詞(ことば)
月波結
詞(ことば)
白い服 白い靴(松任谷由実)
その日は朝から雨で、せっかく出かけてきたのに靴の中に水が入って気持ちが悪いし、セットした髪の毛はもちろんぺったりとしてしまった。
傘が、さっきまでの雨の余韻を残して、ホームの中で水たまりを作る。イヤだなぁと思う。他人の服を濡らしたら困るし、誰かが床を滑っても困る。イライラして入り口隣の席に座っていると、目の前に男性が立った。
何の気なしに、上を見る。
相手も下を見る。
「岸波くん……」
「あ、久しぶりだな。この路線、使うんだ」
「うん」
会話は弾まない。
それもそうだ、3年前、すったもんだ揉めて別れた仲だもの、早々、大人な対応はできない。……でも、3年になるのか。時が経つのは早いなぁ。
「瀬尾は働いてるの?」
「うん、そうなの。雨だからいつもより早い電車に乗ったの。あ……次で乗り換え」
「瀬尾! 次の駅改札前。土曜日、11時どう? メシ奢るから」
立ち上がって既にドアの目前にいるわたしに大きな声で呼びかけてきた。
わたしは、曖昧な笑顔で答えた。
♢
行くべきか。行かざるべきか。
私の中の「わたし」は、彼の魅力を思い出して、涙が出そうなほど再会に溺れていた。
他方の「わたし」は、理由はなんであれ別れたのだから、会うべきではないと四角四面な言葉を発した。
……四角四面。そこには、一切の感情はない。わたしの気持ちは……怖いもの見たさでもあり、会ってみたい、に傾いた。
名刺をもらったのでFacebookで彼を探すと簡単に見つかった。登録しておく。便利な時代だ。
会うのは土曜日。今日はもう木曜日。
ちょっと会ったところで何かが劇的に変わることはないだろう。もう大人だから、それくらいの現実は見えている。
でも、これが村上春樹の小説的展開なら、わたしは自分を彼に晒すのだろうか? 既に晒した過去と、今の自分を晒すのは訳が違う。
……誘われたり、復縁を求められたり? 求められたり……。
いろいろ想像して、「わたしはバカだな」と、思う。
自分の馬鹿げた想像に、振り回される自分が滑稽。ただ会うだけ。それだけのつもりで約束したのに。それ以上を求めてはいけない。
彼はもう、私の手を引いて走ってくれたりはしないだろう。
――3年の月日は、わたしたちを大人に変えるのに十分だった。
何を着ていけばいいかな? 今更、キドる仲でもない。でも……老けたとか思われたくない。それは未練でもなく、女のプライドだ。
口紅を見る。なんかみんなピンクベージュばかり。派手すぎるのも困るけど……女らしさが足りない気がする。
買うなら明日しかない。
でもそれをしてどうするの? わたしは何を期待してるの?
♢
通りかかったショーウィンドウをチラ見してしまう。夏物が出てきたショップには、華やかな、鮮やかな服が並んでいた。
無視出来なくて店内に足を運ぶ。……上半身にレースを叩きつけた白いワンピース。そう言えば、若い頃は夏になると1着、ワンピースを買うことにしてたっけ。
「すみません……」
試着室に入る。似合うかな? それより、若すぎないかしら?肩が見えると恥ずかしいから、カーディガンを羽織れば……。
「お客さま、いかがですかー?」
店員さんが何着か腕に下げて現れる。色違い、上着も何着か……。
「清楚で爽やかな感じで、とてもお似合いです。色違いお持ちしたんですが、それではお色違いはいりませんね」
「何か羽織るもの、ありますか?」
「カーディガンのUVカットのものが。あとですね、カジュアルにするならパーカーも面白いと思います。もちろん、この服自体はジャケットに合わせてもいいですし、ストールでも結婚式の二次会や大きな同窓会、行けますね」
なるほど。パーカーは面白いかもしれない。
学生の時はパーカーばかりだったし。
薄手の白い、スエット素材ではない化繊のするっとした手触りのパーカーを買った。フードに入っているコードの先端が金色の金具になっている。揺れるとそれは印象的だった。
家に帰ってもう一度入念にチェックする。
……靴。たぶんある。アイボリーに紺のリボンがついたもの。
さぁ、寝よう。
♢
目が覚めると、すごい雨だった。
気持ちが高ぶって、天気にまで気が回らなかったから。神様がわたしたちを試すように、バケツをひっくり返したかのような強い雨脚。
スマホを手に取る。メッセンジャーで送る。
「雨すごいから行けないかも」
オンラインの通知がついて、返事が来る。
「どうしても無理?」
「どんな格好でも笑わないなら」
「笑わない。
「そう、じゃあ行ってもいいよ」
