鎮魂歌

 我ながら酷い執着心だ、とゼノは思った。


 これまでゼノは、自身の嗅覚や聴覚を当てにしたことなど一度たりともなかった。イヌ科の動物とは違い、竜人族のそれは人間と然程変わらないものだったからだ。

 目印として残されていた月雫の花は、幾度目かの分岐路で姿を消していた。それでも、空気の澱んだ廃坑の中に点々と遺されたマリアンルージュの匂いを辿り、その声の元を突き止めることが出来たのは、ひとえにゼノの彼女に対する執着心に寄るものに違いなかった。


 抗議するように張り上げられた声に耳を澄ませて、彼女がまだ無事であることを知り、安堵する。

 道すがら拾ったシャベルを武器代わりに手にし、光苔が照らす通路を真っ直ぐに駆ける。時折り立ち止まって耳を澄まし、声のする方へとひた走った。

 彼女が居るその場所までは、僅かな距離しか残されていないはずだった。けれど、ゼノの想いを嘲笑うかのように、坑道内に響いていた彼女の声は唐突に途絶えた。

 ややあって、微かな悲鳴と共に不快な笑い声が耳に届いた。


 全身から血の気が引いていくのが判る。

 弾む心音と耳障りな乱れた呼吸に、ゼノは眉を顰めた。

 シャベルの柄を握り締め、足音を忍ばせて、声の途切れた方へと近付いて行く。


 群生する光苔に照らされた駄々広い空間。その中央で、制服を着込んだ黄金色の髪の男が蹲っていた。


 いや、違う。男は誰かに馬乗りになっていた。

 男の股の間から投げ出された白い脚。それがのものであることは、瞬時に理解できた。


 酷く冷静な気分だった。

 下卑た笑い声を上げ、興奮して息を荒げる男の背後に、ゼノはゆっくりと歩み寄った。手にしていたシャベルを振り被り、男の頭部を思い切り薙いだ。

 破裂音に似た派手な音を立て、男の身体が跳ね上がる。朱紅い飛沫を点々と撒き散らし、男は剥き出しの岩肌に倒れ込んだ。

 竜気を纏わずに殴りつけたとはいえ、完全な不意打ちだ。相当の衝撃を与えたはずだった。にも関わらず、男はすぐさま顔を上げた。振り乱した黄金色の髪の隙間から、ぎらついた碧眼が覗く。

 躊躇いなど欠片もなかった。間髪入れず、ゼノは再度、男の頭部を目掛けてシャベルを振り抜いた。

 剥き出しの岩肌に囲まれた空間に、派手な金属音が鳴り響く。瞬時に抜かれた男の長剣とシャベルの刃が交わり、火花を散らした。


 ――はやい!


 思うや否や、男がその剣を振るう。弧を描いた切っ先がシャベルの柄と刃を切り離した。

 弾き飛ばされて転がった刃の耳触りな音に眉を顰め、ゼノはさらなる追撃に身構えた。だが、ゼノの予測に反し、男はぴたりと動きを止めた。


「誰かと思えば、あのぼろ宿の……」


 しゃがみ込んだままゼノの顔を見上げ、ジュリアーノが呟いた。光苔に照らされた鮮血が、額から顔の半分を黒々と染め上げている。

 不意打ちで食らわせた一撃が効いているのだろう。額に手を当てたジュリアーノは、立ち上がるでもなく地面に剣をつき、ふたたび鋭い眼光をゼノへと向けた。

 

