はるのひのけもの

阿部登龍

はるのひのけもの

 1


 花と緑に飾られた優美な玉座の上に、ひとりの少女が座っていた。

 彼女がまとうのは穢れひとつない純白の衣装だ。かんばせを隠す長い襞つきのヴォワルから、白金の髪がこぼれ、ドレスの肩へかかる。サテンのドレスを彩るのはおびただしい花々で、花冠、そして首飾りや胸飾り、手や腰、裸の足にいたるまでが、ふりそそがれた薔薇や金雀枝の花びらによって埋もれたさまは、まるで春そのものに抱擁されているかのようだった。

「マイエに花を、マイエに花を」

「わたしたちのマイエに花を」

 傍らにひかえた二人の少女が、教会前に集まった村人たちに向かって、交互にそんな言葉を投げかけた。列を作った村人たちは声に応じて一人ひとりおずおずと進み出ると、彼女の足もとにひざまずいた。彼らはそれぞれ手にした花を恭しく彼女に献じ、一方の少女は花を受け取ると、彼らの額や差し出された手に祝福の口づけを落とす。こうして玉座の回りには、次第に色とりどりの春の花の山が築かれていくのだった。

「マイエに花を、マイエに花を」

「わたしたちの春の女王に花を」

 少女は五月の女王であった。

 女王は毎年、その春に十三になった村のむすめたちのなかから選ばれたが、その条件はなによりも容姿の端麗さにあった。なぜなら春の女王は、〈春〉の花嫁でもあったからだ。こうして村でいっとう美しいむすめを選んで、花嫁の衣装を着せて春を祝うことによって、村はその年一年の実りを、〈春〉から約束されるのであった。

 しかし、それは春祭りの、ひとつの貌にすぎなかった。花がときとして毒を持つように、花冠を戴く五月の女王は、美しき春の花嫁であると同時に、たぐいまれなる娼婦でもある。

 この百年、村は豊かであり続けた。それはとどのつまり、これまで百人のうら若いむすめたちが、毎年、毎年、欠かすことなく、その美しさによって〈春〉をたぶらかし続けてきたということに違いない。

 けれどそれも、今年で終わりだ。

 わたしで、終わりだ。

 痩せた少年の額に最後の口づけをしてから、今年の五月の女王は胸のなかで嗤うのだった。

 春風が白いヴォワルをめくり上げ、彼女の焼け爛れた肌を一瞬だけ露わにした。



 マイエと呼ばれるたび、胸のなかでこごった澱がさざめく。

 マイエ。五月の女王。春の花嫁。

 モード・クラヴィエが十二になるまで、彼女にとってマイエとは彼女に与えられるべきあらゆる讃辞と声誉の象徴だった。村でいっとう美しいむすめだけにまとうことを許される純白の衣装、花の冠、優美なる玉座。彼女は他のすべての村のむすめたちがそうするようにマイエに憧れた。そして、その名とともにある栄光が、既に己の手のうちにあることをわかっていた。

 それは不遜であったのかもしれない。しかし決して思い上がりではなかった。

 長くのびた手足。白い肌。細く、幼げでありながら、たしかに女体たる起伏。陽の光を紡いでできた白金の髪に、すこし長すぎる頸。桃色の唇、ツンと尖った鼻。美なるものの寵愛を総身に浴びる少女を、しかしことのほか美しく見せたのは、その瞳であった。常に赤みのさした目尻、長い睫、その奥にかがやく瞳は、両親のどちらにも似ない濡れたような碧で、見る者を湖面へと誘う人魚シレーヌのものであった。

 モードの美しさはただならぬものであった。それはときに狂気を呼び寄せた。火炙りにされかけた数だけ祀り上げられた。魔女と女神、彼女は相反する名で呼ばれ、しかしどちらの呼び名も彼女の本質を表すにはいたらなかった。

 なぜならモード・クラヴィエは生まれながらのマイエだったからだ。

 彼女は五月の女王であり、

 花嫁であり、

〈春〉を誘惑し豊穣をもたらす、淫蕩なる娼婦であった。

 しかしそのたぐいまれなる妖花は、十二のときに実の父によって手折られた。

 いや、実の父というのは間違いだろう。あの浮かれ騒ぎの収穫祭の晩、彼女を組み敷いたあの男は、モードの血を分けた父ではない。彼女の真実の父は旅人で、彼がこの村に立ち寄ったのは十三年前、ただ一度きりだ。

 たった一晩の裏切りは誰にも知られるはずがなかった。

 けれどモードは生まれた。この上なく美しく、父と同じ濡れたような碧の瞳を持って。

 お前の母親は娼婦だ。通りすがりの男に、男にだったら誰にだって、よだれを垂らして股を開くような雌犬だ。犬の子どもは犬だ。だからお前も犬だ。汚らしい、醜い、犬だ。

 男はモードの上に覆いかぶさりながら何度も彼女を罵った。藁屑が彼女のむき出しになった肌を刺した。男の吐息と体液は、熱と糞尿と青草の――獣の臭いがして、モードに強い吐き気を覚えさせた。しかし、それは本当にそうであったか。モードには今となってもわからない。獣のような臭いを放っていたのは男だったか。それとも、モード自身であったのか。そのことが。

 男はモードが意識を失うと、ぐったりしたその体を担ぎ上げて、村の広場へと向かった。それは年に一度の収穫祭の日で、無数の松明が焚かれた教会の前の広場では、奇妙な調子の音楽に合わせて村人たちが荒っぽいダンスを踊っていた。湯水のように振舞われる酒や肉に、女たちは嬌声を上げ、男たちは雄叫びを上げ、広場の中央に焚かれた大きな焚き火がそれらを照らし出していた。

