日本は老いました
成神泰三
第1話 2024年
甲高いスマートフォンのサイレンが今日も鳴り響き、いつもと変わらない日常の幕開けを宣言する。新社会人だったころ、このサイレンを聞いて心底嫌になっていたが、社会人生活三年目となると、サイレンを聞かずとも勝手に目が覚め、何の感情も持たずに体を起き上がらせることができる。会社に出社することが日常になってしまえば、そんなことに一々なにか考えることに対して億劫になってしまう。要するに慣れだ。顔を洗ったり歯を磨いたりすることに疑問を持つものがいないように、仕事に行くことをうまく日常に溶け込ませれば、それでもう勝ちなのだ。
サイレンを停め、布団から這い出て壁にかけてあるスーツに手を伸ばして身にまとう。一度スーツを身にまとってしまえば、もう出社する以外の選択肢はなくなり、思考停止したままトースターにパンをセットして、コーヒーを沸かす。合間にテレビをつけて、すでに何も考えられない頭で朝のニュースの目を通す。この朝のニュースの視聴も、ただ日常に組み込まれているからしているだけで、特にこだわりがあるわけではない。そもそも、ここ最近のニュースは昨日も見たことあるような既視感あふれる内容ばかりだ。SNSやネット記事のほうが面白くて話題性に富んでいる。日常と化していなければ、ニュースなど全く目を通していないだろう。
「……さて、深刻化していく若者の貧困に対し、政府は若者の就労支援を実施することを検討する会議を本日開き、具体的な内容について話し合う予定です。次のニュースは……」
ああ、またこのニュースか。その会議前にもやっていなかったか? いや、よく覚えていないな。なんせ、似たようなニュースばっかりだったから、一つ一つ覚える気にもならない。そもそも、そんな問題を覚えて何になるというのか。私一人ですら、抱えきれない問題ばかりが発生する現代社会において、そんな国家単位の問題をなげられかけられても、解決策なんて思いつくわけがない。このテレビに映っているニュースキャスターだって本気で問題視していないだろうし、ましてや毎日似たような会議を開いても、社会問題の一つも解決させることのできない国会議員なんて、せいぜい明日の料亭のメニューくらいしか頭にないだろう。そう、結局誰も解決策を提案しないどころか、問題を問題として認識してはいないのだ。しかしそれも仕方ない。皆自分のことで精いっぱいで、周りのことなど考えている余裕など有りはしない。ここが古代ローマやら古代ギリシャであれば話は違うだろうが、ここは嘆きと悲しみが支配する滅びの国日本だ。そんなラテン的思想を持ち合わせた人間など一人もいない。この俺を含めて。
チーン。間抜けな音が聞こえたら、トーストが焼けたサインだ。たっぷりとマーガリンを塗りたくってがぶりと一口。うまい。この全身に巡っていくトランス脂肪酸の何たる旨いことか。人の体というのは不思議なもので、体にいいものほどまずく、体に悪いものほどうまく感じるようにできている。その理由を解明した学者がいるかはわからないが、俺が考えるに、人は無意識のうちに早期の死を望んでいる節があるのではないだろうか。体に悪くてうまいものを豚のようにむさぼるデブほど、この世からの離脱を望んでおり、自制心を働かせてまずくても野菜を食べて健康を保つ者ほど、この日本でも成功していることが多く、この世から離れる気はさらさらない。例外もいるだろうが、ほとんどこの仮説に当てはまる事例はあるのではなかろうか。
「……続きまして、増加する過労死問題に対して、沖田議員の根性が足りないから死ぬんだという発言に、野党から非難と謝罪を求める声が上がっており……」
おお、丁度例外が流れてきたではないか。これは間違いなく例外だ。過労死という緩い表現をするから、軽く見られるんだ。過労死ではなく、殺人と明記するべきではないだろうか。誰がどう見たって、過労死するような環境を作り出した企業側の責任であることは言うまでもなく、いわば容疑者企業による密室殺人。しかもトリックはバレバレという間抜けぶり。本にしても売れないだろう。
