精霊の舞

 仄暗い貯蔵庫の中で熟成中のチーズの手入れを一通り終えると、レナは天井から降ろされた梯子を昇り、小屋に戻った。


 レナの両親が管理する農場は、ギニアの新鮮な乳を使って自家製のチーズを製造している。

 数年前、ラウルと街に出掛けたレナの父アルドは、市場で見かけた見慣れない乳製品に一目で惚れ込んだ。その製造の仕方や調理について行商人から情報を得たアルドは、村中に借金をしてチーズ製造のための機械を仕入れた。

 農場でギニアの乳を売るだけだったレナの家族は日々の暮らしも貧しいものだったが、アルドがチーズ作りに成功してからというもの、その生活は激変した。

 レナの家のチーズは村中で美味しいと評判になり、思い切って街での販売に踏み切ると、これもまた飛ぶように売れた。物珍しさからの流行はすぐに終わったけれど、借金の返済には充分すぎる収入を得ることができたし、今でもレナの家の自家製チーズを好んで買ってくれる客は多く、商用で出掛けるラウルに頼んで、街でチーズの卸売りをしてもらっている。

 村の名物のひとつになったレナの家の自家製チーズは、豊穣の祭の夜に酒の肴として振舞われる。二ヶ月の熟成期間を経て手間暇かけて作った自慢のチーズは、父親のアルドだけでなくレナの誇りでもあった。

 

 レナが梯子を昇って室内を見渡すと、チーズを燻製にし終えたアルドがレナを手招いていた。


「ひと段落ついたから、昼食にしよう」


 穏やかに微笑んだ父の顔を見ると、彼がどれだけこの仕事を愛しているかがよくわかる。父の幸せそうな笑顔を見るたびに、自分もやがてはこの仕事を継ぐのだろうとレナは考える。

 大人になっても地下の貯蔵庫でチーズの手入れをする自身の姿を思い浮かべ、つくづく自分は村の外に縁がないものだと、レナは苦笑した。


 昼の休憩を終えると、父は再び農場に戻る。

 普段ならレナも一緒に農場に戻り、父の手伝いをするのだが、豊穣の祭が迫っていることもあり、最近は昼過ぎから山の麓の湖畔で精霊の舞の稽古をしていた。

 父に出掛けることを告げ、稽古着に着替えて上着を羽織ると、レナは村の中央通りに向かって早足に歩いた。

 結局昼になっても戻って来なかったヤンとゼノのことを考えて、小さな溜め息が漏れる。

 

 ヤンに関しては心配する必要はない。いつものようにどこかをほっつき歩いているのだろう。

 問題はゼノのほうだ。仮にも世話を任されているのだから、せめて居場所くらいは把握しておきたい。

 どこかその辺りを歩いていないものかとレナが周囲を見渡すと、通りの先に村では珍しい黒づくめの姿が見えた。


「ゼノさん!」


 声をあげて駆け寄ると、ゼノはゆっくりとレナの方に目を向けた。が、すぐに視線を元に戻した。


「あらレナ、これからお稽古?」

「え? あ、はい」


 ゼノと話していたと思われる村の女性に声を掛けられ、レナは慌てて返事をする。女性から紙の袋を受け取ると、ゼノは軽く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 抑揚のない口調で礼を言って、彼は村の中央広場に向かって歩き出した。


「何を貰ったの?」


 悠然と歩みを進めるゼノに並んでレナが尋ねると、ゼノはレナに向き直り、袋の中身を見せた。

 嗅ぎ慣れた食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐる。袋の中には様々なポタモ料理が入っていた。

 

 ポタモというのはこの地方で採れる芋の一種で、薄切りにして揚げたあと味をつけたチップス、蒸かして潰したものにチーズをのせて焼いたグラタンなど、色々な調理法で多彩な料理に使われる。栽培も簡単なため、村の主食として重宝されている作物だ。

