街道にて

 霧に包まれた峡谷を抜けて深緑に覆われた山を降りると、視界が開け、広々とした草原に出た。生い茂る背の高い野草の間に、剥き出しの地面が細くうねりながら続いているのが見え隠れしている。

 懐かしい景色だ。イシュナードと里を降りて人の街を訪れるたびに、何度もふたりで歩いた道だった。


「腹が減ったなぁ……」


 ぽつりと呟いて、ゼノは懐から白い布包みを取り出した。中に入っていたのは、日保ちするように干して乾燥させた獣の干し肉だった。

 腰に提げていたナイフで肉の端を小さく切り取り、口の中に放り込むと、それを奥歯で噛み締めながら、ゼノはしばらくのあいだ草に覆われた道を進んだ。

 予定では今夜あたりで人間の街に到着し、久しぶりにまともな食事と暖かい寝床を得るはずだった。慣れ親しんだ最短ルートを通ってきたつもりだったが、イシュナードがいるのといないのとでは、やはり勝手が違ったようだ。

 目の前の景色を紅く彩る夕陽に照らされながら、ゼノはさらに歩調を速めた。


 ゼノが里を発ってから、既に三日が経っていた。

 天候に恵まれ、雨に降られることもなく無事に森を抜けることができたのは、実に幸運だった。

 今、ゼノが身につけている衣類は彼の一張羅であり、替えの服は持ってきていなかった。旅の荷物が多いのは面倒だという理由で、随分と適当な身支度しかしてこなかったからだ。

 身形の良く見える黒いコート姿に手荷物といったものは殆どなく、携帯用のナイフと親友の本を腰のベルトに括りつけ、少量の食料と路銀、換金用の希少素材が入った革の袋を懐に入れていた。

 山路を降ったわりに衣類が傷んでいないのは、彼の一族に備わる便利な能力のおかげだ。


 竜人族は、自身の肉体や所有物に『竜気』と呼ばれる気を纏い、外界からの干渉を防ぐことができた。

 さらに竜気のちからを応用すれば、物質の強度を上げる、刃物の切れ味を増す等、様々な用途で利便性の向上を図ることができる。竜の姿でこの気を纏い続けていれば、まず怪我をすることはなく、外敵に襲われても傷ひとつ負わずにいられるのだ。

 竜の姿のときほどの肉体的強度は得られないにしても、人間の姿で行動する際、この能力が便利なことに変わりはなかった。竜気を纏っていれば、険しい山道を歩いても一張羅が木の枝や草に傷つけられることはないのだ。

 唯一つ難点があるとすれば、自身の肉体に気を纏うのとは違い、衣類や所持品に竜気を纏い続けるためには、それなりに集中しなければならないことだ。数日に渡って竜気を纏い続けたおかげで、今のゼノは精神的にかなり消耗していた。


 その影響が大きかったのだろう。

 森を抜けたことで気が緩んでいたこともあり、結果的にの接近に気付くのが遅れてしまった。

 草に覆われた細道と、舗装の剥がれかかった石畳の街道が交差する丁字路が視界に入った瞬間だった。

 道の脇に点々と並ぶ大岩から、ふたつの人影がゼノの眼前に躍り出た。どちらもゼノに比べると背が高く、体格も良い、薄汚れた野蛮な風貌の男達だ。


「随分と身形が良い兄さんじゃねぇか」

「悪いことは言わねぇ。痛い目見る前に有り金を全部よこしな」


 男達は如何にもな『ならず者の決め台詞』を吐くと、各々が手にしていた刃物の切っ先をゼノの眼前へ突き付けた。



***



 ヤンがそれに気が付いたのは、荷馬車の上で仰向けになり、夕暮れに染まる空を眺めていたときだった。

 行商人である父のラウルに連れられて、行商先の街で村の農作物や畜産物を売り、その収入で村に必要な物資と『豊穣の祭』で皆に振舞うための食用のギニアを一頭仕入れた帰りのことだ。


 ギニアというのは、この地方で畜産が盛んな、山羊と牛を掛け合わせたような動物だ。

 良質な飼料を与えて適度に肥えさせたギニアの肉は絶品だが、ヤンの村は決して裕福ではない。

 そのため、酪農を主とする彼の村では、祭りのときにだけ、こうして食用のギニアを他所から仕入れるのだ。


 仕入れた商品と生きたギニア、その世話をするヤンを荷台に乗せて、荷馬車はゆっくりと石畳の街道を村に向かって進んでいた。

 ギニアに背をあずけたままヤンがうとうとしていると、馬の蹄の音と石畳に揺れる馬車の音に紛れ、人が争う声が微かに耳に届いた。荷馬車の上で身を起こし、辺りを見回すと、街道から少し外れた細道に人影が見えた。

 夕焼けに彩られた紅い視界に目を凝らし、ヤンは彼らの人数と風貌を確認する。

 三つの人影のうち、ふたりはガタイの良いならず者、対するひとりは細身で小柄な青年のように見えた。刃物をちらつかせて威嚇するふたりに対し、棒立ちになったままの青年は、見たところ武器らしい武器を所持していない。


「父さん、見て! ヤバイよあれ!」


 荷台の上で器用に立ち上がり、人影を指差すと、ヤンは馬の手綱を握るラウルに声を掛けた。ヤンが指差した方向に目を向けて、ラウルが「おう……」と低く唸る。荷馬車が街道を進むにつれて、ヤンも薄々勘付き始めていた。

 手前のふたりはこのあたりを縄張りにしている野盗の一味の端くれだろう。村の自警団の詰所に似たような連中の貼り紙があった。

 国が憲兵隊を各地に派遣し、治安を維持するようになってからは、人で賑わう街をこのような野盗が襲うことはなくなった。だが、国の警備が行き渡らない辺境の村は、今でも度々その驚異に曝されている。

