夜の終わり

「どうした、食わねぇのか?」


 不敵な笑みを浮かべながら、男は器用に足の指を使い、木製の器をレナの前に移動させた。

 この部屋に入ってすぐにレナは縄から解放された。けれど、色鮮やかに盛り付けられた熟れた果実に目もくれず、レナは目の前の男をただ睨み続けていた。


 煌びやかに飾り立てられた室内には、数々の高級な調度品や装飾品が並んでいる。

 明らかに不似合いな柄の悪い大男が、部屋の中央に王のように座していることから、その全てが盗品であることは容易に想像できた。

 これらの品のために、ちからない多くの人々が血を流したに違いない。今夜、レナの両親が殺されたように。

 父と母の壮絶な最期を思い出し、レナの瞳に涙が滲んだ。


 今この部屋には、野盗の頭目であるバルトロとレナのふたりだけだ。ゼノもヤンもヤンの父親も、山路の途中で別の場所に連れて行かれてしまった。

 三人がどんな目に合わされているか、そんなことは考えたくもなかった。例え今夜は無事だったとしても、明日にはきっと、残虐な野盗達にいたぶられ、見るも無残な姿にされてしまうに違いない。

 レナだってそうだ。この部屋に通される前、噎せ返るような酒と香水の匂いが充満した広間で、村から奪ってきた酒や食料を貪る野盗達の向こうに見えたものが脳裏をよぎる。

 旅の道中で襲われたのか、或いは、何処かの村から攫われてきたのか。涙の枯れた虚ろな目でこちらを見ながら、只々野盗の欲望の捌け口にされている女達の姿がそこにあった。

 今、このときが過ぎれば、おそらくレナも彼女達の一員になるのだろう。


「おい、嬢ちゃん。聞いてるか?」


 絶望に呑まれつつあったレナの思考を、バルトロの声が突然遮った。現実に引き戻され、再び鋭利な視線を浴びせるレナに向かって、バルトロはおどけるように肩を竦めてみせた。


「そんな怖い顔すんじゃねぇよ。別に取って食ったりしやしねぇ。俺が殺りたいのは野郎どもだけだ」


 ぴくりとレナの眉尻が上がる。満足そうに頷きながら、バルトロは続けた。

 

「あいつらは俺の仲間を殺したのさ。厳密に言えばトドメを刺したわけじゃねぇ。でもな、脚を捥がれたら俺達は生きていけねぇんだ」


 そう言って目の前の器を手元に手繰り寄せ、熟した果実を手に取って勢い良くかぶりつく。赤い果汁が鮮血のように溢れ、バルトロの口元を濡らした。


「想像できるか? 弟が泣きながら俺の脚に縋り付いてくるんだ。脚が元にもどらねぇって。俺は奴らが許せねぇ。村での虐殺はその報復だ。だが、あんたを連れてきたのは、報復のためじゃねぇ」


 怒りを露わに双眸をギラつかせながら尚も続けたあと、バルトロは不意に口調を和らげ、子供をあやすようにレナに笑んでみせた。

 けれど、そんな野盗の事情などレナの知ったことではない。理解も同情もしたくなくて、レナは後先考えずに声を張り上げた。


「よくもそんな見え透いた嘘がつけるわね。広間に居た人達を見たわ。私もすぐに彼女達のようにされるのでしょう?」


 尚も敵意を向けるレナに「やれやれ」とぼやくと、バルトロは片膝を立て、レナの方ににじり寄った。床板がわずかに音を立てて軋み、レナが慌てて後退る。

 無遠慮に伸ばした指先でレナの栗色の髪の先に触れると、バルトロは諭すように低音を発した。


「あんな肉便器どもとあんたが同じだって? そんなことあるわけがねぇ。あの村の連中も、あんた自身も、あんたの価値がまるでわかっちゃいねぇんだよ」


 無骨な指でレナの柔肌に触れ、指先をゆっくり滑らせながら、バルトロは尚も続けた。


「俺はいろんな土地で悪さをしてきた。金になるものは全て奪ってきたさ。金銀財宝だけじゃねぇ。希少な動物や種族、秀でた芸を持つ人間なんかをな。だが、あんたはその中でも別格だ」