 どうやらゼノは、明日の祭りで振舞われるポタモ料理の一部を、こっそり分けてもらったようだった。


「私の故郷でも芋を栽培していましたが、せいぜい蒸かして食べるだけでした。同じ芋でもたくさん調理の仕方があるんですね」


 表情ひとつ変えることなく淡々とゼノが語る。

 昨夜、初めてヤンに紹介されたときも思ったけれど、この男は本当に無表情で、話し方も無感情で考えが読めない。

 見た目だけなら、村では珍しい闇色の髪と紅玉のような瞳が特徴的で人目を惹くし、彼が着ている品の良い黒いコートは街で優雅に暮らす貴族のようで、それだけでレナのような田舎の娘達は憧れに似た感情を抱いてしまいそうになるというのに、その無愛想っぷりで全てが台無しになっている。 

 本当に勿体無い。


 そんなことを考えながらレナが袋の中を凝視していると、不意に目の前にポタモチップスが差し出された。


「……え?」

「食べたいのでしたら、おひとつどうぞ」


 真顔で言われ、レナは頬を真っ赤に染め上げた。

 そんなに物欲しそうな顔に見えたのかと、恥ずかしさで逃げ出したくなる。


「い、いらないから!」


 レナが慌てて首を振ると、相変わらずの無表情でレナを見据え、ゼノは首を傾げた。


「そうですか。てっきりレナさんもこの料理に興味があるのかと……。何か別の用事がありましたか?」


 不可解だと言いたげなその様子に、レナは慌てて言葉を探した。

 特に用事があったわけではなく、ただ世話を任されたから気になって捜していたのだけれど、ゼノからすれば、そんな監視のような真似をされては迷惑なだけだろう。


 何か納得のいく理由を答えなければ……。

 そう考えたレナが咄嗟に思いついたのは、精霊の舞の稽古のことだった。


「お祭りで踊る舞の稽古をしようと思って裏山に向かっていたら、偶然あなたを見かけたから、つい声をかけちゃったっていうか……」


 その場凌ぎにしては上出来だと思った。

 しかし、その言葉を聞いた途端、それまではつまらなそうにレナを見ていたゼノが瞳を爛々と輝かせた。


「舞ですか? とても興味があります。是非、見学させてください」

「え? あ、はい」


 有無を言わさぬ勢いで詰め寄られ、レナは思わず首を縦に振ってしまった。

 精霊の舞は確かに豊穣の祭の目玉ではあるけれど、余所者のゼノにこんなに食いつかれるとは思ってもみなかった。

 レナもそれなりに場数は踏んでいる。本番では大勢の前で披露する舞だ。本番間近でほぼ完成されている状態だし、見られても問題はない気がした。

 初めて舞を披露する舞台でなくて本当に良かった、と胸を撫で下ろしながら、レナはゼノを連れて村外れの湖畔へと向かった。



***



「しかし、貴女も貴女のご両親も、無用心極まりないですね」


 レナと並んで無言で中央通りを歩いていたゼノが、突如として口を開いた。何の話か見当がつかず、レナ訝しげな顔でゼノを見上げた。


「突然知人から紹介された余所者を、監視もつけずに主屋に寝泊まりさせるという行為に、貴女達はもっと危機感を持つべきです」


 相変わらずの抑揚のない声で彼は言った。

 言われてみれば確かにそうだ、とレナは思った。


 幼馴染のヤンと、日頃から世話になっているラウルの紹介だったからだろうか。ゼノを主屋に寝泊まりさせることに、危機感など全くなかった。

 レナは両親との三人暮らしだ。もしゼノが悪人だったとしたら、父はともかく、母もレナも有無を言わさず酷い目に遭わされていたかもしれないというのに。どうしてそんなことに気がつかなかったのだろう。

 穏やかな村の暮らしに平和ボケしていたからだろうか。そんな考えが頭をよぎったけれど、何故だかそれは違う気がした。


「きっと、あなたを紹介したのがヤンだったからよ」

「ヤンを信頼しているんですね」


 躊躇いがちに答えたレナにゼノが返したその言葉は、的を得ているようにも思えた。

 けれどこの件に関しては、それとは違う何か別の理由があるような気がして、レナは胸中で自身の言葉を否定した。



 中央広場を通り抜け、しばらくのあいだ緩やかな坂を昇り、枝分かれした一本の細道を降ると、そこには木々に囲まれた湖がある。

 湖の周辺には夜間発光性の植物が生息しており、夜になるとその光が湖畔を幻想的に彩って、それは美しい幻想的な光景になるけれど、それに相反するように日中の湖はひどく殺風景だ。おかげで人があまり近づかないため、踊りの稽古場としては使いやすい。