 祝いというには陽気で淫らにすぎるその祭りのただなかを、男は自らのむすめを担いで歩いた。

 男はもちろん狂っていた。狂いすぎていたから正常に見えた。人びとは男が平然と歩いてくるものだから、彼がつぶした羊か豚を担いででもいるものかと思った。ある若者などは彼に手伝いを申し出て、すげなく断られたほどだった。

 男は人びとをかきわけ、焚き火の前までくると、そのなかに自らのむすめを投げ込んだ。

 モードの不幸は、男が肩から彼女を下ろす寸前、意識を取り戻してしまったことだ。彼女はなんとか炎から逃れようと身をよじり、結果、死を免れてしまった。美しい少女の鼻から上はあっという間に業火に飲み込まれ、助け出されたときにはもう手遅れだった。自慢の髪は灰になり、肌は醜く縮れて、彼女の両のまぶたを塞いだ。

 花は踏みにじられた。

 マイエ。

 モード・クラヴィエにとって、その言葉はもはや呪詛でしかなかった。

 けれどそれでも、残酷なほどにモード・クラヴィエはマイエだった。生まれついてのマイエだった。無慈悲な運命も〈春〉も、彼女をその手から放しては呉れなかった。



 モードに、村人たちが言うところの悲劇――彼らにとってそれはまさしく興をそそる劇そのものであった――が降りかかったとき、当然のごとく彼らが案じたのは翌年のマイエを誰にすべきかということであった。醜い火傷を負ったモードのことも、口から泡を吹きながら憤死した彼女の養父のことも、それを知って自刃した母のことも、村の繁栄と発展という大きな懸案の前では、些末事でしかなかった。

 当然のなりゆきとして、次のマイエの候補として白羽の矢が立ったのは、村でモードの次に美しいむすめであった。少女はモードの親友であり、つまりモードを心底から妬み、憎んでいたむすめであった。モードはそのことを硬い地面に転がりながら知った。絶望を感じるような心など、とうにあの日の炎にくべたつもりだったが、それでも涙は少女の蟹足腫シェロイデとなった頬を流れた。

「愛しい娘をむざむざ〈春〉などに娶らせてやるつもりなど私にはないのだ、モード。私は君の父親とは違うからな。他の男の娘とはいえ、自分が育ててきた娘だ。それを火の中に放り込むなど。ましてや――おお、想像するだにおぞましい」

 モードの前で身を震わせたのは、かつて親友であった少女の父。太鼓腹の領主は、クナルフの王とも顔がきく金持ちであり、その財産のほとんどはこの村の豊かな土地、すなわち〈春〉がもたらした豊穣によって築いたもののはずだった。

 その男が、〈春〉を侮辱するともとれる言葉を吐き、そしてあろうことか自分の娘の代わりにモードを〈春〉に差し出そうと画策しているのだ。

「〈春〉か? 馬鹿が。この時代そんな迷信を本気で信じているのなど、この村の愚かな村人どもと、育ての父親を誘惑して火炙りにされた醜い魔女くらいのものさ」

 モードの無言の非難を目ざとくとらえ、領主は突き出た腹を揺らして哄笑した。

「この村の豊穣はすべて私の力さ。わからないのか? 私や私の父が、あの頭の固い愚か者どもに、辛抱強く、王都で生み出された進んだ農法を授けてやってきたから。そして私が王にかけあい、様々な融通をしてもらってきたから、この村はここまで発展して来たのだ。決まっているだろう」

 領主は満足げにそう言った。モードは彼の言になにひとつ納得することはなかったが、だからといって、彼女が申し出を拒む理由もやはりなにひとつなかった。

 マイエは春祭りの儀式を終えると、衣装に身を包んだまま森の中へと連れられ、そこで〈春〉に捧げられる。春の花嫁としての役割をまっとうするのだ。森の中でなにが行われるのか、モードも、そしておそらくは村人たちも知りはしなかったが、ただひとつ間違いがないのは、儀式を終えて〈春〉に捧げられたマイエが森のなかから帰ってきたことは、今まで一度もないということだ。

 死。

 醜いまま生きるくらいなら、春の女王として自ら枯れることを選ぶ。

 それがモードに残された最期の矜恃であった。



 ものものしい行列の真ん中を歩きながら、モードは笑い出したい気持ちをこらえるのに必死だった。数十人の村人からなる行列。それはマイエの、春の女王の花嫁行列だ。だがこんな辛気くささでは、まるで葬列ではないか。

 村人たちはおびえているのだ。あの男はどうだか知らないが、村人たちは心の底ではみな〈春〉の力を信じている。それゆえに、モードを差し出され、たばかられた〈春〉が村にもたらす災厄を恐れているのだ。さりとて王とつながりを持つ男の言葉に従わぬわけにもいかぬ。板挟みになった彼らの苦悩がモードにはよくわかる。だからこそ可笑しかった。

 マイエの花嫁行列に参加できるのは村人のなかでも、男と、既婚の女だけである。〈春〉を惑わせぬため、その年のマイエに選ばれなかった少女はもちろん、やがてマイエ候補となるべき少女、未婚の女――ようするには参加できないというわけだ。

