第2話

 僕、今川恭二いまがわきょうじがヴァースに足を踏み入れるまでにはかなりの時間を要した。

 今から一ヶ月ほど前の朝、僕は今までの人生の中で――とはいっても、まだ十年と七ヶ月しか生きてはいないが――最低の朝を迎えていた。

 もぞもぞとベッドから起き出し部屋のカーテンを開けると、太陽の光が降り注いだ。よく晴れたいい天気だったが、僕の心は今にも雨が降り出さんばかりに曇っていた。

 とうとう、この日がやってきてしまった。できることなら、ずっと今日がやってこなければいいとさえ思っていた。しかし、時間は無情むじょうにも止まってくれなかったようだ。絶望とはこういうことなんだ。僕は太陽の光を浴びながら、そう思った。

 不意に部屋のドアが開いた。振り返った僕を見て、母が声を掛けてくる。

「なんだ、起きてたんじゃないの。何、その死にそうな顔は。どこか調子でも悪いの?」

 それに無言で首を振ると、

「じゃ、早く学校へ行く仕度をしなさい。遅刻するわよ」

 とだけ言って、一階のリビングへ降りて行った。

 僕はのろのろと着替えをし、ランドセルをつかんだ。その時、壁に掛かっているカレンダーが目に入った。今日の日付には赤丸がしてある。今日は欲しかったゲームソフトの発売日なのだ。

 僕はため息を吐きながら自分の部屋を出て、一階へと降りた。玄関では父が家を出るところだった。

「おっ!キョウ、やっと起きてきたのか?父さん、仕事行ってくるからな」

「……いってらっしゃい」

 父の背中を見ながら、またため息を吐いた。僕が沈んでいる理由は簡単だ。今日発売のゲームソフト『ビースト・オブ・ザ・ゴッド』を買ってもらえないのだ。

 一週間ほど前から父に頼み込んでいるのだが、まったく聞き入れてもらえなかった。かといって、誕生日はしばらく先だ。とてもじゃないが、自分の誕生日まで待っていられない。そして、次の誕生日プレゼントを先に欲しい、テストで百点を取ったら等のベタなお願いも却下きゃっかされていた。

 昨日も必死に頼んだのだが、事態は好転することはなかった。そして、とうとう今日を迎えてしまったのだ。

 玄関のドアが閉まる音を聞いた瞬間、父に食い下がればよかったと後悔した。これで、今日手に入る可能性はほぼなくなった。学校への行き帰りに財布でも落ちていれば、話は別だが。

 リビングでは母が朝食を取っていた。僕も一緒に朝食を取る。

 テレビではニュースが流れていた。CMが流れ始め、僕は動きを止めた。ビースト・オブ・ザ・ゴッドのCMが流れている。

 僕は母の顔を盗み見た。母にゲームソフトを頼んでも「父さんに頼みなさい」と言われるのがオチだ。僕はあきらめて、学校へ向かった。目を皿のようにして、道端に財布でも落ちていないか探しながら。

 落ち込んでゆっくりしていたのと、財布を探しながら歩いていたせいだろう。教室へ入ると、すでに生徒の半数以上が来ているようだった。教室の中は夕方の商店街のようににぎやかで活気に溢れていた。みな友達と話をしており、席についているのは数人だ。

 自分の席へ着くと、一人の少年が話し掛けてきた。

「おっす!ビースト・オブ・ザ・ゴッド、なんとかなりそう?」

 僕はその問いかけに首を振った。

「全然だめだよ。約束してたのに、ごめんな」

「……そっか。まっ、気にするなよ。キョウが来るまで、レベル上げて待ってるからさ」

 と、少年は僕の肩をたたく。この少年は僕の親友、山崎隆弘やまざきたかひろだ。みんなに「タカ」と呼ばれている。僕はタカと一緒にビースト・オブ・ザ・ゴッドをやろうと約束していたのだ。タカは発売日の前日である、昨日のうちにビースト・オブ・ザ・ゴッドを手に入れていた。常連と化しているゲーム店だから可能な芸当らしい。

 ビースト・オブ・ザ・ゴッドはオンラインゲームだ。友達とチームを組むことができるらしい。だからこそ、一緒に始めたかったのだが。僕のせいで、延期になってしまった。

 それからしばらくの間、事態は停滞したままだった。僕は毎日のように父や母に頼んでいたのだが、許可はもらえなかった。それどころか、だんだんと相手にされなくなってしまった。

 僕は自分がいかに子どもなのかを痛感した。自分が望むものさえ、自由に手に入らない。もっとしっかりと毎月の小遣いを貯金しておくべきだったのだ。過去の自分を恨んでみても、今はもう後の祭りだった。

 そうして、絶望の日々が一ヶ月ほど続いたある日。救いの神が家にやってきた。僕の家から車で一時間ほどの距離に住んでいる祖父は、たまにふらっと訪ねてくることがあった。 その日の予定――主に友達との遊びの予定だったが――が変更されることが多々あり、なんの連絡もなしにやってくる祖父をうとましく思うことがあった。

 しかし、この日は違っていた。祖父の来訪らいほうによって、事態が好転したのだ。祖父はビースト・オブ・ザ・ゴッドを買ってあまるぐらいの小遣いをくれた。僕はこの時ばかりは、祖父から後光ごこうが差しているように見えた。

 祖父が帰宅すると、僕はここぞとばかりに父と母にビースト・オブ・ザ・ゴッド購入の許可を頼み込んだ。父と母のふところが痛まないからか、それとも今まで頼んできた成果なのか、今回はすんなりと許可が下りた。

 早速その翌日、学校が終わるとすぐにゲーム店へと向かった。タカにも付き合ってもらい、念願のビースト・オブ・ザ・ゴッドを購入した。

 その場で開封しようとする僕を、タカが制止した。今まで散々待たせた分、一秒でも早く一緒にビースト・オブ・ザ・ゴッドの世界を冒険しようと思ったのだが。

 店の外へ出ると、夜のとばりが降り始めていた。少し肌寒く感じる。上空は深い青が広がっていて、地面に近付ちかづくにつれオレンジ色へと変化していた。

 自分の自転車にまたがりながら、タカが口を開いた。

「ゲームを始めてから、オンラインに入るまで三十分ぐらいかかるんだよ」

 自分の自転車へまたがろうとしている最中だった僕は、あやうく自転車ごと倒れるところだった。

「三十分?そんなにかかるの?」

「そうなんだよ。だから……」

とタカは辺りを見回した。道路を挟んで、店の向かいにある公園の時計を見つけると、少し考えてから言った。

「八時ごろに、オンラインに入ったところで待ってるよ」

「分かった。で、タカのキャラはどんなやつなのさ?」

「見ればすぐに分かるよ」

 と、タカは意味深な笑いを浮かべた。僕たちはその場で解散することになり、その意味深な笑いについて追求することはできなかった。

 僕は帰宅すると、夕食もそこそこに自分の部屋へやってきた。時間は午後七時過ぎ。今からビースト・オブ・ザ・ゴッドを始めれば、タカとの待ち合わせにはちょうどいい時間だろう。

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