ある竜族の少年の話

 古の昔より、この地上には人の姿で暮らす竜がいると云う。

『竜人族』と呼ばれる彼らは、本来、巨大な翼竜の姿をしており、其々が髪色と同じ色の鱗を持ち、竜気と呼ばれる特殊な能力ちからと膨大な魔力、そして二千年もの時を生きる生命力を有している。

 掟に従い異種族との交流を禁じる彼らは、深い森の奥にある峡谷の隠れ里でひっそりと暮らしていると伝えられているが、彼らの姿を目にした者は未だ存在しない。永い時を生きる彼らは着床率が極めて低く、同種内での繁殖は非常に困難な希少種でもあるからだ。

 故に、多くの文献では彼らについてこう記されている。


 ――緩やかに滅びへと向かう古の民、と。


 

 

***



 ぼくはなんのために生きているんだろう。


 ある竜人族の少年は思った。

 少年は夜を思わせる闇色の鱗と紅玉のような紅い瞳をもつ一族に生まれた。

 憶えるのも難しい長い長い彼の名前は、古い竜の言葉で『災厄』を意味しており、彼が生まれたその日の朝に里長が名付けたものだった。

 少年は家族にたいそう可愛がられていた。だが、里での扱いは酷いものだった。

 彼の家族は、ある理由から里の人々に疎まれ、侮蔑の対象にされていた。里の大人は少年の姿を目にする度に眉を顰めて陰口を叩き、子供たちはそれに倣うように少年を仲間はずれにした。少年が広場を覗けば石を投げ、何か悪いことが起きれば彼に罪を擦すり付けた。


 少年はいつも独りだった。

 集落の端に建てられた小さな家だけが、彼が安らぐことができる唯一の場所だった。

 心優しい両親と祖父母――精一杯の愛情を彼に注いでくれる、かけがえのない家族。

 彼らの存在がなければ、きっと少年はすぐにでも死を選んでいた。

 家族を悲しませたくない。その想いだけで、少年は生きていた。



 ある冬の日、少年は母親に尋ねた。

 暖炉のある暖かい広間に家族で集まり、少年の誕生の日を祝っていたときのことだった。


「どうしてぼくたちは里のみんなにきらわれているの?」


 少年の突然の問いに、両親と祖父母は困惑し、互いに顔を見合わせた。

 僅かな沈黙のあと、母親は心を決めたように、少年の長い長い名前を呼んだ。少年が首を傾げて母親の傍に寄ると、母親は少年を抱きしめて言った。


「ごめんね。私達のせいで、つらい思いをさせてしまって」

「へいきだよ。ぼくはへいき」


 泣き出しそうな母親の背中に精一杯腕を伸ばし、少年は母親を抱きしめた。母親は震える声で少年に話して聞かせた。

 鱗の色の違いというくだらない理由が原因で数千年続いた争いのこと、その争いを終結させる為の都合のいい生贄として、唯一魔力を持たない彼の一族が選ばれたことを。一族に課せられた理不尽な運命を、少年は幼くして知ってしまった。

 少年は、優しくて暖かい彼の家族が大好きだった。それ故に、大切なものを傷つける里の人々に憎しみを抱いた。


 母親は黙り込んだ少年に尋ねた。

 

「そうだ、プレゼントは何が良い?」


 少年はほんの少し考え込み、そして答えた。


「なまえがほしい。おとうさんとおかあさんがぼくのためにかんがえた、ほんとうのなまえが」

「それなら用意できてるわ。あなたが生まれる前から、ずっと決めていたの」


 母親は父親と顔を見合わせると、優しく微笑んで少年に告げた。


「あなたの名前は『ゼノ』よ」




***



 ゼノと名付けられた少年は、優しい家族に守られてすくすくと育った。

 彼の家族は理不尽に向けられる悪意に耐え、長い長いあいだ里の片隅でひそやかに暮らし続けたが、争いに直接関わった年寄りが揃って隠居すると、その暮らしにも徐々に変化があらわれた。時を経るごとに向けられる悪意は薄れ、彼の家族に直接的な危害を及ぼす者はいなくなった。いつしか大人達は和解を示し、ゼノの家族は里の一員として認められるようになった。

 だが、子供達は別だった。無邪気さ故に残酷な彼らは、変わることなくゼノを除け者にし続けたのだ。

 家族がようやく手に入れた平穏な暮らしの影で、ゼノはひとり、疎外感に苛まれた。孤独は彼の心を蝕み、いつしか彼は、全ての感情を心の奥に封じ込めた。冷めた瞳で現実を見据える彼の世界は、急速に輝きを失った。