「ゼノ……」


 消え入るようなか細い声だった。振り返らずとも、マリアンルージュがゆっくりと身を起こすのがわかった。

 ジュリアーノの動きに注意を向けたまま二、三歩退がって距離をとると、ゼノは座り込むマリアンルージュへ目を向けた。


 間に合ったのか、間に合わなかったのか。ゼノには判断できなかった。

 ゼノを見上げるマリアンルージュの怯えた瞳は涙で濡れて、大きく肌蹴た胸元の、その左側の胸の下で、朱紅い鱗が鈍く光を反射していた。

 人型を取っていても隠すことのできないこの鱗は、竜人族の最大の弱点だ。他人に見られることは耐え難い屈辱でしかない。


「……すみません」


 視線を逸らし、手を差し伸べる。怯えるようにその手を握った彼女の手は、微かに震えていた。

 俯いておずおずと胸元を押さえるマリアンルージュに、ゼノは落ち着いた口調で告げた。


「あとは俺に任せて、行ってください」

「嫌だ! ゼノも一緒に……」


 弾かれたように顔を上げ、マリアンルージュが声を荒げる。

 だが、その想いに応えるでもなく、未だ鋭い眼光を向け続けるジュリアーノと視線を交えたまま、ゼノは淡々と続けた。


「俺はに確認しなければならないことがあります。マリアはレティとリュックのところへ行って、彼らを安心させてあげてください」

「でも……」

「彼に一撃を加えたとき、俺は竜気を纏っていませんでした。自慢にもなりませんが、俺は非力です。おそらく彼はすぐに立ち上がって……」


 言い終える前に、ゼノの視線の先でジュリアーノがゆっくりと立ち上がった。血液がこびり付いた頭部を押さえたまま、握り締めた剣の切っ先をこちらに突き付けて。


「レティを逃した貴女なら、わかるでしょう?」


 諭すようにゼノが告げると、瞳に涙を潤ませてマリアンルージュは静かに頷いた。


「――待ってるから」


 祈るようにそう言い残し、辿々しい足取りで坑道へと向かう。

 刃を失ったシャベルを片手に、ゼノはふたたびジュリアーノと対峙した。



***



「勝機のない戦いに巻き込まぬよう女を逃す。……なかなか殊勝な心掛けだな」


 嘲笑うかのように告げ、ジュリアーノが剣を振るう。不意の一撃を受けたとはいえ、ジュリアーノの動きは傷を負った人間のものとは思えない程に素早く、正確無比なものだった。

 目の前の男の武器は刃を失った唯の棒切れのみ。ジュリアーノの剣撃を受け流すことすらままならぬはずだった。

 だが――


「何か勘違いをしていませんか?」


 冷たく言い放たれた言葉と共に、甲高い金属音がジュリアーノの耳を突いた。折れた剣先が岩壁に弾かれ、火花を散らして足元に転がった。

 思いがけず、ジュリアーノは己の手にした獲物と、対峙する男の手に握られた獲物を見比べた。その姿には先刻の余裕など微塵も感じられない。

 無理もなかった。刃を失ったただの棒切れに、鍛え抜かれた長剣の刃が圧し折られたのだから。


「俺は貴方に負ける気など露ほどにもありません。彼女を先に行かせたのは、です」


 背筋を凍らせるような、感情の篭らない声だった。


「これから俺が下す、貴方に対する仕打ちを」


 冷ややかに告げる男から弾かれるように距離を取り、ジュリアーノは首に提げた対魔術のペンダントを確認した。だが、石は黙したまま動かない。それは、この異常な事態が魔力の類を一切使わずに為されているという事実を示していた。


「俺は正義を気取るつもりはありません。ですから、貴方が人狼ヒトオオカミの里を焼き討った犯人だと知ったところで、制裁を加える気などありませんでした。ですが――」


 言い終える前に、男がシャベルの柄を振り下ろす。

 素早く攻撃をかわしたジュリアーノの足元が、柄の先に抉られたように砕け散る。同時に布を裂く感触がジュリアーノの腕に伝わった。怯むことなく突き上げたジュリアーノの折れた剣先が、男の脇腹を裂いたのだ。

