第5話 花嫁と軍神

 その日、リンデガルム峡谷は激しい雷雨に見舞われていた。

 城の中に居るというのに、屋根を叩きつける雨音が耳の奥まで響くようで、雷が轟音とともに閃いては、部屋の窓をびりびりと震わせていた。


「随分と急に天気が崩れましたね。昨日はとてもいい天気でしたのに」


 荒れ狂う風の音を耳にしながら、マナが呟いた、そのとき。引き裂くような雷鳴とともに、窓の外で一際激しく雷が瞬いた。

 不意を突かれたマナが、思わずその身を縮こまらせる。

 窓の外を気にしながらカタカタと小さく震えるマナを見て、ベッドに横になっていたセイラムがゆっくりと身を起こした。


「大丈夫、この城に雷は落ちないよ」


 穏やかな声で宥めるようにそう言うと、セイラムは手を伸ばし、小刻みに震えるマナの手を両手でそっと包み込んだ。

 手のひらから伝わる温もりに、怯えていたマナの心も落ち着きを取り戻していくようだ。


 わずかな間をおいて、マナは弾かれるように顔を上げた。茫然と瞬きを繰り返すセイラムの顔が、マナの瞳に映る。


「いけません、セイラム様、横になっていてください。すこし驚いただけですから……」


 マナが慌てふためいていると、セイラムは困ったように微笑んで、言われるままに、ふたたびベッドに身を委ねた。


「ありがとう、マナ。頼りない婚約者でごめんね。こんな天気の日は、身体のあちこちが痛んで手も脚もとても重くなってしまうから」


 大きく息を吐き、セイラムは真っ直ぐに天井へと目を向けた。その呼吸はいつもより浅く細切れで、息苦しさを感じさせる。

 ただの不調ではないようで、マナも気が気でないというのに、先ほどからマナが何度訊ねても、大事なことは全てはぐらかされてしまっていた。


 自身の病気の話になると、セイラムは頑なに口を閉ざしてしまう。まるで、知られてはいけない呪いにでもかけられているかのように。


 漠然とした不安を胸に抱いたまま、マナはしばらくセイラムの横顔をみつめていた。


 ふと窓の外へ目を向ければ、先ほどの雷で真っ二つに引き裂かれた庭園の枯れ木が目に入った。

 何か嫌なことが起きそうで、マナは小さく身震いすると、一際明るい声でセイラムに告げた。


「明日はいよいよ婚姻の儀式が執り行われます。セイラム様はこれ以上わたしが心配しなくていいように、ゆっくりお休みになってください」

「うん……そうだったね……」


 マナの言葉に弱々しくうなずくと、セイラムは大きく息を吸って両の瞼を閉じた。


 今朝のセイラムは、悪天候のせいか、すこぶる体調が悪いようだった。

 身体が痺れるようだと言って、いつものように執務室へ向かうこともできずに、こうして寝室に閉じ籠っている。

 婚姻の儀式を明日に控えていることもあり、マナも余計に不安になってしまう。


 セイラムが眠りについたことを確認して、冷水とタオルを取り替えようとマナが席を立った、そのときだった。

 けたたましいノック音が響いたかと思うと、勢い良く部屋の扉が開かれた。


 部屋に飛び込んできたのは、若い騎士だった。

 彼は見開いた目でおろおろと室内を見渡すと、部屋の隅で立ち竦むマナに駆け寄り、必死の形相で訊ねた。


「セイラム様は……!」

「セイラム様はお休みになっておいでですが……」


 目線でセイラムを指してマナが応えると、騎士は恐怖に取り憑かれたかのように、無心にセイラムのベッドへと突き進んだ。

 一連の騒ぎで目を覚ましたのだろう。セイラムがゆっくりと身を起こして騎士を見上げる。

 騎士はその場に跪くと、震える声で、しかしながらはっきりと告げた。


「先程、早馬で伝令が戻りました。国王陛下が東の谷を制圧し、これから帰還されるそうです」



 部屋の空気が一瞬にして凍りついた。

 そんな気がした。


 リンデガルム国王の帰還。

 それが何を意味するのか、このときのマナは解っていなかった。


 ただ、いつも穏やかなセイラムが纏う、今までに感じたことのない張り詰めた空気が、漠然と、マナに嫌な予感を覚えさせた。


 嵐がくる。

 そんな予感を。



***



 リンデガルム国王グレゴリウスは、国内・国外共に戦に出向いては、圧倒的なちからで全てのものを平伏させる不敗の王であり、自国民に軍神と崇められ、恐れられる存在である。