 どんなに望んでも、この里は僕を受け入れない。この孤独から逃れる術はない。

 それならもう、抗うのはやめよう。関わりさえしなければ、傷つけられることもないのだから。


 ゼノはそう思った。



***



 幾度となく季節は巡り、ゼノが生まれて三百回目の春が訪れた。

 その日、ゼノは里外れの丘に立つ大樹の下で、欠けた岩に腰をおろし、祖父から譲り受けた本を読んでいた。

 正午をまわる頃になると、森へと続く小径から子供達が姿をあらわす。早朝から男衆に連れられて狩りに出ていた子供達が、それぞれの獲物を手に里へ戻ってくるのだ。

 楽しそうに、誇らしげに、友人とその成果を競い合う声が、風に乗ってゼノの耳に届く。

 この里では、一人で狩りができるようになった子供から成人の儀を執り行う。獲物を狩る能力を身につけた者は、一人前の大人として認められるのだ。


「大人になったところで、どうするんだか……」


 つまらなそうに吐き捨てて、ゼノは頬杖をついた。

 小径を行く集団をぼんやりと眺めていたゼノの瞳には、その中心を歩く一人の子供の姿が映っていた。鮮血のように朱紅あかい髪を、肩にかかる長さで切り揃えた少女だ。

 ゼノの視線に気がついたのか、周囲の少年達と楽しそうに笑い合っていた彼女が、不意に丘の上に目を向ける。一瞬、目が合った気がして、ゼノは慌てて本のページに視線を落とした。

 

 本来ならば、成人した男は妻を娶り、子孫を残すのが自然の摂理だろう。暖かい家族に支えられてきたゼノだからこそ、その血統を護りたい気持ちは人一倍あった。

 だが、竜人族には男女の数に極端な偏りがある。簡単に言えば、女児が殆ど生まれないのだ。

 朱紅い髪の少女は里で唯一の未婚の娘だった。彼女に選ばれない限り、この里の男は妻を娶ることすら叶わない。

 未婚の男が溢れるこの里で、集団から孤立したゼノが彼女の目に留まることなど、どう転んでもあり得なかった。


 溜め息を吐き、木陰の岩に腰掛けると、ゼノは読みかけの本のページをめくった。鳥のさえずりと風の音を耳にしながら、ゼノがページに綴られた文字を追いはじめた、そのときだった。


「それ、面白い?」


 無邪気な少年の声が頭上から降ってきた。

 驚いたゼノが辺りを見回すと、少年が大木の枝の上に腰掛けて、ゼノを見下ろしていた。

 白銀の髪に金色の瞳を持つその少年は、ゼノよりも少し年上に見えた。訝しげに眉を顰めるゼノの手元を指差して、少年は再び言った。


「それ、きみが読んでるやつ。面白い?」

「これ? ……暇だから読んでるだけだよ」


 躊躇いがちにゼノが答えると、少年は「ふぅん」と気の抜ける声を漏らし、枝から降りてきた。


「あまり僕に近づかないほうがいいよ」

「なんで?」

「仲間はずれにされるから」


 他人と関わって碌な目にあったことが無かったゼノは、戯れに近付こうとする少年を牽制した。だが、少年は面白そうに笑みを浮かべるだけで、ゼノの忠告を聞き入れようとはしなかった。


「きみ、名前は?」

「ゼノ……って家族には呼ばれてる」

「じゃあゼノ、僕と友達になってよ」


 にこやかに笑って、少年は手を差し出した。生まれて初めて他人にかけられた優しい言葉に、ゼノは戸惑いを隠せなかった。


 本当は、ひとりでは心細かった。

 ゼノはずっと、誰かが手を差し伸べてくれるのを待っていたのだ。


 差し出された少年の手に、ゼノは恐る恐る手を伸ばした。彼はゼノの手を力強く握り締めると、満面の笑みを浮かべて名を名乗った。


「僕はイシュナード。これからよろしく、ゼノ!」



 はじめは冷やかしだと思った。

 友情などという非現実的なものに、ゼノは期待などしなかった。イシュナードがゼノに向ける好奇心も、一過性のものに過ぎないと思っていた。

 だが、里の子供達と関わらず、いつも一人で本を読み耽けるゼノに、イシュナードは異常なほど興味を示した。他人に打ち解けることが出来ず、冷めた態度で接するゼノに、イシュナードは凝りもせず、ことあるごとに構ってきた。

 そんなイシュナードを鬱陶しいと思いながらも、ゼノは少しずつ、彼に心を開いていった。



***



 ゼノとイシュナードが出会ってから数十年のときが過ぎた。

 友達と呼べる存在ができたとはいえ、簡単に里に馴染むことは叶わず、ゼノは相変わらずの生活を送っていた。

 イシュナードは相変わらずゼノの祖父が遺した本に興味があるようで、度々ゼノの元を訪れては本を貸してくれとせがんだ。彼の知識欲と好奇心は尋常ではないようで、この里の歴史から外界に関することに至るまで、様々な知識を欲していた。