 当のマイエがこれでは掟もあったものじゃないが。モードは自嘲気味に思った。

 そうした理由で、モードが花嫁行列に参加するのはこれがはじめてだった。しかしもちろん、憧れのマイエの晴れの姿を、村の少女たちが見逃すはずもない。ありし日の春の晴天。かつてそうであった友人たちと、木苺の茂みから覗いたあの行列。そのさまは両目の光を失ったいまでもありありと思い浮かべられた。

 おだやかにそそぐクナルフの太陽と風にさざめきわたる緑の丘。〈春〉のまします森へとつづく道のりはなだらかな登りとなっていて、行列はそこをまっすぐに進んでいく。赤や黄色、春を祝う色とりどりの衣装に囲まれて、その人はいる。

 マイエ。

 ただ、その美しい少女ひとりだけが、春雷を思わせる真っ白なドレスをまとう。

 踏みだされる裸の足は、土に穢されることもなく、顔をのぞかせた春の草花の上を軽やかに越えていく。野にはなたれた牝鹿のように、自由で、力強く、生き生きとして、彼女を囲む大気だけが他より格段に清冽だ。たった二週間前まで一人の――美しいけれど平凡な――村娘にすぎなかった少女は、ここにいたり、もはや肉なるくびきから解き放たれたように見える。

 マイエ。淫蕩にして無垢なる春の女王。

 春のはじまりのただひと頃、少女はこの世界でいっとう美しい春の支配者になる。

「マイエ」

 呼びかけられてはじめて、モードは自分が物思いに耽っていたことを知った。

 顔を上げると空気が変わったのを感じた。前方に、ひやりとして、重々しい存在が横たわっている。〈春〉の住まうあの森が、いまやすぐそこにあるのだ。モードは導かれるようにして歩き、「お着きになりました」やがて足を止めた。行列の他の者たちはずっと後ろに控えている。

「いよいよね、モード」

 傍らでふたたび少女の声が言った。低く悪意のこもった声音。

 花嫁行列の掟にはひとつ例外がある。男と既婚の女のみ、という掟において、マイエのもっとも近しい付き添いだけがその中に含まれない。女王の側近には、今年、村で二番目に美しかった少女が任ぜられる。すなわち、あの男の娘であり、モードのかつての親友だ。

 このような掟を誰が作ったものかはわからないが――あるいは〈春〉自身であったかもしれない――その者がねじくれた心の持ち主であることは間違いがなかろう。選ばれた少女と、選ばれなかった少女。二人の間に生まれるべくして生まれる憎しみを、かれに思い描けぬはずがない。

「どう。その醜く塞がった目でも見える? 感じる? 森よ。あなたはこれからここで死ぬの。よかったわね。薄暗くて陰気で、おぞましい――娼婦が客をとるための、虱のたかる藁の褥。厩でなくしたあなたにはぴったりの場所でしょう」

 モードは沈黙を貫いた。声を出すたびに痛む、焼けただれた喉のせいではない。かつての親友の言葉に今さら傷ついたわけでも、ない。

 それは掟なのだ。マイエに選ばれた娘は、冠を戴いた時から決して言葉を発してはならない。それはマイエの掟であり、モードはマイエなのだ。生まれついての五月の女王であり、ただその冠、花の王冠だけが、あの紅蓮の炎のなかでモードの手の内に燃え残ったすべてなのだ。

「最後まで反論しないのね。ご立派だこと」

 なじるような少女の言葉も、もはや遠い風のざわめきと同じだった。

「あなたのそういうところが、私は大嫌いだった」

 そうモードの耳元に言い残して、衣擦れは遠ざかった。風の音と同じ――同じはずなのに、どうしてか、とうの昔に乾いたはずの傷が疼く。もう二度と聞くことのないだろうその声が、深くて重たい沈黙の中へと少しずつ飲み込まれていった。

 さようなら。私の友だちだった人。

 あなたの頭上にかぎりない災厄がふりつづかんことを。



 2


 ぎこちなく踏みだすたび、腐った下生えが足裏で不快に潰れた。湿ってよどんだ空気と、耳が痛いほどの沈黙。森には五月とは思えない陰鬱さが立ちこめていた。

 モードは悪い方の足が強ばってきたのを感じ、足を止めた。四時間は歩いただろうか。一向にどこかに辿り着く気配はなかった。木の根に脚をすくわれ、倒木をよじのぼり、枝に肌を裂かれ、春女王のドレスはいまや薄汚れた襤褸切れに成り下がっている。

 そもそも辿り着くべき目的地などあるのかどうか。ひょっとすると、今までのマイエも同様だったのだろうか。あてもなくひたすらに歩き、〈春〉に出会うことすらなく、そののちに飢えて死んでいったのだろうか。モードのまぶたが塞がっていなければ、そこらじゅうに横たわる花嫁装束の白骨たちが目に入ったのだろうか。数えきれない春の花嫁たちの悲惨な末路を想像して、モードは戦慄した。

 私もいま、その中のひとりに数え上げられようとしている。

 そのときモードは確信してしまった。〈春〉はこない。こない、ということがわかると思った。彼女のもとをおとずれるのは、豊穣をもたらす力をそなえた超常の存在などではなく、みにくく、凡庸で、どうしようもなく避けがたい、死、なるものだ。

 モードはおのれの愚かしさを呪った。これまで彼女を充たしてくれていたのは、復讐の、ささやかな満足感だけだった。そのことにようやく気づいたからだ。村が〈春〉から与えられる災厄を思うと心の奥で生まれる暗い悦び。けれど、もうそれもありえない。〈春〉はこない。くることなどできやしない。あの男の言葉が耳の奥で反響する。

 はじめからそんなものいやしなかったのだから。

 灼熱の塊がモードを襲った。歯を食いしばりながらうずくまる。そうでもしないと耐えることができそうになかった。絶望の竈にくべられて、彼女の中で紅蓮に燃えさかるのは、まがいもない怒りだった。モードは激昂していた。春の女王は体を震わせて怒り狂っていた。なにもかもが許しがたかった。不貞によって自分を生んだ母親も、それに狂った父親も、村人たちも、〈春〉も、掟も、マイエも。

 なぜ私が死ななければならない!