 その戦歴は数多く、民衆のあいだに広く知られており、竜の加護を受ける国の王でありながら竜のちからを使役することなく、人のちからのみで領土を拡げ続ける彼のことを、リンデガルムの人々は皆、『彼こそは人の王』と詠い讃えている。

 逸話も多く、若き日のグレゴリウス王が竜殺しの大戦斧で神竜ディートリンデを一撃で屠った話は、国外でも耳にする有名な話である。


 図書館でセイジに聞いたリンデガルム現国王の話を思い出し、マナはごくりと息を呑んだ。

 王の帰還を知らされた際の尋常ではない緊迫した空気が、今も全身に纏わりついているようだった。

 いつもよりも華やかなドレスに身を包み、コルセットにきつく締め付けられた背筋をぴんと伸ばす。

 落ち着かない様子で窓の外へ目を向ければ、相も変わらず庭園の木々に強い雨が叩きつけていた。

 薄暗い廊下に面した扉の奥では、病床の身に無理を要してセイラムが身支度を整えている。ややあって、第二王子の部屋の扉が開かれて、正装したセイラムが従者を従えて現れた。


「セイラム様、お体は大丈夫ですか」


 マナが駆け寄って訊ねると、セイラムはちからない笑みを浮かべ、小さくうなずいた。その顔色は優れず、いつ倒れてもおかしくないようにさえ思える。


「大丈夫だよ、行こう。セイジが待ってる」


 心配を露わにするマナに微笑んでみせると、セイラムはその表情をぐっと引き締めた。

 薄暗い廊下を歩み出した彼の背中を、やや遅れてマナが追った。



 リンデガルム城の王の間には、王族のみ立ち入ることが許されている。

 神竜との契約を交わしてきた歴代の王が、そのちからを得る儀式を行うための祭事の場でもあったためだ。

 その神聖な広間へと続く扉の前で、セイジは黒鉄の鎧を身に纏い、緊張した面持ちで佇んでいた。

 王の前に出るためか兜は被っておらず、騎乗時に手にする槍斧の代わりに長剣を腰に携えている。

 手持ち無沙汰に剣の柄を撫で、豪奢な飾り扉を見上げると、セイジは深い溜め息をついた。


 セイラムとマナの婚姻の儀式が明日に控えている以上、本来であれば、王の帰還は喜ばしいことに違いないはずだった。

 しかし、父王の性格を知るセイジは、此度の報せを受けてから胸騒ぎがしてならない。


 やがて、雨音の他に音のなかった廊下に靴音が響き、通路の奥からセイラムとマナが姿を現わした。

 ふたりの姿を確認すると、セイジは緊張した面持ちで頭を下げ、重い鉄の扉を押し開けた。



***



 幾何学的紋様を彫刻された石柱が円形に立ち並ぶ大広間の中央で、『軍神』は玉座に身をあずけ、黙して広間を見下ろしていた。


「久しいな、セイジ」


 臓腑を震わせる良く通る太い声が、広々とした空間に響き渡る。

 セイラムとマナを広間に通し、後方に控えていたセイジは、無言のまま父王に頭を下げた。


 ——この人が、リンデガルム国王グレゴリウス。


 顔を上げ、マナは真っ直ぐに玉座に座すこの城の主の姿を見据えた。

 なんて恐ろしいちからを宿した眼をしているのだろう。左眼が大きな傷で潰れているにも関わらず、王の右眼の眼光は冷徹さを湛え、闘志に満ちていた。その視線を向けられるだけで、歴戦の勇士も思わず身を竦めてしまいそうなほどに。

