第4話 花嫁と竜の騎士
「マナ様、また寝間着のままで部屋に閉じこもって……だらしがありませんよ」
昼の刻を過ぎた頃、いつものように部屋にやってきたエステルが嗜めるようにマナに言った。
ベッドの上でまるくなっていたマナは、どうにも起きる気にならず、横になったままぼんやりと手のひらのうえの髪飾りをみつめた。雪の結晶を模った黒水晶の髪飾りが部屋の照明を反射して、相変わらず美しく輝いている。
しばらくすると、口答えすらしないマナを心配したのか、エステルがマナの顔を覗き込んで言った。
「マナ様? どうかなさったのですか」
「……セイジさんに言ってしまったの。好きだって」
「なんですって?」
マナの消え入りそうな声に眉を顰めて耳を傾けたエステルだったが、最後の言葉を聞くや否や、彼女は絶句して後退った。
大袈裟に見えるエステルの反応も、当然のことだとマナは思う。
婚約者との婚姻を控えているというのに、その弟に告白をするなんて、軽率で済まされる話ではない。軽蔑される覚悟もできていた。
けれども、今のマナには、このような話をできる相手はエステルしかいない。
セイラムとの結婚は、ラプラシアとリンデガルム両国の未来をかけた政略的なものであり、今更婚約破棄なんてできようもない。
それならば、口の堅い誰かに胸の内を聞いてもらい、気持ちの整理をつけるべきだろう。それが、マナが自分なりに考えて至った結論だった。
ベッドの上で身を起こし、枕を抱きかかえると、マナはぽつぽつと言葉を続けた。
「以前から、一緒にいると楽しいなって思っていたの。それで昨日、図書室でお会いして、話をしているうちになんだか嬉しくなって、つい……」
そこまで呟いて、マナは枕に顔を埋めた。
信じられないといった表情でマナの言葉に聞き入っていたエステルは、しばらく考え込んだあと、ふたたびマナの顔を覗き込み、恐る恐る確認するようにマナに尋ねた。
「マナ様、ご自分の立場はご理解していらっしゃいますよね?」
「わかってる。わたしはセイラム様の婚約者。こんなの最低だわ」
やっぱり、こんな気持ちは理解してもらえるわけがないのかもしれない。
それでも、子供の頃から一緒だったエステルなら——。
わずかな希望に縋るように、マナはエステルの顔を見上げた。
しばらくのあいだ、エステルはマナの視線を受け止めていた。それから額に手を当てると、大きな溜め息とともにがっくりと肩を落とした。
「……だって、そんな、よりにも寄ってセイジ様だなんて。確かに男前ですが、その……なんと言いますか、いつも無愛想で、それが何故……」
そこまで言って、エステルはマナに訊ねた。
「それで、セイジ様はなんて……?」
「怒られたわ。それはもう有無を言わさない勢いで」
「……でしょうね」
大方予想できていた答えだったのだろう。
エステルは意思の再確認をするように、マナに優しく問いかけた。
「……マナ様は、セイラム様へのお気持ちはないのですか?」
「セイラム様のことはお慕いしているわ。優しくてお綺麗で、わたしには勿体無いほど素敵な方よ」
「でしたら、今回のことはすっぱりとお忘れになってくださいませ」
「そうするわ。ただ……」
諌めるエステルの言葉にうなずいて、手のひらの髪飾りを覗き込む。黒水晶の縁を指先でなぞりながら、マナはうっとりとつぶやいた。
「こんなふうにひとを好きになったのは、はじめてだったから……この気持ちを無かったことにはしたくなかったの」
「わかりました。今回の発言は、婚姻に向けて貴女が気持ちの整理をつけるために口にした言葉。私は聞かなかったことに致します。それでよろしいですか?」
エステルの言葉にうなずいて、マナは窓の外へと目を向けた。その瞳に、霧の峡谷を背に飛竜を駆る騎士達の姿が映る。
「……セイジ様には、しばらく会わないほうがいいかもしれませんね」
囁くようなその声に、マナは小さくうなずいた。
***
昼の刻からしばらく経った頃、マナはセイラムの執務室を訪れた。
扉を軽くノックしたものの、返事がない。そっと扉を開いたマナの目に真っ先に映ったのは、執務机に積み上げられた書類の山と、手元の書類から目を離すことなく黙々とペンを動かすセイラムの姿だった。
昨日セイジが言っていたとおり、セイラムが休息を取った形跡はない。
マナが部屋の入り口で立ち止まり、しばらく様子を眺めていると、マナの気配を察したのか、セイラムがようやく顔をあげた。