トーストの最後の一口を口に放り込み、コーヒーで口の中を洗い流して、シンクに置いておく。うん、いつも通りの何も変わり映えのない、最悪の朝だ。いや、もっと最悪の朝を迎えている人もいるだろう。そんなこと言ってはいけないか。
仕事用のカバンの中身を確認すれば、後は玄関のカギを締めて、最寄り駅まで歩いて電車に乗るだけ。この一連の動作の最中、俺が考えていたことと言えば、今朝ひねり出したうんこの形くらいだ。一応生きていく上で、不自由などしていない。しかし、なぜこんなにも言葉に出来ないモヤモヤが溜まっていくのだろうか。一体何に不満を感じている? これだけ娯楽に溢れた現代に、俺は何を求めているんだ? そんなことを考え出しても、答えが出るわけでもなく、ネットで検索しても、それらしい項目が出てくるわけでもない。もしかしたら自分を見失っているのかもしれないが、自分を見失うことは、社会人としての必須条件でもある。今日もまた、元気に道化を演じようではないか。
電車が会社の近くで止まり、流れをつまらせないように降りて駅をあとにする。そのまま流されるように歩き続ければ、あらびっくり、会社に到着だ。社員用入口に社員証を当てればドアが開き、エレベーターに乗り込んで4階を目指し、気付くと目の前に自分のデスクがある。正直、ここまでの記憶も全くない。嘘偽りなく、目の前に自分のデスクが現れたと言っても過言じゃない。そしてその事になんの疑問も持たない。これが日常に溶け込ませるということだ。
「日高くん、少しいいかね」
デスクに腰掛けて一分もしないうちに声がかかり、振り返ってみれば、年の割には肌に張りがあることに定評がある元優男の高梨部長だ。この部長と会話して、いい気分で終わったことがない。
「はい、なんですか?」
「昨日さ、今日私の仕事が忙しいから、1人手伝いに寄越してくれって言ったよね?」
「はい、ですので根津がそちらの手伝いに向かったかと」
「いや、なんで君が来ないわけ?」
いきなり意味がわからない。ちょっと待ってほしい。なんでそうなるんだ? 部長自身、今の会話から結論に達するまでに、どこか疑問に思わなかったのか? だめだ、全然理解ができない。
「いえ、昨日1人手伝いに回してほしいと言われたので、根津に余裕があるようですから根津に頼んだのですが」
「いやいや、だって君返事したじゃない。わかりましたって」
「確かに返事しましたが、それは一人よこしてほしいという旨に答えたのであって」
「もういいよ。私だって忙しんだ」
それはこっちのセリフだ。この会社にいる人間皆忙しいに決まっている。根津にしたって、俺が抱えている案件の期限と比べて、比較的余裕があるから根津に頼んだまでであって、根津からしても、決して暇なわけじゃないか。ああ、やっぱり部長と会話すると気分が悪くなる。根津にも悪いことをしたなあ。
「はい、次の会議に必要な資料をまとめといて。君みたいな使えない人間に、仕事を任せるような奴、私くらいのものだよ。普通なら追い出し部屋行きだぞ?」
ぼすんと音を立てて、資料とは名ばかりの無造作にまとめられた書類の束をデスクに置かれ、私のこめかみがプツンと音を立てた気がした。追い出し部屋? 毎年お前が原因で新入社員が辞めていくっていうのに、どこに追い出すっていうんだ。むしろ一度その追い出し部屋を覗いてみたいぐらいだ。
ふつふつと怒りを湧きあがらせる俺をよそに、颯爽と部長は去っていく。歳を取ると皆ああなってしまうのだろうか。息を吐くように嫌みを吐き、我々若い社員から邪見にされてしまうような存在に、俺もなってしまうんだろうか。ああ嫌だ嫌だ、歳などとりたくはないものだ。
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