 血のように朱紅い鎧を身に纏う王の傍には、身の丈より大きな真紅の戦斧が立て掛けてあった。噂に聞く竜殺しの大戦斧とはこのことだろう。


 微動だにできずにいるマナを刺すように冷徹な視線で射抜くと、グレゴリウス王はふん、と鼻を鳴らし、その視線をセイラムへと動かした。


「父上、無事のご帰還、大変喜ばしく存じます」


 深々と頭を下げ、凛と透き通る声で告げると、セイラムは毅然とした態度で王の目を見据えた。

 だが、グレゴリウス王は蔑むような目でセイラムを睨み付けるのみで、その言葉に応えるでもなく眼を逸らす。

 王の視線は、セイラムの傍に控えるマナのほうへふたたび向けられた。


「紹介が遅れました。先日、私と婚約した、ラプラシアのマナ王女です」

「お初にお目にかかります。ラプラシアから参りました、マナと申します」


 セイラムに紹介され、国王の前に進み出たマナは、思わず全身を強張らせた。

 グレゴリウス王のその瞳が、実の息子である王太子の婚約者に向けるものとは思えない、蔑みと憎悪に満ちていたからだ。

 マナが思いがけず目を逸らすと、即座にセイラムの澄んだ声が広間に響き渡った。


「お戻りになられて直ぐのことで恐縮ですが、父上が王都を留守にしていたあいだの政務の報告がございます」


 ハッと顔を上げたマナを庇うように、セイラムはグレゴリウス王の前へと進み出た。


「治水工事で幾つか問題が起きていた件ですが、各地の領主の協力で大規模な影響は回避しました。不作が続いていますが、食糧難の面では同盟国からの援助を受けることが決まっております。それから毎年この時期に流行る疫病の件ですが——」

「もう良い、退がれ」


 報告を続けるセイラムの言葉が、王の一言に遮られる。

 小五月蝿い害虫を払い退けるように手のひらをひらひらと動かすと、王はふたたび玉座に身を沈めた。

 グレゴリウス王の威圧的な視線に臆することなく一礼し、怯えるマナの手を取って、セイラムが玉座へと背を向ける。

 だが——。


「セイラム様!」


 突然、身体がよろめいたかと思うと、セイラムは膝から崩れ落ちるように床の上へ倒れ伏した。

 悲鳴に似たマナの声が、静寂に満たされた王の間に響き渡った。



 まるで、時がゆるやかに流れているようだった。

 ゆっくりと床の上に崩れ落ちていくセイラムの姿が、見開かれたマナの瞳に映る。

 繋いだ手に引かれるように、マナはセイラムの傍に膝をついた。


 連日の無理が祟ったのだろう。

 床の上で項垂れるセイラムの青褪めた顔には、既に生気が感じられない。病状はいつになく深刻のように思われた。


「……セイラム様、セイラム様!」


 ぐったりとしたセイラムに寄り添って、マナは震える声でその名を呼んだ。繰り返しセイラムの名を呼びながらうつむいて涙ぐんでいると、マナの目に黒い影が映り込んだ。

 セイジの逞しい腕が、労わるようにセイラムの上体を抱き上げる。

 セイラムの腕を肩に担ぎ、セイジが立ち上がろうとした、そのときだった。

 

「駄目だな」


 物々しい低音が、玉座の間に響き渡った。

 凍り付くかのような空気の中、マナとセイジは声の主を仰ぎ見た。


 肘掛けに頬杖を付き、玉座に身を委ねていた国王が、軍神の名に相応しい威圧的な形相で広間を見下ろしていた。

 倒れ伏したセイラムを忌々しく一瞥すると、王は鋭い眼光をセイジに向けた。


「セイジ、お前が儂の後を継げ。その有り様では、其奴は妻を娶ったところで世継ぎを儲けられん。相手がいなければ用意してやる。セイラムが婚姻の儀を終え次第、お前の婚約を公表する」


 有無を言わさずそう告げて、王が玉座を立つ。

 自信に満ち溢れたその姿は、彼の言動に意を唱える者がこの国に存在しないことを、まざまざと感じさせるものだった。


 深紅のマントを翻し、王は昂然と大扉へ向かう。

 床に伏したセイラムの側を、王が通り過ぎようとした、そのときだった。


「お待ちください陛下!」


 緊迫した広間に、紛れもないセイジの声が響き渡った。

 眉を顰めて振り返った王と対峙して、セイジは声を張り上げた。


「ラプラシア国王がマナ王女を兄上に嫁がせたのは、兄上がリンデガルムの王位継承権第一位にあったからこそのこと。兄上の継承権が剥奪され、マナ王女の地位が堕ちれば、向こうも黙ってはおりません」