 一息にそう告げると、バルトロはずいとレナに顔を近づけ、爛々と双眼を光らせて断言した。


「あんたの踊りはなぁ、言ってみりゃ『国宝級』なんだよ」


『国宝級』とはどう言うことか、レナには理解できなかった。

 確かに、子供の頃からレナの踊りは村のみんなに褒められてきた。村には他にも年頃の娘がいたけれど、誰一人としてレナと同等に踊れるものはいなかった。


 だが、だからと言って、そんな大袈裟に言われるような舞を自分は演じていたのだろうか。

 混乱するレナを他所に、バルトロは更に言葉を重ねていく。


「あんたを馬鹿どもの欲の捌け口にして、あの踊りを台無しにするような真似はしねぇ。あんたの踊りを、どんな金銀財宝よりも高く買ってくれるお偉いさんがいるんだ。この俺のように、あんたの価値を見極めることができる奴がな。いずれそいつに引き渡す、そのときまで、あんたは俺だけのための『舞姫』にしてやる」


 興奮を露わに捲し立てると、バルトロはレナの手を取り、強引に立ち上がらせた。


「踊って見せな。踊りさえすれば、あんたは他の女のような無残な目に合わずに済む」


 バルトロのぎらついた瞳が、真っ直ぐにレナを見据えた。

 踊れば助かる。バルトロは確かにそう言った。けれど、そんなことを言われたところで、この状況でいつものように踊ることなど無理に等しいことだった。

 強がってはいるものの、レナの全身は恐怖に縛られて思うように動かない。両親や村のみんなが無残に肉塊と化したあの光景が、鮮明に脳裏に焼き付いていて、今すぐにでも腰を抜かしてしまいそうなのだから。

 けれど、そんな泣き言を目の前の男が聞き入れるとは思えなかった。

 この男の言葉がどこまで真実なのか、レナには皆目検討がつかない。例え恐怖が原因だとしても、踊れない『舞姫』は必要とされないだろう。


「踊るんだ」


 立ち尽くしたまま震えるレナに、バルトロは尚も繰り返した。


「踊れ!」


 吼えるようなその声に、レナの恐怖は限界に達してしまった。

 両膝からちからが抜け、がくんとその場にへたり込む。全身をがたがたと震わせたまま、目の前で自分を見下ろす男の顔を、やっとの思いでレナは見上げた。

 壊れた玩具に落胆したようなバルトロの表情に、レナの身体がふたたび震えあがる。振り上げられた腕を前に、レナは固く目を閉じた。


 だが、拳は振り下ろされなかった。

 恐る恐るレナが目を開けると、動きを止め、訝しげに顔を歪めたバルトロが、その視線を扉へと向けていた。

 何やら隣の広間が騒がしい。

 いや、騒がしいのは元からだった。だが、その騒がしさが先程までとは何処か違うのだ。

 硝子や陶器が割れる音と女の悲鳴、怒声に混じった断末魔の叫び。

 喧嘩か、それにしては鬼気迫るこの雰囲気は、先だって村の広場で行われた、あの殺戮劇の再現かのように感じられた。


「くるぞ」


 震えてへたり込んでいたレナの腕を引き、抱き寄せると、バルトロは脇に置かれていた黒鉄の拳銃を手に取った。



***



 本当に面倒なことになったものだ、とゼノは思っていた。自分はイシュナードの消息が知りたかっただけであり、人間と深く関わるつもりなどなかったのに、と。

 街道で野盗に絡まれたときもゼノ一人でどうにでもできたはずだった。ヤンが無駄な良心を働かせなければ、野盗が村を襲うことも、レナの両親が殺されることもなかったのだ。

 ヤンがしたことは要らない世話でしかない。そのはずだった。だが――。



「しつこいですね」


 前方から襲いかかる野盗の攻撃を紙一重でかわし、左足を軸にして身を捻り、振り向きざまに蹴りを繰り出す。ゼノの右足が野盗の頭部に直撃すると、熟れた果実が弾けるように血飛沫と肉片が飛び散った。