 なぜ、こんなところで、みにくく、孤独に、死ななければならない!

 その声ならぬ絶叫が、きっとそれを呼んだのだ。

「娘よ」

 真っ赤に染まった世界で声は言った。

「……だれ」

 誰何の言葉はひどく簡単に口をついた。モードを縛りつけた掟はもう消えていた。ここにいるのはもう、すべての栄華をほしいままにする、かの春女王ではないのだ。

 獣。怒りに身を震わせる一頭の、けだものだ。

「〈春〉」

 樹齢数百年の大木のような。歳を経て芯まで乾ききり、石や岩と同じものになった生き物の声。不気味なほど静かで強靱なその声を前にして、モードは思いがけない感情を得た。血肉を湧き立たせる憤怒がひと息に裏返った、それは歓喜だった。

「〈春〉、〈春〉――おまえが」

 そうか。おまえが。おまえが、おまえが、そうか。

 はるよ!

 めくるめく、底しれない法悦がモードの中を稲妻のように走り抜ける。

「おまえが……」

「マイエ。わたしが〈春〉。お前の運命だ」

 運命。それはかつてのモードにとって、たまらなく甘美なことばだった。やがては炎に焦がされた眼で、憎悪とともに見つめたことばだった。〈春〉の言葉は天啓のようにモードを打ちすえた。そして彼女はいま、なすべきことを知った。

 自らのかんばせを隠す、白いヴォワルに手をかけ、払う。

 ひと息分の沈黙があった。

 ただひとこと、

「……災厄を」

 かれは、それだけですべてを諒解したようだった。

「報いよう、わが愛しき娘よ」

「ならば」モードは虚空にむかい手を伸べる。「とりなさい」

 白磁と呼ばれた指は曲がり、うちの二本は熔けてひとつになっている。しかし、よどんで暗い森、破れほつれ泥と血に汚れた衣装をまとったむごたらしい少女の、なおをもってそれは五月の女王の仕草であった。春に娶られ、春をしたがえる、苛烈なる女王の姿だった。

 塞がれたその眸は見なかった。

 そのとき分厚い梢を貫いて地に落ちた、真白にかがやく光柱を。その中をくだりくるものを。〈春〉、かれは宙で一度だけのたうち、羽毛のように音もなく地に降り立った。それから、なめらかな硬殻で鎧われた、おのれのかしらをさしだした。

「女王、わたしは人の手をもたぬ。かわりに額を」

 てのひらの下に潜り込んだ〈春〉の膚を、本の装丁とモードは思った。村の教会の奥、書架に並んでいた背表紙たちが思い起こされる。それは時をくぐり、数多の手によって撫ぜられなめされた革の手触りだ。違うのは、その厚皮の向こうに脈動と熱があること。そして百年のあいだその膚に触れることが許されたのは、ただひとりであること。

 マイエ。春の女王の名を戴く、ただひとりの少女であるということ。

 畏怖と、ざらついた昂奮が、腹の奥でじわりと熱を帯びる。

「最初は教会にしましょう」

 いかにも楽しそうに微笑み、モードは思いつきを話す。

「それは、わたしを慮ってか」

「なぜ?」

「かの神にとり、わたしは夷狄であろうから」

〈春〉のことばに彼女はくすぐったそうに笑った。

「いいえ、違う。……でも、それがいちばん、かれらも思い知るでしょうね」

 かれら自身の旧き信仰が、その神を打ち滅ぼすのだ。無知と偏見と頑迷、そして退屈にとり憑かれた村人たちにとっても、それほど面白くわかりやすい劇もなかろう。それに、とモードは思い浮かべる。あの、出涸らしのように痩せた神父の、舐めるような目つき、じっとりと頬を這うシミまみれの手の感触を。

「すこし、動かないでくれ」

〈春〉の膚が離れる。ふと、空気が動く気配がしたと思えば、〈春〉の額はモードの体の下にすべり込んでいた。そのまま体をすくいあげる。モードはとっさに〈春〉にしがみついた。動揺で言葉をつまらせる彼女を〈春〉は持ち上げて、みずからの背へと運び上げた。

「乗り心地は」

「わざとね」

「さあて」

 含み笑いの〈春〉の返答に意外な思いをしながら、モードは抗議を込めてその背を叩いた。鈍い響きが返る。〈春〉の背中の皮膚は、額のそれよりもざらついており、跨がってもすべり落ちることはない。盲目ゆえに難儀しながらも、背に並んだ、おそらくは胸椎による隆起の間へと腰を落ちつけたモードは、肩をすくめて答える。

「でもまあ、悪くないわね」

「ならば、重畳」

 モードは股の下で、〈春〉の背が太く膨らむのを感じた。それから、長大な帆が風をはらむバシンという音。〈春〉の体がわずかに熱をもつ。鋼鉄のように、弓弦のように、張りつめた力があたりの空気を微震させ、それから、静かに発動した。