つき合っていた頃はそんな言い方、したことなかった。いつでも会いたかったから、もったいつけたりする必要もなく。
「出かけるの?」
「うん、遅くならないと思うから」
「雨ひどいから気をつけてね」
傘をさす。
やはり傘なんかで防げるものではない。足元は長靴。いくら高くてブランドものだからと言っても野暮ったい。カバンは撥水素材のリュックにした。チノにTシャツにスエットのパーカー。駅に行くまで我慢だ。
駅にさえ着いてしまえば、あとは岸波くんが来るまで雨に濡れる心配がない。……これは自分のためにやっていることで、彼のためではない。自分に言い聞かせて……。
♢
「瀬尾?」
「岸波より早く着くなんて珍しいでしょう?」
「うん。それより、お前、どうやってここまで」
「屋根のあるところしか歩かないわよ」
わたしは昨日買ったワンピースとパーカー、ストッキングにブランド物のブーツ調長靴、髪は携帯式のヘアーアイロンで乾かし、化粧も直していた。長靴以外は昨日の予定通り。
「来てくれてありがとう」
にこり、と言葉じゃなくて微笑みを返した。
わたしたちは駅ナカでご飯の食べられるところに行って、雨に濡れずにランチした。自然食ビュッフェがあり、「昔はこんなのなかったね」と言ってふたりでそこを選んだ。
あの頃に戻ったようであり、初めてのデートのようでもあった。
胸は高鳴り、頬が赤らみ、会話も途切れなち……。
プレートと飲み物を持ってきて、席につく。
「お前、そんなに少食だった?」
「あなたこそ好き嫌い治らないじゃない」
言いながら、嫌いなオクラを投げて入れてやる。「やめろよ」と言いながら、ふたりとも笑顔になる。
彼は雑穀米のカレーを食べていた。そのとき、
「オレさ……」
「うん」
彼の言いたいことがわからないはずがない。わかってて、こんな格好でここに来た。……もう会わないなら、最後にキレイなわたしを記憶に残して欲しくて。
「秋に結婚する」
息を小さく吸う。
「おめでとう」
言えた。ちゃんと言えた。
岸波が誰かの物になるのは嫌だったけど、祝福できない自分が好きにはなれなかった。
「風美は?」
「もう、去年」
「そっか……なんて言って出てきたの?」
「友だちとって」
あとは微笑でごまかす。
「……あのときは、意固地になって悪かったよ」
「お互い様よ、こっちもごめん」
彼は木製のスプーンを置いて、こっちを真っ直ぐに見た。
「あのときはわからなかったんだ。お前がそばにいなくなるってことがどういうことか」
わたしは微笑みを崩さず、小さく頷いた。
「ほんとうに、後悔したんだよ」
「バカ。結婚するんでしょう? それがもし、言い残してたことだとしても、今は言っちゃダメ」
「……そうだな。お前に謝りたくてさ」
涙腺は、思わぬところで緩くなる。生きているからこそ、涙はこぼれる。自然現象はしかたない。
「泣くなよ」
「だって……」
あの頃のふたりにはもう、戻れない。例え、また再会にしたとしても。
思い出は巻き戻っても、新しいエピソードは増えない。この人との未来は無くなったのだ。
「風美、泣くなよ」
「すごく好きで苦しかったの、どうしようもないくらい」
ハンカチを借りる。今だけ、今だけはまだ気持ちが言える。
「好きだった……」
「オレもだよ」
テーブルの向こうから差し出された手の温もりは変わらず、よく知ったものだった。
「これからもずっと、好きだと思う。例え、あなたの奥さんや夫がいても」
プライドで微笑む。
「オレもお前を忘れられないと思うよ」
ご飯が終わって本当に奢ってもらった。
「ご馳走様」
「いいんだよ、オレから今日、強引に誘ったんだ」
「かもね」
「ところでさ」
「うん?」
彼の顔に戸惑いが表れた。
「その格好でよく来られたね」
「ああ、持ってきて着替えたのよ」
と後ろのリュックを指さした。
「これ、昨日買ったの、今日のため。あなたの記憶に残る最後のわたしが、みすぼらしかったら嫌じゃない」
すっきりと言えた。ああ、これで本当にお別れだ。わたしの乗る列車まで送ってくれる。ここで映画ならキスしたりするのかもしれないけど、わたしたちはもう大人で、手さえ繋がなかった精一杯だった。
「じゃあ」
「元気でね」
列車の中から小さく手を振る。何処まで涙がこぼれないままで行けるのか。自分の駅でまた濡れた服に着替えたら、もう泣くこともないだろう。
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この物語は、松任谷由実さんの「白い服 白い靴」から着想を得ました。
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