「ああ、ごめん、きみだったのか。気がつかなかった」
「相変わらずお忙しいようですね」
「そうだね。でも大丈夫だよ。お茶にしようか」
そう言って机の上を整理すると、セイラムは金の呼び鈴を鳴らし、応接用のソファへマナを案内してくれた。
ソファに座って向かい合い、運ばれてきた紅茶と焼き菓子を楽しみながら、ふたりでのんびりとひとときを過ごす。
それが、セイラムのために今のマナにできることだと、昨日セイジが教えてくれた。
紅茶をひとくち口に含んで、マナはちらりとセイラムの顔を盗み見た。
相変わらず、顔色が良くない。セイジが心配するのも無理はない。
もうひとくち紅茶を啜り、窓の外に目を向ければ、東の空を背に城へ戻ってくる訓練を終えた竜騎士達が見えた。
深緑をさらに濃くした飛竜に紛れ、一際大きい黒い飛竜が広々とした庭園に舞い降りる。その様子をぼんやりと眺めていると、マナの視線の先を追ってセイラムが言った。
「マナはディートリンデが好きなのかな?」
「ディートリンデ?」
「セイジの飛竜の名前だよ」
「セイジさんの……」
つぶやいて、マナがもう一度窓の外に目を向けると、ちょうど先ほどの黒い飛竜から黒鉄の鎧の騎士が飛び降りたところだった。
他の飛竜に比べて目立つから、たまたま目がいったのだろうか。それとも、特に意識していたつもりはなかったのに、自分でも気がつかないうちにセイジの姿を捜していたのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えて、マナはセイラムに向き直った。
「女の子なんですね」
「女の子……? そうだね、この国の建国よりも以前から生きてるみたいだけど、確かに女の子だ」
マナの言葉に一瞬目を丸くして、セイラムが含み笑う。釣られるように、マナの顔にも笑みが浮かんだ。
翼を広げてくつろぐディートリンデをしばらく眺めながら、セイラムが囁きを洩らす。
「ディートリンデか……こんな身体じゃなければ、きみを乗せてあげられたんだけど」
そう言って目を細めるセイラムの横顔は、大切な誰かを愛おしんでいるようにも見えて、なぜだか胸が苦しくなる。
マナが言葉を失っていると、唐突にセイラムが振り向いた。
「そうだ、セイジに頼んでみようか」
思わず紅茶を吹き出しそうになり、マナは慌てて口元を手で覆った。
まさかここでその名前が出るなんて。完全に油断していた。
咳き込みそうになるのをぎりぎりで抑え、必死に紅茶を飲み込もうとしていると、その様子を怪訝な表情で眺めていたセイラムが、のんびりとした口調で続けた。
「ディートリンデに乗せてくれるように、僕が頼んであげるよ」
「いいえ! そんな……、結構です!」
「遠慮しなくても良いよ」
必死になって首を横に振るマナを見て、セイラムは嬉しそうに微笑んだ。
悪意のない笑顔が胸に痛い。
セイラムの目に映るマナは、きっと遠慮がちで控えめな女の子なのだろう。
けれど、マナはセイラムの提案を素直に受け入れることができなかった。
あれだけ険悪な状態になったのに、昨日の今日で顔を合わせたら今度は何を言われるか。
ふたたびセイジに厳しく批判されて平然としていられるような度胸など、マナにはない。
名案だと言いたげなセイラムを諦めさせる言い訳を、マナは必死に考えた。
「セイラム様はお仕事の途中ですし、セイジさんだってお忙しいでしょうし。……って、あの」
なんとか捻り出した言葉を最後まで口にする前に、マナの手がぐんと引き寄せられる。
狼狽えるマナに構うことなく笑顔で手を引きながら、セイラムは上機嫌で執務室の扉を開けた。
***
「ふたり揃って何の御用ですか?」
棘のある声色でセイジに問われ、マナは素早く顔を背けた。
逃げ出したい気持ちを抑え、なんとかセイラムのそばに控えてはいるものの、とてもではないけれど、まともにセイジと向き合えそうにない。
そんなマナの様子に気付いてか否か、セイラムは相変わらずの穏やかな口調でセイジに言う。
「実はね、マナがディートリンデに乗ってみたいって言うんだ。悪いんだけど、セイジ、一度マナを乗せてあげてくれないかな」
流石に仕えるべき兄王子の提案を無下にはできないのだろう。
セイジは一瞬声を詰まらせた後、弱々しくセイラムに反論した。
「……何も私でなくとも、兄上がマナ様と同乗されればよろしいでしょう。ディートリンデは兄上にも従うのですから」
