。
もちろんこれはあくまでも理論上での話であるが、それでもいやしくも正統な物理学の分野である量子論に並行世界などといったSF小説もどきの眉唾物がいきなり登場したことは、さぞかし奇異に思えることであろう。
しかし『可能性』としては、並行世界が存在することも量子コンピュータが次元を超えて超並列計算処理をし得ることも、
例えば先ほどのコペンハーゲン解釈で言えば、量子は常に無限の形態を取り得る可能性を有しているが、観測された瞬間に一つの形態に確定され、他の形態となる可能性はすべて消え去ってしまうとするのだが、それに対して多世界解釈では、観測されるまでは無数の並行世界が干渉し合い続けていて、観測されたとたん一つの世界だけが我々にとっての唯一の現実世界として確定されるところはコペンハーゲン解釈と同様だが、それ以降も他の無数の並行世界のほうもあくまでも可能性としてならこれまで同様に存在し続けるといったところが最大の違いであった。
これを量子論においてあまりに有名な『シュレディンガーの
ここまでくどくどとあれこれ述べてきましたが、「何を言っているのか全然わからない」、「何が生きている猫と死んでいる猫が同時に存在しているだ、ホラー小説かよ⁉」、などと思われている方も多いでしょうが、わかりますわかります。むしろ「全然わからない」という御感想こそが正しいのです。
なぜなら『わけがわからない』ということこそが、量子論の欠点であると同時に、最大の魅力でもあるのだから。
しかし実は、『量子とはサイコロのようなものである』と見なすだけで、話はとたんに至極簡単明瞭なものとなるのである。
あの何が何だかわけがわからないコペンハーゲン解釈における量子の形態の無限の可能性が同時に多重的に存在している状態とは、言ってみれば何のことはない、まさしく回転状態にあるサイコロそのもののことだし、観測された瞬間に存在形態が確定するというのも、まさにサイコロが静止すれば上面にくる目が決まるという当たり前のことを言っているだけに過ぎないのだ。
ただしなぜだかコペンハーゲン解釈においては、サイコロを二次元的視点──つまり平面的にしか把握できず、唯一目にすることができるサイコロの上面が静止するたびに1から6の目をランダムに代わる代わる出すものだから、「……ふうむ。このサイコロという平面体は何とも不思議なものじゃのう。まるで常に1から6の数字を現す可能性が同時に存在しているようなものではないか」などと、サイコロが立方体であることを理解していれば極当然なことをまじめくさって言っているだけなのだ。
それに対して多世界解釈ではサイコロというものが1から6の数字が書かれた立方体であることを当然のこととして知っていて、たとえたまたま1の目が上面に来ても、同時に2から6の目も側面と底面にちゃんと存在していて、サイコロを転がすごとにすべての目が上面にくる可能性があることを承知しているという次第であった。
このようにサイコロに置き換えるだけで量子論というものが当たり前のことを言っているだけであり、実は多世界解釈とコペンハーゲン解釈が本質的に同じことを言っていて、むしろ量子というサイコロを三次元的視野で見れる多世界解釈が、あくまでも二次元的視野でしか見れないコペンハーゲン解釈を、わかりやすく説明し直しているだけだということがおわかりになられるであろう。
ただしここでは量子論をわかりやすく説明するために、あえてそれぞれの解釈における次元を一つずつ落としているのであり、コペンハーゲン解釈がれっきとした三次元的理論であるのに対し、サイコロで言えば側面や底面に当たる並行世界という別次元の視点を導入した多世界解釈は、まさしく四次元的理論であるとも言えるのだ。
言うなればコペンハーゲン解釈がかくもわかりにくいのは、存在形態そのものが多重的に存在するという四次元的存在である量子の性質を、あくまでも三次元的視野で無理やり説明しようとしているからであり、やはり並行世界という四次元的視野に基づいた多世界解釈のほうがより好ましい理論と言わざるを得ないであろう。
つまり量子というものは我々の常識の
ちなみにこの『サイコロ理論』を提唱し量子力学界を震撼させ、全世界のすべての物理学者やSF小説家の目から鱗をたたき落とし、多世界解釈とコペンハーゲン解釈のどちらが正しいかなぞといった不毛な論争を止ませ、今や量子論を小学生にも理解できるものにし、これまでの時代遅れの量子論SF小説を一切合切ごみ箱行きにしてしまった御本人こそが、まさに今し方僕の目の前でいきなり量子コンピュータに引き続いてタイムマシンを造り出したなどと言い出した、幼き天才少女科学者殿であったのだ。
確かに彼女の量子論に対する新見解が画期的なものであるのは認めるところであるが、それが未来へのタイムトラベルの実現にどう関わってくるというのだ?