 これで何人目になるだろう。

 扉を蹴破って広間に入ってから、どれほどの時間が経過したのか。ゼノの足元には既に何十という野盗の死体が転がっていた。どれもが身体のあちこちを損壊しており、見るに耐えない光景だ。

 

 人間という生き物はどうしてこんなにも脆いのだろう。

 何十人という数で向かってきた筈なのに、誰ひとりゼノに傷を負わせることができずにいる。武器を持たないゼノの護身術程度の技で、簡単に壊れてしまう。それなのに、これだけ目の前で仲間が殺されても学習することすらせず、次から次へとわざわざ死にに向かってくる。

 戦闘態勢に入り、竜気を纏ったゼノに傷を負わせるのは、常人では非常に困難なことなのに。それを何故理解できないのか。


 思えば、野盗に銃を向けたヤンも同じだった。

 自分のちからではどうにもできない脅威を前に、無謀な戦いを試みて。その結果、最悪の事態に陥ったのだ。

 だが、ヤンの行為は純粋な正義感からのことであり、愚かではあるものの、責めるべきものではなかった。

 今、ゼノが相手をしている野盗達は、ヤンのそれとは違う。目の前のあり得ない状況に思考が追いつかず、冷静さを欠いて自滅しているに過ぎない。

 ゼノとしても、説得が可能であれば、これ以上の殺戮行為はしたくないのが本音だったのに。

 そもそもゼノは、例え相手が人殺しをも厭わない悪質な野盗であっても、殺すつもりなどなかった。

 最初の数人を戦意喪失する程度に痛めつけてみせれば、残りの野盗達は怖気付いて抵抗しなくなる。そう考えて、街道で返り討ちにした野盗と同じように、死なない程度の重傷を負わせたつもりだったのだ。

 だが、野盗達は痛めつけられた仲間の姿を目にすると、怖気付くどころか敵意を剥き出しにしてゼノに襲いかかってきた。

 元々、喧嘩や暴力の類はゼノの得意分野ではない。そのため、一度に何人もの相手をするのでは手加減する余裕がなかった。結果として、ゼノは冷徹に残虐に、襲い来る野盗を肉塊に変えていった。

 恐慌状態に陥った人間が無謀な行動に出る可能性など、ゼノは想定していなかったのだ。


 向かいくる者がようやくいなくなった頃には、広間の床にはおびただしい数の死体が転がっていた。

 血に塗れた両手足を眉を潜めて一瞥し、ゼノは血の海の中を一歩踏み出した。慰み者にされていた女達が、広場の隅で身を寄せ合って震えている。

 武器を構え、震えながら立ち尽くす残党を睨みつけて、ゼノは奥の扉へと歩を進めた。

 襲いかかって来ないのなら、それでいい。目的は野盗の討伐ではなく、奪われた親友の本と護身用のナイフを取り戻し、レナを救い出すことだけなのだから。



***



 凄まじい音と共に扉が弾け飛ぶ。二、三度回転したひしゃげた扉は、耳障りな音を立てて床の上に転がった。

 蹴破られた扉の向こうから姿を現したのは、闇に融ける黒い髪と黒づくめの服に身を包んだ青年だった。


「やっぱりあんただったか」


 僅かに口角を上げて呟くと、バルトロはレナを抱き寄せたまま、黒鉄の拳銃の銃口を青年に突きつけた。


「ゼノさん……」


 今にも泣き出しそうなレナに向かって微かに口の端を上げてみせると、ゼノと呼ばれた青年は怯える素振りもなくバルトロと対峙した。紅玉の瞳から滲み出る得体の知れない恐怖が、バルトロの背に汗を一筋つたわせる。


「動くんじゃねぇ。嬢ちゃんが大事ならな」


 脅しをかけて銃口を突きつけたまま、バルトロはゼノの背後――扉の向こうを確認した。

 先程まで騒がしかった広間には燭台の灯りは殆んど残っておらず、仄暗い闇の奥から女の啜り泣く声だけが聞こえてくる。開け放たれた扉から吹き込む夜風にのって、噎せ返るほどに血生臭い、鉄錆に似た匂いが色濃く漂ってきた。