 ぐ、と体が押しつけられる。目眩のような感覚――空気の湿り、泥と青草の臭いが、またたきの間に遠ざかる。

 逆巻く風を突き抜けてかれらは春の晴天に躍り上がった。

 その頂点で、〈春〉の躯が倍にも膨れあがるのをモードは感じた。かれの意図を解するより前に彼女は口にしていた。満身の、憎悪と憤怒と嘲弄を込めて。

「おまえたちに、かぎりない災厄を」

〈春〉の咆哮が、万里のかなたまで轟きわたった。



 春と豊穣の花神を讃える春祭りフロラリアの日の、それは夕刻前のことであった。

 教会前の広場で準備に勤しんでいた男たちの頭上に、突然、万雷のごとき音と衝撃がそそいだ。一人は抱えていた荷を取り落とし、一人は算を乱して逃げ出し、広場は狂乱に包まれた。呻き、祈り、懺悔する声がそこここから上がった。そのとき起こったことのすべてを、彼らが正しく理解していたとは思われない。しかしそれでも男たちは知っていたのだ。

 それは彼らを糾弾する声であると。彼らの罪科の報いであると。

 弾劾の雷声はこのちっぽけな村はもちろん、山川を越えて目路かぎりどこまでも届いていたが、彼らにとっての不幸は、訪れたのが声だけではなかったことだ。

 みしりと教会の屋根が悲鳴を上げる。砂糖菓子を砕くように、石の屋根にたやすく食い込んだ四本一対の黒い爪。春風にあおられる長大な皮翼を畳みながら、〈春〉と呼ばれる生き物は、彼らをとっくりと見回した。

「わたしがわかるか、人間ら」

 鋭い歯が並んだ顎の、口辺から白煙を漏らしながら、〈春〉はそう問うた。止まり木の鳥というには獰猛にすぎるその姿に、逃げる足すら竦み上がった者たちは、呆然とかれを見上げるしかなかった。〈春〉は長い頸をわずかに傾けると、傍らの鐘楼に目をやった。鐘楼の上には、太い白木の十字架が立っている。かれは片脚を伸ばして器用にそれを捥いでくると、広場に集まった人間たちに向かって振ってみせる。

「これか。約定を忘れるほど、お前たちを惑わせたのは」

 冒涜的な所作であった。しかし、冒涜というのなら、〈春〉かれ自身の存在がなによりの冒涜であった。広場の誰も答えを返さないのを見ると、かれは興味を失ったように十字架を放り捨てた。人の身の丈はある十字は地に落ちると、真っ二つに割れ、土を高く跳ね上げた。

「ならばよい。裏切りの報いは、死によってしか払われん」

〈春〉の理不尽な宣告を、モードはかれの背で聞いた。しがみついたその膚がつかの間、触れられないほどの熱を帯びる。熱はすばやく上方へ、〈春〉の頸を駆け上がってゆき、そして顎へと達した。

 しゅうう、といささか気の抜けた音。

 そして絶叫さえ焼尽する白光が、広場を洗った。

〈春〉は跳び上がり、翼で体重を殺して焦土となった広場に降り立った。教会をふり返ると、ふたたび息を吸い込む。灼熱が長い頸に沿って走る。白光。今度は長かった。はじめに、簡素ながらも美しい飾り窓のガラスが熔け、次にその錬鉄の枠が続いた。梁や柱の木が耐えきれず発火し、最後には教会を形作る石組みそのものが白熱しはじめたところで、〈春〉は顎を閉じた。

「少しゆれるぞ」

 モードが返事をする前に、またがった体がぐおんと振られる。感覚から、〈春〉が体を旋回させているのだとモードはわかった。直後、破城槌が城門を叩くような重い音が轟いた。その衝撃は〈春〉の脊柱を伝って、モードの体にまで響いてくる。尾だとわかった。村に一枚だけあるタピスリーに描かれた〈春〉の姿をモードは思い出していた。あの刺繍の中でとぐろを巻いていた長大な尾は、なるほどこのようにして振るわれるのだと。このように、おのれの息で焼き尽くした石の教会を叩き壊すために。

 それから何度か〈春〉の尾は振るわれ、そのたび白熱した石塊が家々を襲った。

「教会は陥ちた。次は」

 短く〈春〉が尋ねてくる。わずかに昂奮から醒めてみれば、いつしか鐘の音が響いてきている。方角は、ちょうど領主館がある方だ。その切迫した響きを聞きとって、モードは微笑した。

「そうね……」

 最後に尾を一掃き、燃え上がる瓦礫を払うと、〈春〉はふたたび長い翼を広げた。鈍色の皮膜が炎に煽られて満帆に膨れあがる。災厄を全身にみなぎらせ、いにしえの生き物は空の高みへと跳躍した。



 鐘の音は丘上の領主館から――より正確にいうならば、その敷地に建てられたちいさな礼拝堂から響いていた。鐘楼の鐘を打ち鳴らすのは、年若い青年である。とっくに逃げだした領主と使用人たちに代わり、彼ただひとりが、村へ危機を告げるべくここに踏みとどまっていた。

 しかし、それも無為なことかもしれぬ。ちらと視線を移せばたやすく眺望された村のさまは、まさしく目を覆いたくなるような惨状であった。

 教会を中心に火の手が広がり、黒煙が立つ。村人たちは逃げ惑い、家畜は小屋を破り道へと抜け出している。黙って観察してみれば、村のそこかしこには投石機でも用いられたかのような跡が見受けられた。家々の屋根や壁を、あるいは人体を、巨大な石塊が打ち砕いている。想像を絶することに、それらはすべてあの教会の残骸であるようだった。

