07_ガーネット報記の老練麗人

 赤い丸屋根の下、小さなドアの上に掲げられた真鍮製のプレートには『ガーネット報記』の文字が彫られている。年季が入って少し黒っぽくなった、同じく真鍮の取っ手に指が触れて……一度止まった。さて、ロザさんが定位置にいるならドアを開けてすぐに私に視線が刺さるはず。その必要もないのに少し緊張してしまう。

 ドアに付いた小さなベルが揺れて、今日は『ただいま』と言ってくれた。


「あれ、ヨミズ? 早かっ……いや」


「戻りました」


「お帰りナギサ。足音がちょっと違うもんな」


 良く通る声と鋭い瞳(本人曰く眠いだけ)。顔を上げて出迎えてくれたのはロザさんだ。ロザ・ガーネット。その名の通りこのガーネット報記を取り仕切るベテランの記述士にして私の師匠。銀色にも見える長い髪、凛と整った顔立ち。昔からとても美人だったらしいけれど、今でも褪せない魅力がある(と同性の私から見ても感じる)。印刷用の機器、ペンとインク瓶の群れ、タイプライター数台、棚から溢れた本たち、花瓶に入った赤い花と古い木のテーブルと、ともかく物が詰まった一階の空間。記述士としての仕事を受け付ける場所、記事を生み出す場所。見慣れた仕事場に戻ってきた。


「何か書けたような顔だ」


 ロザさんがまるで私の体験した“一騒動”を見ていたかのように、けれど少し嬉しそうに笑って言う。


「はい、えっと……あ、でも先にお使いの」


「いいから鮮度が落ちないうちにそっちを見せて」


「はい……!」


 やっぱり全部お見通しだ。


 私は二つの下書きを作った。まずはガステイルさんの気球が生んだ物語。これには“報告”に偏った色味、つまり記述士が本来書く文章の枠組みから出ないように、しかし可能な限り“人間味”を持たせて書いた。その難しい線の上に立つために通りすがりの『私』として私自身の視点を使ってしまった。後から広場にやって来た記述士たちには書けない、私にしか書けない記事になったけれど、禁じ手を部分的に持ち出したような感覚がある。それから、もう一つの記事はウノさんのお店が作る素敵な時間を描いたものだ。多者編纂の記事にありそうな小さい枠に許されるような和やかさを想定して、何人かのお客さんから聞けた“ウノカフェ愛”を盛り込んだりもして。

 報じること、知らせること、知ってもらうこと。二つの記事の後ろに隠れた私が願うことは少し違う方向性だった。


……「メモ紙とペンは持ってる? もうちょっと走れる?」


 「アンタの名前だよ。教えてよ」


 「じゃあ僕のことよりウノさんのお店の方を記事にして欲しいな。紅茶もお菓子も美味しかったでしょ」


 「僕の自慢のコレクションのことは? え? そっか……」


 「それならガステイルさんの技術力に一票!」


 「ウノのお店の宣伝で良いんじゃない?」


 「コルくんとナギサちゃんとガステイルさんの大活躍……!」……


 靴を脱いで手荷物を置いて、ロザさんに私の文章を読んでもらうため二階へと上がる。金属の骨組みに焦げ茶色の木が埋め込んである階段は聞き慣れた優しい音と感触を返してくれる。その間に自分で書いた文字たちを頭の中で読み返していると、貰った言葉、記事には書いていない言葉がその人の表情と声で次々に浮かんできた。


――ナギサちゃんが面白いと思ったもの、美しいと思ったものをそのまま書いていれば、読んで何かを感じ取ってくれる人はいると思うよ


 机とタイプライターと手書き用の最低限の筆記用具しかない部屋。窓に向けて部屋の真ん中に置かれた小さな机と椅子を脇に寄せて、ロザさんは先に私の方に向き直って座った。背筋を伸ばして正座をしている。“ちゃんとするべき時”だ。軽く一礼をして私もロザさん同じ姿勢で座ると、鞄の中から刷ったばかりの数枚の紙を取り出して師匠に手渡す。