 確かな手応えに、一瞬、その美麗な顔に笑みを浮かべたジュリアーノだったが、その笑みはすぐに掻き消された。


「彼女を……マリアを傷つけたことだけは許せない」


 尚も言葉を続けるその男の脇腹――裂けた衣類から覗く生身の肉体には、一切の傷もなかった。


「化け物ッ!」


 上擦った悲鳴を上げ、ジュリアーノは後退った。震える手からすり抜けるように、折れた剣が甲高い音を響かせて足元に転がった。

 岩壁に背を預けるジュリアーノと向かい合うと、男は眉ひとつ動かすことなくシャベルの柄でくうを薙いだ。


「ま、待て!」


 自身の頭部を両腕で防御したジュリアーノだったが、振り抜かれた棒切れに触れた二本の腕は奇妙な音を立ててあらぬ方向に折れ曲がった。


「――――ッ!」


 声にならない悲鳴を上げ、変わり果てた両腕を凝視する。直後に激痛が両脚を襲い、ジュリアーノはその場に崩れ落ちた。

 苦痛に顔を歪ませて首をもたげたジュリアーノの眼に映ったのは、無感情に彼を見下ろす紅玉のような瞳と、薄緑の光を受けて鈍く輝く折れた剣先だった。


「直に日が暮れます。貴方ならこの意味がわかりますね?」


 抑揚のない口調でそう告げると、男は踵を返し、先刻姿を消した女を追って、坑道へと姿を消した。



***



 どれほど時が過ぎただろうか。

 ひしゃげた両腕両脚を引きずりながら、ジュリアーノは薄緑の光が照らす坑道を這い進んでいた。呼吸は浅く乱れ、激痛に醜く歪んだ顔には、生来の美しさなど欠片も残ってはいない。


「……こ、んな……場所で……」


 ――死んでたまるか。


 これまでに踏み躙ってきた者達の死に様が、ジュリアーノの脳裏に次々に浮かんでは消える。

 無様に命乞いをし、醜態を晒して地べたに這いつくばる、奴等は無能で下賎な生き物だった。

 けれどジュリアーノは違う。地位と名誉は勿論、その頭脳と剣の才、美貌に於いても、王都の誰よりも優れている。神に愛された自分が、このような場所で、このような終わりを迎えるなど、あってはならないことなのだ。

 別の通路に向かわせた部下も、脚を負傷した部下も、戻ってくる気配はなかった。これまで散々良い思いをさせてやったにも関わらず、別行動したことを理由に逃げ出したに違いない。本当に糞の役にも立たない連中だ。


 込み上げる不快感とともに砂と血が混ざった反吐を吐き出すと、ジュリアーノは冷たい岩壁に身を預けた。

 

 坑道の先に、小さな明かりが明滅していた。光苔の薄明かりとは違う青味を帯びた光が、ふわふわとジュリアーノに近付いて来る。


 役立たずの部下か、廃坑へ足を踏み入れた街の者か、この際どちらでも構わないだろう。重要なのは、今この場所に助けが来たという事実だ。やはり自分はこのような場所で終わる器ではないのだ。


 口の端を釣り上げて自信に満ちた笑みを浮かべると、ジュリアーノは安堵の息を吐いた。だが、そんな彼が異変に気付くのに、さほど時間はかからなかった。

 光はゆっくりとに近付いているというのに、人の話し声は疎か、足音さえも聞こえてこないのだ。明かりは徐々に数を増し、坑道内を淡い光で満たしていく。その正体にジュリアーノが気付いたのと、流れ出る血液に光が反応を示したのは、ほとんど同時のことだった。


 ――直に日が暮れます。貴方ならこの意味がわかりますね?