 再度、扉の前のゼノに目を向ければ、黒いコートの裾や袖からぽたぽたと赤黒い液体が滴っている。悠然と立つその姿から、彼が大怪我をしているとは考え難い。


「まさか……あんた一人でやったのか……?」


 傷のある額に脂汗が滲む。ごくりと生唾を呑み込むと、バルトロは口の端を釣り上げて苦笑した。

 街道で最初にやられたふたりの有様を見たときから、朧げにだが考えていた。これは人間の仕業ではないと。

 今ではお目に掛かることも滅多にないが、憲兵隊の目が届かない土地で略奪を繰り返していた頃に、バルトロはに何度か遭遇したことがあった。


 ――こいつは異種族だ。


 人の姿をした人ではない者。姿かたちこそ人間となんら変わりがないが、彼らは多種多様な特殊能力を持つ。

 目の前の青年がどのような能力を有しているかは不明だが、おそらく何も武器を所持していないこの状態でも勝算があるのだろう。銃口を突きつけられても尚表情ひとつ変えない青年の様子から、バルトロはそう判断した。


「私から奪った本とナイフ、それと、彼女をこちらに渡して貰えませんか?」


 バルトロの問いに答えるでもなく、ゼノが要件を口にした、そのとき。


「ゼノさん、うしろ……!」


 レナが声を上げると同時に闇の中から野盗が姿を現し、手にした鈍器をゼノの頭上へと振り下ろした。

 レナの声で逸早く勘付いたゼノが紙一重で攻撃をかわす。振り下ろされた鈍器がぐしゃりと鈍い音を立て、床板にめり込んだ。次の瞬間、追撃に転じようと鈍器を持ち上げかけた野盗の右面に、ゼノの回し蹴りが直撃した――はずだった。


 目の前で起こったあり得ない光景に、バルトロとレナは息を呑んだ。ゼノの攻撃を受けた野盗の頭部が、一瞬で粉々の肉片と化したのだ。

 血飛沫が周囲に飛散し、床と壁、更には天井にまで赤い斑点模様を描く。頬についた返り血を手の甲で拭い、ゼノはバルトロへと視線を戻した。

 間髪入れず、耳を劈く銃声が響く。同時に、額に強い衝撃を受け、ゼノは後頭部から床に叩きつけられた。

 バルトロの右掌の中、扉へ向けられたままの黒鉄の銃口から白い煙が糸のように漂っていた。

 仰向けに倒れたゼノと、目を見開いたまま微動だにしないバルトロを見比べて、現実に思考が追いつかないままに、レナは悲痛な叫び声をあげた。



***



 引鉄を引いてから僅かばかりの時間が過ぎた。

 銃弾を額に受けて倒れたまま動かない青年が、死んだのか、気を失っているだけに過ぎないのか、遠目ではそれを確かめる術がない。

 隣で啜り泣く少女に不快感を覚えながらバルトロは拳銃を握りしめ、一歩、また一歩と青年との距離を詰めた。

 少女が泣きやまないのも無理はない。村の広場で青年が名乗り出たあのときも、アジトまでの道中でも、少女が青年に想いを寄せていることは容易に見て取れた。

 バルトロとて、この青年をただ殺すつもりはなかった。血と狂気に満たされた祭の最中、圧倒的な脅威に晒されても尚動じることのないその姿には、僅かばかり興味を抱いたものだ。仲間に引き込むことができれば、さぞ頼もしい右腕になったことだろう。

 だが、見方を変えれば敵に回ったときの脅威は計り知れなかった。異種族であるなら尚更、バルトロの持つ常識が通用しない可能性を考えれば、先手を打って潰しておかなければならないだろう。

 国宝級の踊り手と有能な右腕を手に入れる絶好の機会を逃したのは惜しかった。だが、ここぞというときに判断を間違え、身の破滅を招いた同類の末路を何度も目にしてきたバルトロは、保身の意味でも実に注意深かった。