「ならばセイジ、お前が王位を継ぎ、マナ王女を娶れ」


 セイジの苦言を斬り捨てるように、王が即座に言い返す。思いがけない下命に、セイジは一瞬、声を詰まらせた。


 考えるまでもない。

 自らを王とするために神竜をも屠るグレゴリウス王が、他者の言葉に耳を貸すはずがない。

 不安を滲ませるマナの視線を背に受けながら、セイジは苦々しく吐き捨てた。


「——できません」

「そうであろう。このような下賤な娘、お前には相応しくない」


 侮蔑を孕む眼でマナとセイラムを一瞥して、王は満足気にうなずいた。歯を食いしばり敵意を露わにするセイジに、余裕の笑みで嗜めるように告げる。


「儂がセイラムにマナ王女を娶らせるのは、奴が王位を継ぐ器ではないからこそのこと。マナ王女の地位が堕ちるのは、はじめから決まっていたのだ」



 マナは我が耳を疑った。

 セイラムが王位を継げないことは、はじめから決まっていたと、王は言う。

 それならば、あの日、祝いの席でリンデガルムがラプラシアと交わした誓約は、両国が誓い合った親交は偽りだったのか。


 ラプラシア国王である父が、セイラムが王位を継げないからといって誓約に意を唱えることはないだろう。

 だが、問題はそこではない。

 セイラムの婚約の裏に隠された王の真意とは。


 ラプラシア王女であるマナを下賤な身だと言い切ったこの王が、ラプラシアとの友好的な関係を望んでいるとは到底思えない。

 マナがリンデガルムに招かれた本当の理由——軍神グレゴリウスの真の狙いは——。


 その目を大きく見開いて、マナはグレゴリウス王を凝視した。


 戸惑いと疑念を隠すことも出来ずに王を見上げるマナを見て、セイジは奥歯を噛み締める。ぐっと息を呑み、先よりも落ち着いた口調で、セイジは王に尋ねた。


「ラプラシアとの誓約は……陛下、貴方はラプラシアと戦を起こすおつもりですか」

「愚問だな。小賢しい其奴やお前が儂の真意に気付かぬはずもなかろう。だがセイジ、お前がそれほどまでにマナ王女の地位を守りたいと言うのであれば、マナ王女には儂の子を産ませてやっても良いぞ。さすれば、お前が手を汚す必要もあるまい」


 そう告げて不敵な笑い声を響かせると、王はマナに向かって一歩足を踏み出した。


 耳を疑うような会話に、マナが顔を引き攣らせる。

 次の瞬間、身動きも取れず、眼前に迫る王の手を見上げるだけのマナの視界を、黒い影が遮った。


「お退がり下さい陛下! 私はセイラム様の守護騎士! その妃であるマナ様に危害を加えるのであれば、例え相手が国王の貴方であろうとも、斬ります!」


 腰に携えた剣を抜き、その切っ先をグレゴリウス王の眼前に突き付けて、セイジが鋭く言い放つ。

 殺気に満ちたセイジの剣先を見据えたまま、グレゴリウス王は目を細め、不敵に含み笑った。


「儂に剣を向けるか……面白い。セイジ、今回は目を瞑ってやる。お前とは追って話をするとしよう」


 厳かな低音でそう告げると、王は踵を返し、セイジに背を向けた。

 地の底から響くような笑い声とともに、重い鉄の扉が開かれる。真紅の戦斧を手に王の間をあとにする『軍神』の背中を、マナはただ、茫然と見送った。


 セイラムの手を握った両手の震えが止まらない。

 見上げれば、去りゆく王の姿に目を奪われたまま、身動きひとつせず剣を構え続けるセイジの姿が瞳に映った。

 身を強張らせて剣を握るセイジの腕は、微かに震えているようにも見えた。


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