 私の大好きな、長いようで短い特別な時間が訪れる。



「ふむ……」


 その一言の後には集中の沈黙。この瞬間だけは何度経験しても緊張してしまう。文字を追うロザさんの瞳、息遣い、僅かな表情の変化。見聞きした世界を、伝えたい感情を私はどれだけ表現できていて、そこにどれだけ相手を引き込めるか。相手は歴戦の記述士だ。気付けば握り締めて突っ張った両手両腕が前につんのめりそうになっている私の身体をどうにか支えている、そっと垂直に姿勢を戻したけれど、長く持ちそうもない……。



 読み終わった……らしい。目を閉じてから短い時間を経て、ロザさんは目を開けた。


「どう……でしょうか」


「うん。ナギサらしい。何に心が動かされたのか、美味しかったのか、綺麗だったのか、かっこよかったのか。私からすれば記述士のあなたが透明であろうとする努力が見えるところはまあ可愛らしいんだけど、素直で好感の持てる文章だよ。他の作法も特に問題ない」


「……ありがとうございます!」


 ロザさんの笑顔に肩の力が抜けた。自分の呼吸かもしれない、でも本当に力が抜ける音がしたような気がする……。


「その町で出てる記事になら載せられると思う。ウノさんって人のお店を宣伝したいならバランスだけ少し整えるから、後で相談して。……いいものを見て、いい人たちに出会ったみたいじゃないか」


「……はい! えっと、最初は私そのウノさんのお店で……」


 結局、記事に書けなかったことを含めた“一騒動の全て”をロザさんに聴いてもらった。「そんな度胸のあることができたの!」と驚かれてしまったけれど、……やっぱり自分でもそう思う。



* * * *



「それでさ、ナギサも博覧会に行かない?」


(んむっ)


「あら、大丈夫か?」


「……ケホッ」


 特別な時間を終えて一階でロザさんと紅茶を飲んでいたら、ロザさんの口からとんでもない言葉が出た。博覧会。あの大博覧会?


「拭くもの持ってこようか」


「大丈夫です……。でも、博覧会はヨミズさんが」


「ヨミズはヨミズで行かせるんだけどさ、別行動できる猫の手がもう一つ欲しくて。ナギサは“お使い”付き。……あ、またお使いになっちゃうね」


 そっか、ロザさんは“も”って言っていた。とにかくともかく、


「やります! 行きます……!」


 よく分からないけれど私なんかがあの大博覧会に、


「まあよく聞きなさい。このお使いが“ちょっと厄介”かもしれないよ」


 ロザさんが細く整った眉を僅かに顰める。わざとらしく声のトーンも落とす。


「“ある物”を“ある人”に届けてもらいたい。ただしナギサがそれを持っていることを誰かに知られないことが望ましいし、ナギサ自身も何を運んでいるのか知らないまま運ばなければならない」


「ある物……」


「……どう? できそう?」


 赤い縁取り模様の白いカップがそっと持ち上がって上品な大人の口元に触れる。何やら重要そうな役割だ。困ったことに私は演技にまるで自信が無い。


「……ごめん、少し冗談が混ざった」


 ロザさんが深刻そうな顔をやめて笑い出した。


「運ぶのは数枚の書面だよ。中身も見ていい。誰かに取られちゃまずいのは本当だけど、もし取られたりしても一大事になるわけじゃないさ。ヨミズにも任せられると思ったがナギサなら余計に“運んでそうに見えない”と思ってね。ちゃんと作戦と道具も揃えてある。おいで。」


 奥の部屋へ行くと小さな革製の書類鞄が私たちを待っていた。背筋を伸ばしたように堂々と床に立っていて、形が整っていて小さいけれど頑丈そうで、なんというか……とっても偉そうだ。


「鞄を見ながら面白い顔をするなあ。年季が入っているだろ。ナギサよりも年上だよ」


 ロザさんはしゃがんで鞄に付いた精巧な作りの金具に触った。もしやロザさんよりも……? この立派な佇まいの先輩が守っているものがきっと“ある物”だ。では、“ある人”とは?


「そっちも聞きたいよな。どうしようかなぁ。……ナギサ、演技は上手?」


「下手です」


「即答か、これは自信がありそうだ。じゃあ、」


 こっちは知らないほうが上手く行くような気がするらしい。私が相手を知らなくても落ち合えるようにはできるそうだ。私は大博覧会への期待に否応なく胸を膨らませながら、ロザさんと“お使い用の作戦”を確認し始めた。

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