 忌々しい紅玉のような瞳の男の言葉が脳裏に蘇り、ジュリアーノはその碧眼を大きく見開いた。

 光の正体は瞬時に理解した。王都に住まう高貴な人間であれば、見飽きたはずの生物だ。


「くそがァ……ッ!」


 掠れた声を絞り出すジュリアーノを、淡い光が包み込む。伸ばされた幾筋もの光の触手が、傷口から肉片を毟り取っていく。

 とうの昔に感じなくなっていたはずの痛みが再び脳を刺激し、ジュリアーノは声にならない悲鳴をあげた。

 声の主の命が尽きるまで延々と続いた奇声は、風の吹き込む廃坑の奥深く、闇の中へと吸い込まれていった。



***



鎮魂歌レクイエム……」


 微かに届いた叫び声に耳を澄まし、ゼノはぽつりと呟いた。

 不意に立ち止まった彼を、マリアンルージュが不安気な瞳で見上げる。


「……どうかした?」

「いえ、……なんでもありません」


 ぎこちない笑顔で返し、ゼノは再び出口へと歩みを進めた。


 不本意に命を奪われた者の魂は、己の仇を返さんと現世に遺恨を残す。

 蓄積された負の情念はやがて瘴気を孕み、異形を生み出すのだと古書には記されていた。



 人殺しと罵られても構わない。

 快楽のために罪もない命を奪った奢り高い一人の男の、死に際に遺した断末魔の叫びが、焼け落ちたあの村の人狼達への、せめてもの慰みになればいい。



 延々と続くように思われた光苔に覆われた天井に、やがてぽっかりと開けた穴が現れる。岩肌に切り取られた夕陽に朱く染まる空が、まるで一枚の絵画のようにゼノの瞳に映った。

 朽ちかけた木製の階段を駆け上がり振り返ったマリアンルージュの朱紅い髪が、風に吹かれて微かにそよぐ。

 差し出された細い腕に手を伸ばし、ゼノはその表情を綻ばせた。



***



 アルティジエの街に迫る夕闇のもと、点々と明かりが灯る街並みを背に、鉱山夫と濃紺色の制服姿の男達が廃坑の出口を遠巻きに囲んでいた。


「マリア……!」


 涙混じりに声を上げ、レティシアがマリアンルージュに駆け寄った。少女の小さな身体を優しく抱き止め、マリアンルージュは「無事で良かった」と何度も呟いた。


「間に合ったみたいで良かったよ。姉ちゃんは……全くの無事ってわけではなさそうだけど」


 ふたりの様子を見守るように立ち尽くしていたゼノに、リュックがゆっくりと歩み寄る。薄手の毛布を受け取ると、ゼノはマリアンルージュの細い肩にそっと毛布を掛けてやった。


「それにしても、これは一体……」


 状況が把握できず辺りを見回したゼノは、後ろ手に縄で縛られた集団に目を止めた。

 レティシアを追って街中を奔走していたレジオルド憲兵隊のほとんどが、彼らに捕らえられているようだった。

 

「これは、どういう状況ですか?」


 人垣の中央でゼノとマリアンルージュを直視していた制服姿の男に問うと、男は略式の敬礼をして見せた。


「アルティジエ自警団のモルガンです。街の住人から見慣れない少女が追い回されているとの通報を受けました。少女が異種族であることを理由に、彼等はその行動を正当化するつもりだったようですが、この街はレジオルディネではありません。ここでは異種族差別は許されないことを説明した上で、然るべき処置を取らせていただきました」


 はきはきとした口調で説明を終えると、モルガンはゼノの後方――廃坑の入り口へと目を向けた。


「この者達を率いていた人物が居るらしいのですが、その男はまだ中に……?」


 モルガンが捜しているのが黄金色の髪の憲兵隊隊長――ジュリアーノであることは瞬時に理解できた。けれど、ゼノは敢えてその最期を説明せずに、静かに首を横に振った。


「わかりません。彼女を捜し出すだけで精一杯でしたから……」

「そうですか」


 ゼノの態度を不審に思ったのか、モルガンは訝しむような表情を見せた。けれど、それ以上の詮索をすることはなく、彼は闇色に染まる空を見上げ、肩を竦めると、


「どちらにせよ、捜索は明日以降になりそうですね。夜に廃坑に潜るのはなかなか勇気が要りますから」


そう言って、屈託なく笑って見せた。


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