ここで彼女お得意の多世界解釈を持ち出してくるとしても、むしろ実現でき得る可能性があるのは並行世界間の転移じゃないのか?
そのようにあれこれと考えを巡らせながら怪訝な表情を浮かべている僕を少しも忖度することなく、その少女は自信満々の笑顔で更に驚くべきことをあっけなく言い放った。
「いい? もしも本当に量子コンピュータならではの量子ビット演算能力を生み出しているのが、次元を超えた量子コンピュータ同士の多世界間
…………はあ?
「ちょ、ちょっと。いきなり何を言い出すんだ? 量子コンピュータの多世界間シンクロ現象だって眉唾なのに、人の精神体を他の世界に送るなんて。だいいちコンピュータのデータと人の精神体とでは、まったく別物だろうが⁉」
「あら、そうでもないんじゃない? そもそも精神とは人の脳で生み出されるものであり、そして人の脳こそはこの世で最も理想的な天然の量子コンピュータとも呼び得るものなのよ? そういう意味からも人の精神体と量子コンピュータとの相性は、むしろ抜群とも言えるのではなくって?」
ぐっ。さすがは量子論の改革者。いかにももっともらしいことを言いやがって。
「いやでも、それってあくまでも精神体だけなら異世界転移ができるかも知れないって話だろ? タイムトラベルとは関係ないじゃん」
「だからそこが、量子論を満足に理解していないくせに無闇に自分の作品に量子論を登場させている駄目SF小説ばかり読んで誤った見識を植えつけられてしまった、最近のSFマニアのかわいそうなところなんだけど、多世界解釈の言うところの『可能性として存在し得るすべての世界』とは、文字通りにすべての世界のことなの! なぜなら可能性としてなら、どんな世界だろうが存在し得るのだから。つまりここで言う多世界とは現実世界と似たり寄ったりの一般的な並行世界だけではなく、夢や妄想や
──‼
「よってこの量子コンピュータの多世界間シンクロ作用に基づいて造られているタイムマシンなら、人の精神体を過去へでも未来へでも自由自在に転移させることができるわけ。しかも精神体のみだからこそ、タイムトラベラー自身にとっては言わば過去や未来の夢を見るようなものであり何ら危険性もないし、もちろん物理法則に反することもないし、
「タイムトラベルを実現しながら、
「だって別にそこいらの三流SF小説みたいに、この時代のカズ兄が肉体丸ごともう一人のカズ兄がすでに存在している未来に行くわけでなく、あくまでも精神体だけで時間転移して未来の自分自身の肉体に憑依するようなものなのであり、外見上──つまり物理現象的には何の影響も与えず、しかも内面的にもたとえあなたが自ら『実は自分は過去からきたんだ』などと言い出そうが、嘘や妄想と思われるだけで誰からも相手にされないだろうし。言うなれば物理的にも精神的にも、
何その、詭弁と極論の集合体みたいな理論は。
……いや確かに、一応言っていることには筋は通っているけど。
「いやいやカズ兄、別にためらう必要はないじゃない。たとえ私が嘘をついていたりタイムマシン自体が失敗作だったとしても、あくまでも精神体のみの転移なんだから、肉体丸ごと時の迷い子になったりすることはないんだし、成功したらしたでめっけ物でしょ?」
「……それは……確かに……そうだけど」
「それとも怖いの? 自分の将来の姿を知るのは」
──っ。
「そりゃそうよねえ。『僕の光葉に対する愛は未来永劫変わりはしない!』とか言っておいて、ほんの五年後あたりの未来の有り様を覗いて見れば、すでに他の女の人に鞍替えしていたりしてね」
「ば、馬鹿なことを言うんじゃない! そんなことがあるものか!」
「だったら試してみる? 五年後の未来へのタイムトラベルを」
「おう! やってみせようじゃないか⁉ 僕と光葉との愛の生活を、この目でしっかりと確かめてやるぜ!」
まさしく売り言葉に買い言葉そのままに気がつけば僕は涼華に促されるままに、ごっついフルフェイスのヘルメットを被り宇宙服みたいなボディスーツに身を包み、人類史上初のタイムトラベルの実験に臨まんと、漆黒のカプセルベッドの中に横たわっていた。
「──それでは、いい旅を」
そう言いながらガラス製の透明な上蓋を閉じる白衣の少女の笑顔が、あたかもまんまと獲物の魂をだまし取ることに成功した悪魔の会心の笑みのように見えたのは、果たして気のせいであろうか。
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