「イシュってさ、本当は俺の本が目当てだったんだろ」


 あるとき、ゼノがそう問いただすと、イシュナードは肩を竦めておどけて言った。


「それもあるけどさ、この里の住人ってつまらないんだよ。退屈に胡座をかいて、毎日惰眠を貪るだけ。このままじゃ僕らは絶滅の危機だっていうのに、くだらない掟を守ることだけを考えてる」


 つらつらと不満を並べたてて、イシュナードは最後に大きく溜め息を吐いた。


 確かにそうだ、とゼノは思った。

 この閉鎖的な状況で、女児の生まれない竜人族が種を存続させる術はない。それなのに、里の住人はこの緩やかな滅びを受け入れてしまっている。他人との関わりを断ち、静かに滅びを迎えるつもりだったゼノだけならいざ知らず、だ。


「掟を守ることが、そんなに重要なのかな」


 ゼノがポツリと呟くと、


「そうだろう? 掟なんて糞食らえだ! ゼノ、僕と一緒に外の世界に行こう!」


 勝ったと言わんばかりに目を輝かせたイシュナードが、猛然とゼノに詰め寄り、有無を言わせぬ強い口調で言った。


「そんなの無理だよ。俺は当然として、イシュナードだって成人の儀はまだだろ?」


 それに加え、外界の視察という任務は、里の男衆の中でも皆に信頼された優秀で品行方正な者だけに与えられる重要なものだった。里に関わろうともしないゼノは当然として、ゼノに構っているイシュナードもまた、その任を与えられるには程遠い存在に違いなかった。

 しかし、イシュナードはそんなゼノの言葉を一蹴すると、


「成人の儀の資格を得るのなんて簡単さ。それに、こう見えても僕は、とてもなんだ」


にっと笑って、得意げに言い放った。



 それから程なくして、イシュナードの成人の儀が執り行われた。その日、里はお祭り騒ぎで、全ての住人が広場に集い、イシュナードの成人を祝っていた。

 ゼノも人目につかないよう、こっそりと広場の片隅に身を潜め、儀式の進行を見守っていた。

 皆の前に姿を現したイシュナードは、白地に金の刺繍を施した神秘的な衣装を身に纏い、大衆を前にしても動じることなく凜としていた。

 口々に祝いの言葉が寄せられるその光景を前にして、ゼノはイシュナードと自分との歴然とした差を思い知った。

 ゼノの前での彼はいつも飄々としていて、常識にとらわれない変わり者にしか見えなかった。けれど今、人々の前で儀式を受けているイシュナードは、全くの別人のように思えた。


「イシュナードも遂に成人か」

「里長も肩の荷が下りるわねぇ」


 目の前で、浮かれた夫婦が楽しそうに語り合っていた。初めて耳にするイシュナードの素性に、ゼノは耳をそば立てて聞き入った。

 イシュナードは里長の一族の子だった。

 眉目秀麗で何事も卒なくこなし、里の皆に将来を期待されている彼は、この里の未婚の男衆において、おそらく最も将来を約束されているであろう存在だった。


「あの子も安心しただろうなぁ」

「悔しいけど、どう考えても婚姻相手はイシュナードだもんな」


 若い男衆のあいだから溜め息に似た呟きが漏れる。

 人混みへと視線を向け、ゼノは無意識に噂の相手の姿を探した。

 少女は人混みの中で、成人の儀を終えたイシュナードに拍手を送っていた。

 美しく成長した彼女の身体は程よく引き締まっており、鮮血のように朱紅い髪は腰にかかる程長い。整った顔立ちには、まだあどけなさがほんのりと残っていた。

 年に一度の収穫祭で舞を踊り、祭りに華を添える彼女に、里の誰もが憧れに似た感情を抱いていた。

 ゼノもまた、彼女に特別な想いを寄せていたが、その想いはこのときを最期に胸の奥深くに封じ込めることになった。


(そうか……、彼女はイシュナードを……)



 やがて成人の儀が終わり、広場では宴会が始まった。散り散りに帰路に着く人々に紛れ、ゼノも広場をあとにした。

 里の外れへと続く細い小径を歩いていると、後ろから聞き慣れた声がした。


「昼間から酒なんか飲んで、何が楽しいんだろうね」

「気持ちの問題だよ」


 振り返ることなく、ゼノは素っ気ない言葉を返した。

 竜人族の身体には、アルコールを即座に分解する特殊な酵素がある。そのため、彼らは通常の酒ではまず酔うことができない。それでも、神話の時代に神が祝杯をあげた伝説になぞらえて、祝い事の際には宴会が行われるのだ。