 鉄槌。言葉を、青年は思い浮かべた。この村にそれを下すものはひとりしかいない。

〈春〉。それは、いしにえより村に実りをもたらしてきた、好色なる豊穣の主。

 そしておれたちが契約を違えたいまは、災厄そのものの具現だ。

 同時に思い浮かべられるのは、あのマイエの姿であった。春の花嫁。五月の女王。花冠とともに戴かれたその名にふさわしい、モード・クラヴィエは、初めて出逢った八つのときから美しい少女だった。

 それは春。萌えだした草木の精気が大気に爪をたててひりひりと光らせるような、晴れわたった春の日。遠戚の伝手をたどって海をわたり、遠く南クナルフに父とともにやってきた都会育ちの少年は、薄汚れた農村の子供らのなかにひとりの水精ナィアドを見た。額にはりついた一筋の髪、ゆるい襟ぐりから覗く鎖骨、ぴんと皮の張った膝。そして、濡れそぼった碧のひとみ。その時かれの内に芽吹いた暗い欲望は、あの夜、あの炎のなかに完結した。するべきだった。しかし彼女は生き残った。火を浴び、熔けた肌に白いヴォワルを被り、モード・クラヴィエはマイエになった。だから、いまなお、かれはあの悍ましい想いの虜囚でありつづけている。

「来てくれると思っていた」

 自らの口からこぼれ出た言葉に青年はやっと合点する。このためにおれは鐘を鳴らしにきたのだと。

「あなただったのね、エド」

「……掟を破るのか」

「やめたの。マイエは」

 清らかなるとはいえぬ私ではね。長い頸を垂れた〈春〉の背から青年を見下ろして、モードは答えた。吊り上がった赤い唇が縮んだ肌をいびつに引きつらせる。その自嘲の奥にひそむ蛇の姿をみとめて、青年はぶるりと体を震わせた。

「いいや、おまえは。おれの――ああ、おまえはマイエだよ」

 身を絞るような情欲に目を細める。

「嬉しいわ」

 モードは感情の見てとれぬ微笑を浮かべると、

「〈春〉」

 応じて〈春〉が頸をもたげた。太い胸郭をはちきれんばかりに拡げて息を吸いこむ。流れ込む息に共鳴し、長い頸が管楽器のように震える。丘の上を影が這い伸びていく。西日はいまや山の端にかかりつつある。羽化したての蝶の羽のおののき、絶大な快楽。巨大なあぎとがひらかれた。その奥で白金にかがやくプラズマが――

 そうしてエドワード・ガーストンの肉と魂は一片も残らず蒸発した。

「ばかなひと

 モードは、かれの残したに向かって一輪の花を投げやった。

 あの春からずっと、五月の朝、かかさずに戸口に置かれていたその花を。

 マイエを選ぶための白百合を。



 3


 黄昏の空は光に乏しく、分厚い林冠の下にあってはそれ以上だ。薄暗い森を土を蹴立てて馬車が走る。堅く歯を食いしばる馭者の顔は、吊したカンテラに照らされて蒼白。かれの恐怖が伝染したか、馬たちの眼は血走り、その疾走はなかば狂奔にちかい。

「もっと急がせろ!」

 馬車の小窓から主人の叱責が飛ぶ。

「もっ、申し訳ありません! こ、れが精一杯で!」

「糞っ」

 がたんと馬車が跳ねた。男はすぐに頭を引っ込める。

 荒い道である。これほどの速度を出せば、必然、車体の揺れは避けえない。しかし彼らには、危険を押してなお急がねばならない理由があった。彼らは追われる身である。その追っ手はいかなる鳥より速く、いかなる狼より恐るべきものであった。

「おい――」

 馭者が悲鳴を上げる。馬と同じ血走った眼が、道の先に立つ白い人影をみとめていた。森の薄暗さと彼自身の焦りから、その顔は見分けられなかった。馬たちは止まらず、もちろん止めることもできず、互いの距離だけが急速に縮まっていく。

「ど、どけろ! 轢いちまうぞぉっ」

 怒声。衝突まで数秒もない。

「できるものなら」

 もしも馭者が声を荒げなければ、そう応じた声を聴くことができたかもしれなかった。もしも彼が冷静であったなら、両耳に掌を押し当てる仕草を目にできたかもしれなかった。そのどちらでもなかったために、馭者の耳は、二度と音をとらえることができなくなった。むろんそうでなくとも、間もなくかれはあらゆる感覚を失う運命にあったから、すべては誤差の範囲であった。

 咆哮が、森を揺るがした。



 頬に跳ねた土を袖で拭った。背後に〈春〉が激しい音を立てて着地し、地面がぐらりと揺れる。モードが迷惑そうにふり返ると、「ここは狭い」〈春〉は言い訳がましく答えた。道いっぱいの巨大な体を縮め、窮屈そうに翼を畳む。

 彼らの眼前には横転した馬車が一台あった。抉られた地面、空回りする車輪。折れた轅は墓標と見えた。元はきらびやかな装飾も、立ち木に激突し泥にまみれた姿では見る影もない。馭者台から投げ出された男の首は、あってはならない角度に曲がっている。馬たちはほとんど泡を吹いて倒れていたが、残った一頭だけは狂ったように嘶き、軛から逃げだそうとしていた。

