第一章①

 まだ春の日差し、と呼んでもいいのだろうか?

 入学式もとうに終わり、桜の花弁は散り終わっている。それでも、五月の空から優しく降る太陽の朝日は、春の日差し、としか呼びようがない。

 その光に照らされて、俺は今日から新しく通うことになるここ、海旭高校(かいきょくこうこう)の校門をくぐった。その先にあるのは、薄汚れた校舎と、グラウンドを行き交い、朝練をしている学生の姿。

 入学式から一ヶ月。それだけ経てば見慣れるはずのその風景に、俺は目を細めた。

 諸事情により入院していた俺には、新しく編入する高校の校舎もグラウンドも、全てが新鮮に見える。

「さっちゃん、大丈夫? 緊張してない?」

 そう後ろから声をかけてきたのは、俺の従姉弟の長田 真紀(おさだ まき)。訳あって今は俺の保護者をしてくれている人で、俺は姉貴と呼んでいる。

 まだ着慣れていない海旭高校指定の学ランを、ただ着ている冴えない俺とは対照的に、姉貴はおろしたてのスーツをバッチリ着込み、仕事のできるキャリアウーマンのように見えた。

 腰まで伸ばした絹のような黒髪を揺らし、姉貴はシミ一つない陶器のような白い腕を、俺の腕に絡みつけてくる。

 その姉貴の行動に、俺は狼狽した。

「ちょっと、頼むから学校で腕を組んでくるのはやめてくれよ姉貴!」

「えぇ、いいじゃない。世の中のブラコンなんて、こんなものよ?」

 慌てる俺を無視して、姉貴は平然とそう言った。鼻腔をくすぐる女性の香りと、腕に感じる柔らかさに、俺の心臓が高鳴る。

「自分でブラコンって言うなよ! ったく、こんな人が刑事課の巡査部長なんだから、世の中間違ってる!」

「さっちゃんに悪い虫がつかないようにするために、これは必要なことなのよっ!」

「わけわかんないこと言ってないで、いいからは・な・れ・てっ!」

 悪戦苦闘の末、何とか俺は、姉貴を腕から引き離すことに成功した。

「それからもう高校生なんだし、さっちゃんっていうの、止めてよ」

「えー。さっちゃんはいつまで経ってもさっちゃんだよぉ」

 頬を膨らませ、こちらを不服そうに見ている姉貴に向かって、俺はため息を付いた。

 俺の名前は、武田 覚(たけだ さとる)と言う。覚だから、子供の頃のアダ名はさっちゃんだった。

 子供の頃から付き合いのある姉貴は、昔から俺のことをさっちゃんと呼んでいたのだが、それが今も続くことに、俺は気恥ずかしさを覚えていた。

「高校三年生といっても、俺もいい年だし、本当にそういうの恥ずかしいんだって」

「大丈夫! 私は気にしてないからっ!」

「俺が気にするんだよっ!」

 そんなやり取りをしながら校舎を横切り、来賓用の下駄箱に向かおうとしていると――


「よるんじゃねぇ! このバケモノどもがっ!」


 声よりも先に聞こえてきたのは、ガラスの割れる破砕音。

 濁点が多いのに甲高く聞こえるその音と悲鳴は、俺の上空から聞こえてきた。

 慌てて見上げる俺の視界に広がったのは、ガラスの破片、だけではなく。

 椅子が、降って来た。

 学校の教室で使うであろう何の変哲もない椅子が、細かく砕かれたガラスを装飾品として着飾り、空中で踊りながら落下してくる。

 その不器用なダンスを見ながら、俺の思考は全くまとまっていなかった。

 は? え? 嘘? 何で? 何で空から椅子が?

 それでも何とか俺は両手で顔を隠し、一歩下がる。それだけしか、出来なかった。

「さっちゃん!」

 声とともに、俺の視界は急速に後ろへと引きずられる。姉貴が俺の首元をつかみ、自分の方へ引き寄せたのだ。

 息が、一瞬詰まる。

 そして、椅子が地面に激突した。

 それが落下したのは、俺の前方約十メートル。

 ガラスの破片がコンクリートの地面に当たり、更に砕け、椅子は重低音を響かせる。四本ある椅子の足、その内の二本は、落下した衝撃で内側に大きく折り曲がっていた。まるでそれは、出来もしない正座を必死にしようとしているみたいで、何故だかとても滑稽に思えた。

 二度、三度と跳ねる椅子を横目に、俺は自分の状態を確認する。良かった。特に怪我はなさそうだ。

 さっき助けてもらったお礼と、姉貴は大丈夫なのか聞こうと振り返る。と、

「おらぁぁぁあああっ! 今やったの何処のどいつだ! うちのさっちゃんが傷物になったら、一体どう責任取るつもりだ! そこは私が取るからいいけど、国家権力ぶつけてぶっ潰すぞおらぁぁぁあああっ!」

 両腕を振り上げ、公私混同な発言をしつつ校舎を見上げながら、喧嘩を売る姉貴の姿があった。あの様子なら、怪我もしてないだろう。

 俺もつられて上を見る。

 それでわかったのは、二つ。

 一つ目は、四階の窓ガラスが割れていた、ということ。

 恐らく、椅子が落ちてきたのはあの教室からなのだろう。

 二つ目は、俺と姉貴がほぼ全校生徒の注目の的になっている、ということ。

 ガラスが割れた音がして、椅子が落ちた音が聞こえたんだもんな。うん。そりゃ教室の窓から外に顔を出して、何が起きたのか確認するだろう。もし俺が同じ立場なら、俺だってそうする。そして顔を出した所で姉貴の啖呵切りだ。そりゃ俺たちを見るよな。うん。そして思うわけだ。あいつら、頭おかしいんじゃね? って。全校生徒が。

 ……初登校早々、引きこもりたい。

 まだ四階に向かって怒鳴り散らす姉貴の隣で、俺は両手で頭を抱えた。

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