「なんだよ、機嫌悪いの?」


 まだ成人の儀の衣装を身に纏ったまま、イシュナードがゼノの眼前に周り込む。その姿はいつもと変わらない、ゼノの唯一人の友人のままだった。


「裏切られた気分だよ」


 大きく溜め息をついてイシュナードを押し退けると、ゼノは足早に歩き出した。

 ただの八つ当たりだった。

 幼い頃、森へ出かける朱紅い髪の少女の姿を目で追った。里の誰もがそうだったように、ゼノもまた、彼女に憧れていた。

 その彼女に生涯の伴侶として選ばれるのが唯一人の友人であろうことが、ゼノには誇らしく思えた。それと同時に、ほんの少しだけ悔しかったのだ。

 

 本当に、色々な意味で驚かされた。

 けれど、この件があったからこそ、イシュナードはゼノにとって信頼に足る、尊敬できる親友になったのだ。




***



 成人したイシュナードは瞬く間に里の大人の信頼を集め、いずれ外界の視察という重役を担う者として森の結界を抜ける術を得た。

 あの日の約束通り、ふたりは里を抜け出して、外の世界に飛び出した。

 里の大人達は、ゼノが成人の儀の資格を得るために成人したイシュナードが狩りに同伴していると信じきっていた。

 イシュナードの品行方正さは、この里の掟を掻い潜る最大の武器になった。反面、ゼノの落ちこぼれ扱いには拍車がかかったが、それも二人にとっては好都合だった。


 イシュナードはゼノの世界を変えた。

 色褪せていたゼノの世界は、瞬く間に鮮やかに彩られていった。


 多種多様な生物が存在する外の世界は、いつしか大部分が人間に支配されていた。

 なんの能力も持たない脆弱な種族だったはずの人間は、異種族から得た知識を元に創意工夫を凝らし、外敵から身を守る強固な砦や城を築き、多くの国を創り上げていた。他の種族が徐々に繁殖力を失い、その数を減らしつつあるのに対し、彼らは人口を増やし続けていた。

 滅びとは真逆の彼らの存在は、他種族にとって正しく脅威だった。人間は私利私欲のために他者を犠牲にすることを厭わない、自らの快楽のために他人の物を平気で奪う、危険な生き物だったからだ。

 竜人族が人のかたちを成したのは、元の姿が巨体であるが故の暮らし難さだけが理由ではなかったことを、ゼノは知った。人間の世において、竜の牙や角や鱗は、どんな宝石や金属よりも高値で取引されていたのだ。

 イシュナードはその危険を逆手に取り、希少素材である自らの鱗や爪を人間の国の通貨に換金した。人間の言葉を学び、交渉術を身に付けたイシュナードは、鱗一枚で数日遊んで暮らせる大金を手にすることができた。

 だが、それでもふたりの手持ちの金は、徐々に底をついていった。



「まいったなぁ。さすがにこの歳では脱皮もしないし、子供の頃の鱗が無くなるのも時間の問題だ。だからって鱗を剥ぐのもなぁ……」


 丘の上に寝転んで、イシュナードがため息混じりにぼやく。特に気にする素振りも見せず、ゼノは小さなナイフでカリカリと木彫りのペンダントに細工を施していた。

 人間の街の宝飾店で様々な装飾品を見て以来、暇を見つけては宝飾細工を練習するのが、ゼノの趣味のひとつになっていた。

 完成したペンダントに闇色の石を嵌め込み、小さく息を吐く。宝石のように輝くその石は、ゼノの鱗を研磨して作ったものだった。


「上手いもんだな」


 ゼノの手元を覗き込んでペンダントをひょいと手に取ると、イシュナードは感心したように頷いた。


「これ、寝所の爺さんとこから抜け落ちた牙拾ってきてさ、細工して売れば、当分困らないんじゃないか?」

「へ……?」


 イシュナードの提案に、ゼノは間の抜けた声を上げた。

 年老いて竜の姿に戻った竜人族は、牙や爪が徐々に抜け落ちていく。確かに、彼らが眠る寝所に行けば、たくさんの素材が見つけられるだろう。

 幼少期のものとは違い、老いた竜の牙や爪は非常に大きく持ち運びが困難で、これまで利用価値を見出せずにいた。けれど、装飾品として加工してしまえば里から持ち出すのも容易になる。

 ふたりは早速それを実行に移し、再び人間の街に出て遊びだした。


 ゼノの目に映る人間の世界は、息苦しい竜の里と比べれば、まさに楽園のようであった。


 里を捨て、外の世界で自由に暮らすことができたら、どんなに幸せだろう。

 何度も同じことを考えたが、ゼノにはそんな大それたことはできなかった。偶の息抜きにイシュナードと里を抜け出すことができれば、それで充分だった。


 けれど、そんな暮らしが永らく続いたある日、イシュナードはゼノの前から忽然と姿を消したのだった。


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