「連中があの青年に気を取られているうちに通り抜けてしまいたい」とラウルが考えたのも、無理のない話だった。


「助けてやりたいのも山々だが、下手に手を出して逆恨みでもされてみろ。うちの村が奴らに襲われる最悪の事態にもなりかねんぞ」


 諦めろと言った様子で街道へと視線を戻し、ラウルが馬の手綱を握り直す。

 速度を上げた荷馬車が小道と街道の交わる丁字路を通過した、ちょうどそのとき。野盗のひとりが動き、青年の身体をなぎ払うように手にした刃を振り抜いた。

 青年は間一髪身をかわし、野盗と距離をとったように見えた。だが、怪我をしたのか上体がぐらついている。


(もう一度攻撃を受けたら間違いなく殺されてしまう……!)


 そう確信したヤンは、荷台に積まれていた護身用の猟銃を手に取った。


(間に合え……、間に合え!)


 震える手で弾丸を込めて、ヤンは銃口を空に向け、引鉄を引いた。


 ガァンと耳を劈く銃声が鳴り響く。

 ラウルが手綱を引いて馬を止め、青ざめた表情で荷台を振り返る。荷馬車に眼を向け、動きを止めた野盗達に向かって、ヤンは猟銃を構えた。


「お前ら……、撃たれたくなかったらその人から離れろ!」


 銃床を右頬に密着させたまま、ヤンは声を張り上げた。

 幸運にも、野盗達と荷馬車の距離は銃の射程から考えて最適な距離だった。だが、本当に引鉄を引いてしまえば、野盗の向こう側に立っている青年にも弾が当たりかねない。

 野盗が脅しに屈してくれるよう祈りながら、ヤンはごくりと生唾を飲み込んだ。そのときだった。


 青年の身体が瞬時に沈み、こちらに注意を向けていた野盗が体勢を崩すと同時に草の中に倒れ込んだ。

 何が起きたのか状況を理解できず、ヤンは夢中で草の海を凝視した。


 風に乗って低い呻き声がヤンの耳に届く。

 やがてゆっくりと立ち上がったのは、先刻野盗に攻撃を受けた青年だった。

 数秒のあいだ足元を見下ろしてヤンのほうに目を向けると、青年は荷馬車に向かって真っ直ぐに細道を歩きだした。

 石畳の街道に姿を現すと、彼はヤンとラウルに頭を下げ、酷く落ち着いた様子で告げた。


「喧嘩は苦手なので助かりました。ありがとうございます」


 実際に間近で見ると、彼は青年というにはあどけない顔立ちをしていた。

 夜の闇を思わせる黒い髪と、夕陽の中でも尚紅く輝く紅玉のような瞳が珍しく、眠たそうな伏し目がちの表情が印象深かった。身長はヤンとそう変わらないだろう。細身な身体に、随分と良質な布地の黒いコートを纏っていた。

 どこかの金持ちの坊ちゃんだと言われても納得がいく、そんな身形だ。

 青年は『ゼノ』と名乗ると、両手に握っていた刃物を、柄側をヤンに向けて差し出した。先刻の野盗達から取り上げたものだろう。


「大丈夫? 怪我してないか?」


 ヤンの問いに、彼は涼しげに首を横に振る。

 ほっと胸をなでおろしたヤンだったが、かすり傷どころか、身に纏った衣類にさえ綻び一つ無い青年の姿に、いささか違和感を覚えたのだった。



 いつの間にか陽は沈み、辺りは暗くなっていた。

 これから街まで歩くとなれば、当然野宿になるだろう。

 ヤンは渋る父親を説得し、ゼノを村へと招いた。


 帰りの荷馬車の上で、ヤンとゼノはふたり並んでギニアに背をあずけ、幾多の星が散りばめられた夜の空を見上げた。


「どうやって奴らを仕留めたんだ?」


 草むらに倒れ込み、姿を消した野盗達のことを思い出して、ヤンはゼノに尋ねた。

 あのときゼノは、確かに武器を所持していなかった。ヤンに気を取られていたとは言え、あれだけ体格差のある相手の動きを瞬時に同時に封じ、武器まで取り上げるなどという芸当が、普通の人間にできるだろうか。


「足払いしました。上手いことふたりとも倒れてくれたので、追い討ちをかけて気絶させた……という感じです」

「へぇ、すごいんだな。喧嘩は苦手だって言ってたのに」


 ヤンが笑顔で言うと、ゼノも釣られたように表情を和らげた。

 言葉尻を濁したのは気になったが、ゼノの柔和な表情を見ていると、ヤンには「この不思議な青年を信じてもいいのではないか」と、そう思えてしまった。



 月明かりに照らされた街道を、荷馬車は村に向かって真っ直ぐに進む。

 やがて点々と灯る村の明かりが目に映ると、荷台の上で身を起こし、ヤンは感嘆の声を上げた。



***



 背の高い草の中に倒れるふたりの男を見下ろして、男は低く唸った。


 鋭利な何かで脛を断ち切られたふたりは錯乱しており、切り離された脛から下を本来あるべき部位にくっつけようともがいている。周囲には赤黒い血が散乱し、月明かりを反射してぬらぬらと輝いていた。


「兄者ぁ……、あ、足、俺の足ぃぃぃぃ」


 泣きながら脚に縋りつこうと伸ばされた手を握りしめ、男は眉間に深々と皺を刻んだ。


「ひでぇ真似しやがる……」


 吐き捨てるような言葉とともに、彼が後方の闇を手招くと、無数の影が姿を現した。

 啜り泣くふたりを担ぎ上げ、影は群れを成して夜の闇へと姿を消した。

 

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