 相手が普通の人間であれば、充分すぎるほどに。


 バルトロが拳銃を構え、ゼノの生死を確認しようと傍に膝をついた瞬間、それまで微動だにしなかったゼノの腕が瞬時にバルトロの右腕へと伸びた。

 突然のことに思い掛けず、反射的にバルトロは引鉄を引いた。放たれた銃弾が上腕に命中し、ゼノが傷を負った腕を庇う。

 だが、続けて引鉄を引こうとしたバルトロは、直ちに異変に気がついた。ごとりと何かが床に落ちる重量感のある物音が室内に響く。

 視線を送ったその先には、バルトロの右手首の先が床に放り出されおり、指先が引鉄を引こうと痙攣していた。

 

「う、あぁぁぁぁぁぁ!」


 朱紅い飛沫を撒き散らす自身の右腕を血走った眼で凝視したまま、バルトロは張り裂けんばかりの悲鳴をあげた。あの一瞬で右手を斬り落とされた現実を受け入れることを、バルトロの脳が拒んでいた。


 ――あり得ない。


 青年はそもそも武器を持っていないのだ。銃弾を額に受けながら、重傷を追うどころか無傷で反撃に転じるなど、普通なら考えられない。


 狼狽えるバルトロをその眼に捉えたまま、ゼノがゆっくりと立ち上がる。その右手には、先程叩き割られた床板の木片が握られていた。

 蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れないバルトロへ向けて、ゼノの右手が空を薙ぎ払う。弧を描いた切っ先が、バルトロの左腕を切り落とした。

 悲痛な叫び声を上げながら蹲る男を一瞥し、ゼノは部屋の奥へと足を向けた。

 美しい刺繍で彩られた布が掛けられた木棚の上に、ナイフと本が無造作に置かれていた。それらを手に取り、僅かに安堵の息を洩らすと、ゼノはゆっくりと振り返り、身を縮こまらせて微動だにしないレナに声を掛けた。


「レナさん」


 名前を呼ばれ、レナが僅かに身を強張らせる。諦めたように小さく笑んで、ゼノは小首を傾げた。しばらくの沈黙のあと一歩足を踏み出して、レナに向かってそっと手を差し出した。


「行きましょう……?」


 泣きやまない子を宥めるような、困惑の混じった歪な笑顔だった。

 全身を支配していた恐怖が薄らいでいく。震える足で立ち上がり、レナは差し出されたゼノの手をしっかりと握りしめた。


 傷を負った男の唸り声と女達の啜り泣く声を背に、ふたりは暗闇の中を駆け出した。

 鼻を突く鉄錆に似た臭いは、蹴破られた扉を抜けると、夜風に吹かれて闇の中へと吸い込まれた。



***


 

 森の木の葉に遮られ、月の光が雨のように降り注ぐ小径を、繋いだ手に導かれるまま駆け抜ける。

 先を急ぐ青年は、何十人もの野盗を無残な肉塊に変えた化物のはずなのに、レナはちっとも怖くなかった。

 ただ、月の光をきらきらと纏う彼の闇色の髪が、夜の闇に溶けて綺麗だと思った。


「どこまで行くの?」

「このまま森を抜ければヤンが馬を連れて待っています。そこまで走ります」


 息を切らしながらレナが尋ねると、振り返らずに彼が言った。足元の土肌に目を凝らせば、馬の蹄の痕が朧げに確認できた。

 樹々の合間に赤々と燃え盛る遠い空の境界が見える。その炎の火元が、十七年間暮らしてきた彼女の故郷であることを、レナは瞬時に理解した。


 もう元には戻れない。全て失ってしまった。

 父も母も、大切な農場も。仲の良かった友人も、帰る場所すらも。


「全部、なくなっちゃったのね……」


 目尻に涙を滲ませてレナが呟くと、相変わらず前方を見据えたままゼノが応えた。


「そんなことはありませんよ。ほら……」


 顔をあげたレナの瞳に、樹々の切れ目に覗く街道の灯りが映る。小径の脇の茂みから、見覚えのある人影が身を乗り出した。

 溢れる涙を手の甲で拭い、レナは大声で彼の名を呼んだ。



 夜が明けようとしていた。


 村を焼き尽くした炎は朝焼けの空に溶け消えて、まるで狼煙のように、灰色の煙を東の空に立ち昇らせていた。


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