昨日までのマナだったら、婚約者であるセイラムよりもセイジと共に飛竜に乗りたいと思ったに違いない。
けれど、今は違う。
セイジの案が採用されることを、きっと誰よりも強く願っている。
祈るようにセイラムの顔を見上げ、マナは全力でうなずいた。
しかし、現実はそう甘くはなかった。
「セイジ、意地悪を言わないでくれ。今の僕がディートに乗って空を飛べる身体ではないことくらい、わかっているだろう?」
あからさまに気乗りしない様子のセイジにはお構いなしで、病弱な身体を盾にセイラムが訴える。
セイジもそう易々と承諾するつもりはないようで、ときおり横目でマナの様子を窺いながら、ささやかな抵抗を続けていた。
だが——。
「……承知しました」
長いやり取りの末、先に折れたのはどうやらセイジのようだった。
溜め息混じりに承諾したセイジは、渋々マナを手招いた。
初めてラプラシアの丘で会ったとき、初対面だったにも関わらず、セイジは軽々とマナを抱き上げてディートリンデに跨った。
今回もあのときと同じように抱き上げられたりするのだろうか。
ほんのちょっぴり、淡い期待を抱いたマナだったが、その期待はあっさりと裏切られた。
おそるおそる近付くマナに手綱を手渡すと、セイジは視線で
マナが手綱を握り、鞍の端に手を伸ばすと、ディートリンデはゆっくりと頭部を地面に近付けた。
首筋を優しく撫でながら鐙に足を掛ける。片足で弾みをつけて勢いよく地面を蹴ると、その勢いに合わせるようにディートリンデが首を持ち上げた。
ふわりと宙に浮くように、マナの身体は鞍の上へと押し上げられた。
「あなたって、とっても賢いのね」
マナが上機嫌で首筋を撫でてやると、ディートリンデは両翼を得意げに大きく広げて嘶いた。
わずかに遅れて、セイジがひらりとマナの後ろに跳び乗った。
「気をつけて行っておいで」
微笑んで見送るセイラムに、マナが笑顔でうなずいた。同時に、ディートリンデが勢い良く翼を羽ばたかせて。
漆黒の騎竜はリンデガルム城の上空へと一息に舞い上がった。
城の窓から見える景色と違いなく、リンデガルムの空は深い霧に覆われていた。
吹き付ける風と霧の中を真っ直ぐに突き進み、雲を抜け、遥か上空へとディートリンデは舞い上がる。
やがて白みがかった視界が晴れると、マナの目の前には夕焼けに染まる紅い空が広がっていた。城下町で暮らす人々では見ることさえ叶わない、美しいリンデガルムの景色がそこにあった。
足元に広がる白い雲も夕陽の色に染められて、まるで紅い海の上に浮かんでいるようだ。
「きれい……」
無意識に身を乗り出して、マナが感嘆の声を洩らした、そのとき、勢いよく風が吹き抜けた。
突風に煽られて、マナが小さく悲鳴をあげる。バランスが崩れ、視界がぐるりと回転した。
——落ちる!
マナは全身を強張らせ、ぎゅっと目をつむった。
けれど、落下による浮遊感はいつまで経っても感じられなかった。
おそるおそる目を開ければ、マナの身体をしっかりと抱き止める、甲に覆われたセイジの腕が目に映った。
「——ッ!」
声にならない悲鳴をあげて、マナはその目を見開いた。青ざめた顔で、ゆっくりと後方を振り返る。
「すみません、不快に思われることは承知しております。ですが、上空では風が強く危険です。どうかこのまま——」
淡々と口にして、セイジは真っ直ぐに前方の空をみつめていた。
その横顔に、頬がかあっと熱くなる。
「不快だなんて、とんでもありません。貴方はわたしを危険から守ってくれた。それだけのことでしょう?」
懸命に、マナはセイジの言葉を否定した。
いつになく真剣なマナに気圧されたのか、セイジが一瞬、言葉を詰まらせる。けれど、自身の腕にマナの手が添えられていることに気が付くと、セイジはわずかに表情を和らげて、安堵したようにつぶやいた。
「あれだけ辛く当たったのだから、当然嫌われたものだと思っていました。手を触れるなど、以ての外だと」
「それで、この子に乗るときも手伝ってくれなかったのですか?」
尋ねるマナに、セイジはゆっくりとうなずいた。
「わたしはてっきり、セイジさんに軽蔑されたものだとばかり……」
張り詰めていた気が一息に緩み、肩のちからが抜けていくようだった。
けれど、ほっとしたのも束の間で、マナにはすでに次の難題が降りかかっていた。嫌われたわけではなかったと知ってしまったら、あろうことか、今度は全身が熱をあげはじめたのだ。
セイジが鎧を着込んでいてくれて良かったと、マナは思った。