 精霊の舞は炎を使う舞であるが故に、人目が少ない水辺の稽古場の存在は本当に有難いものだった。


 羽織っていた上着を脱ぎ、レナは水辺で火を熾した。本番と同様に、両の手首、足首に熱伝導性の低い金属製の装飾を付ける。

 この装飾に火を灯し、その火を消さないように踊るのが精霊の舞。両手足に灯る炎の軌跡が、豊穣の女神を讃える紋様を夜の闇に浮かび上がらせる神秘的な舞だ。

 明日の本番に向け、今日の稽古は本番と同じように始めから終わりまで通して舞を踊ることに決めていた。


 装飾に火を灯して舞の構えをとると、途端にレナの表情が引き締まる。張り詰めた空気が湖の周辺を支配した。

 踊り始めの踏み出しが一番肝心だ。深々と息を吸い、呼吸を整えて、レナは大きく足を踏み出した。


 全身を縛っていた緊張感から解放されたかのように、弾むように軽やかにステップを踏む。両の手脚を大きく振り回す激しい動きの中でも、装飾に灯された火は一瞬の翳りも見せない。それは、レナの舞が完璧であることを示していた。

 しなやかに優雅に、全身をしならせて舞うその姿は、十七歳の少女とは思えない。まるで全てを識る大人の女性のようだった。


 舞いの終わりは一層動きが激しくなる。それまでの四肢に灯る火が燃え盛るように計算し尽くされた動きとは真逆の、鎮火のための振り付けになるからだ。

 水辺に焚かれた炎に照らされ、燃えるような赤に染まる栗色の髪を振り乱しながら、全身のバネを使って暴れ狂うように踊る。やがて灯火が消えると、それに呼応するようにレナの躍動する肢体がピタリと動きを止め、燃え尽きたように崩れ落ちた。

 まるで糸が切れた操り人形のようにその場に倒れこんだあと、レナはゆっくりと身を起こし、乱れた髪の間から観客の様子を確認する。


 これが本番なら、舞の終演で広場は静まり返り、レナが立ち上がって優雅にお辞儀をしてみせると同時に、広場が拍手喝采に包まれる。

 予行演習とはいえ、レナの舞は完璧だった。見学していたゼノも普段の無表情とは違い、さぞかし惚けていることだろう。掴み所のない彼の人間らしい一面が伺えるに違いない。

 そう期待して、レナは自信ありげに顔を上げた。

 けれど、その想像とは裏腹に、目の前の状況に息を飲まされたのは、むしろレナのほうだった。


 惚けるでも感嘆するでもなく、ゼノは真剣な眼差しで、ただじっとレナをみつめていた。

 顔を上げたレナと目が合ったことに気が付くと、彼は切なげに微笑んで告げた。


「とても、素敵でした」



***



 帰り道、レナは終始無言だった。

 隣を歩く青年の、哀しみを微かに含んだ優しい笑顔を何度も思い出し、そのたびに自身の頬が熱く火照るのを感じていた。


 どうしてあんな笑顔を向けられたのか、理解できなかった。ただ胸の奥がざわついて、鼓動が速まっていくのを抑えられずにいた。

 舞の稽古は一度きりで切り上げた。レナの舞は完璧だったのだから問題ない。

 そんなことよりも今は、心が掻き乱されるようなこの状態をなんとかしなければならなかった。


 ゼノは相変わらず無表情のまま、陽が暮れかけた村の様子を眺めては、淡々と感想を述べていた。

 心なしか、昼間に比べてレナに対する態度が和らいだように感じられたけれど、彼との距離が縮まることがなんだか怖くて、レナは気がつかない振りをした。


 余計な感情はいらなかった。

 明日の祭りに備え、心を落ち着かせておかなければならないのだから。



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