「介錯してやろう」

〈春〉が首を伸ばし、ひと息吹いた。灼熱の舌が暴れる馬の首元をかすめると、あとには頸骨の燃え殻が白く残った。断面は焼け焦げ、血しぶきひとつない。支えを失った体が、どう、と地に倒れた。

「ひいぃっ」

 それに悲鳴を上げたのは、馬車の下から這い出してきた男であった。割れた額からは血が流れ、乱れた髪を汚している。高価なはずの衣装は血と土で見るも無惨だ。男は恐怖にしゃくり上げながら、その場からにじり下がりはじめた。その窄まった瞳は、薄暮に浮き上がる〈春〉の姿をとらえていた。

「がっ」

 服の裾を踏みつけ、男は無様に地に転がる。

「あいつね」

「そのようだ」

 口を開いたモードに男はふり返り、「先に言っておくけれど、どんな命乞いをしようが、逃がしてやるつもりはない」まるで目が明いているかのような答えに言葉を失う。

 あるいはその姿か。

 頭蓋にひとつかみ貼りついた金の髪と、焼け爛れた半面、潰れた両目、熔けた鼻梁。それらを申し訳ていどに覆い隠す白いヴォワル。美しかった花嫁装束はもはや端切れで、あちこちにできた鉤裂きからは、黒ずんだ痣や蟹足腫シェロイデ、なまなましい傷跡が覗けた。総身に血がにじみ、花弁の代わりに泥と灰が点々とまだらをつくっている。

 あの夜を凌ぐほど、モードは凄惨な立ち姿であった。それは、心底から〈春〉とマイエを侮蔑してきた男をして、つかの間言語を失せさせるに値するものだった。春の女王は、満身に憤怒と憎悪をたぎらせてそこにあった。

「……〈春〉」訝しげにモードが問う。「わたしには虫けらをいたぶる趣味はないと、言わなかったかしら」

 たしかにそれはモードの意志であった。一切の容赦と偏りなく、代わりに一人の漏れもなく殺戮すべしと。その結果こそ、ここより三リュー先でいまだ炎をくすぶらせる、あのうずたかい灰燼ではなかったか。

 しかし、〈春〉は黙して答えない。硬殻に包まれた長い面に表情は浮かばず、まして光を失ったモードにその意図を見てとれるはずもない。「〈春〉よ!」その沈黙を好機ととったものか、男が声を上げた。

「〈春〉よ。嗚呼、貴方様ならば、かならず、かならず私の価値を理解していただけると思っておりました! ご助命いただければ、この身にかえましても――」

「マイエ」

 命乞いを遮ると、〈春〉は低く笑った。

「私はな。虫けらというのが存外、好きなのだ」

 電撃的な速さで〈春〉の首が伸びた。その先端で血けぶりが上がる。肩を抑えて絶叫する男のそばに、〈春〉は右腕を吐き落としてやった。丁寧に傷口を焼き塞ぐ。都合四度、それはくり返された。〈春〉の巨体からすればさながら彫金師のような見事な手際である。ついに悲鳴すら絶やした男を、展翅板の蝶を見下ろす目つきで眺め、「生きながらはらわたを食んでやるというのは、人にはできぬわざよな」言い聞かせるようにつぶやいた。

「……悪食ね」

「あいにく、虫けら一匹喰らったところで壊れるような臓腑ではない」

 肥えた腹にゆっくりと歯列が飲み込まれる。正しく末期の、一度きりの絶叫がほとばしった。



「残るは母親と、娘か」

「いいえ。母親は七歳のときに死んでいるわ」

 私たちが、とモードはひとり付け加える。思い出されるのは女の顔。かつてたしかにあった美しい春の日のこと。領主の子たる自らの娘と、貧しい農家の娘とを同列に扱った――たしかに彼女はそうしたのだった。その内心がどうであったとしても――あの美しいひとのこと。そのひとは、私は選ばれなかったのだと言った。

 マイエに。春の女王に。

 なればこそ、モードはそれを望んだのだ。その花のかんむりを。栄光を。そうしたなら、〈春〉の花嫁たる純白の衣装をまとうことを許されたならば。あの美しいひとを、彼女のその美しさを、踏みにじってやることができると思ったから。選ばれなかった女を、あざ笑ってやれると思ったから。

「マイエ」

 モードはうなずく。「出して」

 横転した馬車に〈春〉の黒い爪がかかる。素早くこじると、メリメリと外板がめくれ上がった。〈春〉の鋭利な爪と顎とが器用にはたらいて、あっという間に馬車を解体してのける。露わになった馬車の残骸の上に横たわっていたのは、ひとりの少女だった。

 深い吐息とともに少女が言う。「残念だったわね、女王さま」

「〈春〉」

「あら、そこの怪物にさせなく、たって。私から説明してあげるわよ……」

「腹が深く傷ついている。この人間は助からない」

 折れた木の枝が、背中から腹までを深々と貫いており、そのスカートは自身の血でべったりと濡れていた。馬車が倒れてからの時間は、一人の人間を死の間際まで追い込むのには十分な長さだったろう。顔面は色を失い、ただ薄青い両目だけが強い光をたたえていた。

「たく……っは、が、無粋なトカゲね。忠実だこと」

「わたしは〈春〉であるから」

「女王に従うと?」

 せり上がってきた血を唇の端からこぼしながら、選ばれなかった少女は凄絶な笑みを浮かべた。

「その女……がいなけ、れば、別の女が選ばれただけ、というのに」

 モードは少女の言葉を正しく理解する。モードが死せば、村でいっとう美しいむすめ――マイエの冠は、かならずこの少女に譲られただろう。しかし、少女が領主の娘であるかぎり、彼女が森へ送られることはなかったはずだ。つまり、約定が破られることは、あの夜から決まっていたのだ。村の破滅は、避けられなかったことなのだ。