城下町や図書室でのような普通の服を着ていたら、マナの胸の鼓動が今、尋常ではないくらい高鳴っていることに、たちまち気付かれてしまったに違いない。
ときおり風に煽られながら、ディートリンデは空を泳ぐように、優雅に夕焼けの空を舞う。
長いようで短い空の旅をマナが充分に楽しんだのを見届けると、セイジは手綱を引き、霧の峡谷を旋回した。
「すみませんでした」
唐突な言葉に、マナがきょとんとセイジを見上げると、
「言い過ぎました。貴女がお戯れでああいった発言をする女性だということは、私なりに理解していたつもりだったのですが……」
そう言って、セイジは小さく頭をさげた。
勘違いも甚だしいその言葉に、マナはちょっぴりムッとした。
確かに城下町でおねだりしたり、図書室で告白めいたことを言ったりと、セイジには何かと軽率な発言を聞かれてしまっているけれど、マナは他の誰にもあのようなことを言ったりしない。
ただひとり、セイジを除いて。
ぷうっと頬を膨らませるマナの顔を困ったように見下ろしたまま、セイジは続けた。
「頭が冷えた時点ですぐに謝罪するべきでした。ですが、兄上の婚約者である貴女の部屋を軽率に訪ねるわけにもいかず……本当に申し訳ないことをしてしまったと反省しております」
そう言うと、今度は深々と頭を下げた。
事の発端が自身の不用意な発言だっただけに、こうして素直に謝られてしまうと、とたんに居た堪れない気持ちになる。
セイジの顔を覗き込み、マナは彼に倣うように頭を下げた。
「わたしも……わたしのほうこそ、いつも 軽率な行動ばかりで貴方に迷惑をかけて、本当にごめんなさい」
ふと、空気が和らいだ。そんな気がした。
マナが顔を上げると、微かに安堵したようなセイジの笑顔が目に入った。
「全くです。くれぐれも他の者にあのような冗談を仰らないよう心掛けてください」
「相手が貴方でも他の誰かでも、二度と言いません! またあのときのように怒られたら、今度こそ立ち直れないもの。あのときのセイジさん、本当に怖かったんだから!」
「疲れが溜まって沸点が下がっていましたからね」
食ってかかったマナをあしらうように、セイジが軽口を叩く。
さっきまで素直に反省していたのが嘘のようで、上手く丸め込まれてしまったと、マナは再び頬を膨らませた。
「守護騎士失格です」
「仰るとおりで」
セイジが調子よく頭をさげるものだから、なんだかおかしくなって、マナはくすくすと笑いだした。
あのセイジと、ふたたびこんなふうに話すことができるなんて、思ってもみなかった。
マナが非常識な、不謹慎な言葉を口にさえしなければ、セイラムと式を終えたそのあとだって、きっとセイジはこうしてマナの話に付き合ってくれるだろう。それならば。
マナの好意がこれからの幸せの妨げになるのなら、マナがセイジに伝えたあの想いは、セイジに対する想いは、恋愛のそれではないのだと、嘘でも伝えておくべきかもしれない。
マナはひとつ、深呼吸した。
「セイジさん、笑わないで聞いてくれますか?」
心を落ち着かせて、マナはゆっくりとその言葉を口にした。
「ずっとずっと前に、とても好きだったひとがいたんです。優しくて穏やかで、空を飛ぶのが夢だと言って。そのひとも貴方と同じ、セイジという名前でした」
十七回目の生誕祭の朝、唐突に蘇ったあの記憶。
どうしようもなくマナの胸を焦がし、セイラムとの婚約を躊躇わせたあの想いは、セイジと出会ったことで、いつの間にかかたちを変えていた。
遠い過去の記憶に囚われかけていたマナの想いを、セイジが解放してくれた。
そしてまた、今度はセイジへのその想いを、マナは断ち切らなければならない。
「あの日、貴方に出会って。顔も声も、性格だって違うのに、名前が同じというだけで錯覚してしまったの。大好きで憧れだったあのひとと、もう一度巡り会えたんだって。だから、昨日の告白は貴方に向けたものではなくて……」
長い長い言い訳を口にしたその声は、震えてはいなかっただろうか。
顔を上げると、真剣な眼でマナをみつめるセイジがいた。
わずかな沈黙のあと、ふたたびうつむこうとするマナに、セイジは穏やかな口調で告げた。
「……また、困ったことがあれば、いつでもお申し付けください」
躊躇いがちに告げられたその言葉に、マナは大きくうなずいた。
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