「ありえない。ずいぶん前から、わたしへの供物は送られてきておらぬ」

 少女の顔に驚きの色が広がる。

「あの娘たち、は」

「さて。だが、十三の若く美しいむすめだ。わたしへの供物以外にも使いようはあろう」

「あはっ、そうね……お父様なら、きっと、やるわ」

 蒼白な顔には喜色がある。あの無様な断末魔が聞こえなかったわけもなかろうが、それでも少女は誇らしげな声音で言った。男はいかなる異常の存在も恐れなかった。いや、恐れていたからこそ、恐怖と村の繁栄を天秤にかけた上で裏切りを選んだからこそ、彼女にとっては誇らしいのかもしれなかった。

「〈春〉」苛立ったようにモードが言う。

「むすめよ、父と同じに逝くがいい」

 それは〈春〉なりの敬意の表明だったのかもしれない。かれは彼女の父にしたようにゆっくりと首を伸ばすと、彼女の父にしなかったように、素早く、その腹へと歯を立てた。そしてその瞬間、少女はけたたましい笑い声を上げはじめた。

「わかった――そうか、おまえ、そうか! モード! あははっ、あはっ――っご、わかったぞ! あはははっ はっ あ」

 綱が引きちぎれるように少女の笑い声は途絶えた。〈春〉がその胴を食い破ったからだった。臓物の切れ端と大量の血をあぎとからしたたらせ、かれは頸をもたげる。

「……どういう意味」

「これで終わりだ」口腔のものを吐き出すと〈春〉は言った。「なにもかも」

「話しなさい〈春〉! あいつは、何に気づいた」

 モードは声を荒げ、〈春〉を問い詰める。

 うめくようにかれは答える。「いずれ話すつもりでいた」

 衝撃がモードを襲った。一瞬にして、体に太い蛇のようなものが巻きついていた――〈春〉の尾だと、すぐにわかった。「なんのつもり!」尾は鋼の桎梏としてモードを束縛し、身動きさえも許さない。裏切り、という言葉が全身に染み通り、怒りとして形をとる。

「裏切ったのか」

 いいや、と〈春〉は応じた。

「しかし、わたしの話がお前を幸福にするとはかぎらない」

 かれが言葉を発するのにともなって、熱い息がモードの顔に吹きつけた。強烈な草花と獣の臭い。鉄と火と、血の腥さ。〈春〉の声はすぐ目の前から聞こえていた。

「馬鹿馬鹿しい」モードは激情に任せて吐き捨てる。「おまえが私の幸福を望むとでも」

「そうだ」

「おまえが何を語ろうが、私の幸福は私自身が決めることだ」

「我が愛し子。お前なら、そう言うだろうと思った」

 答える〈春〉の言葉は、どこか諦観混じりに聞こえた。

 猛烈な熱がモードを包んだ。ヴォワルがめくれて吹き飛ぶ。髪がかき回される。怒りの声を上げようとすれば、熱風が口の中になだれ込んできてかなわない。火傷の跡に吹きつけるその熱は、モードに否応なくあの夜を思い出させた。

 その吐息はたっぷり一分つづいた。〈春〉が口を開いた。

「目を開けよ」

「なにを」

 馬鹿なことを、と口にしようとして、モードは違和感に気づく。焼けただれ、ほとんど感覚を失ったはずの半面に知覚が戻ってきていた。ぎこちなく力を込めても、あの引き攣るような抵抗がない。ついには潰れたはずの瞼が痙攣するにいたって、彼女はそろそろと目をあけた。

 光が鮮烈な流れになって、視界いっぱいに広がった。体が震えた。

 森の木々に、その枝々に、葉に、星の光は降りかかり、影を綾なして一反の織物とする。壊れた馬車も、死んだ馬も、はらわたを晒して横たわる二つとひとつの死体も――遠くくすぶる村の焼け跡ですら、光は容赦なくその下にうずめてしまう。

 おおわれているのだ、とモードは理解した。この救いようのない世界は、隈なく、逃げ場なく、光の粒に被覆されつくしているのだと。

 そのおぞましい認識に、モードは呻きをもらす。

「ああ……」

 みずからを見下ろす〈春〉の眼を見つめる。そこには少女の幻影がある。遠くあの運命の夜が、はるかにその先の過去までが、その姿には重なって見えた。乾いた燐光を放つくろぐろとした巨躯のなかで、ふたつの眸だけが、濡れたように鮮やかだった。

「わたしは、お前に、どう報いればいい」

 そう尋ねる〈春〉の声は、うろたえ、戸惑い、疲れきっていた。固く巻きついていた尾が、力なくほどける。立ち昇る精気が見る間に薄らいでいく。比類なく強大であるべきその姿は、もはや見る影もなく衰えていた。

 それから、〈春〉は彼女の足元にこうべを垂れた。巨大な、巨大な、人ひとりを丸呑みにすることのできるそのあぎとが、まるで赦しを乞うように差しだされた。

 だから、モードはその額に手をふれた。

〈春〉の碧の眼を見下ろして、春の女王は、長いあいだ沈黙していた。

 それから、こうとだけ言った。

「わが運命ペェルよ、私はけして私を赦さない」

 それにつづく言葉を知るものはもうだれもいない。

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