第185話 動物園でのひと時
深々と被った黒のニット帽に、顔の半分が隠れそうなほど大きなサングラス。
そして黒い髪に肌寒い冬の冷気を遮断するコートをしっかりと羽織ったティーンの女子と、古着屋で買ってきた安物のジャンパーを着た男子が並んで歩いている。
二人とも特別人目を気にしている様子はないが、二人組の男子の方は途轍もない集中力と洞察力で360度全ての方向に注意を配っている。そして女子の方はというと、実際人目を全く気にしてはいないのだが、元々備わっている野生の勘で、仮に悪意ある視線があろうものなら、0.5秒以内に居場所を特定して発信源を絞め殺すくらいは造作もなく可能な戦闘力を隠し持っている。
そんな異彩を放つカップルが向かっているのは、家族連れも多く訪れて賑わっている動物園だった。
「動物園に来るの初めて! アニイ楽しみ!」
チケットを買い、ゲートをくぐるのはアニイ。そしてその後に続くのは直人だ。
彼らは久しぶりのデートの時間を過ごすためにここを訪れていた。なおフォールナイトを脱出する際は地下に存在する下水管に続くマンホールから外に出る裏技を使ったため、監視に見つかることなくここに来ることができた。
そして中に入る二人。
すると早速ゾウやライオンなどのメジャーな動物たちの姿が目に入った。
「見て見て直人! あそこにゾウがいる!」
早くも大はしゃぎのアニイ。つられるようにして直人もそちらの方を向く。
飼育員の解説を聞きながら、ゾウが筆を持って文字を書いているのを見るアニイと直人。「器用だね」と幾度となくアニイは感嘆の声をあげている。
続いて二人が見に向かったのは、この動物園の中でも特に人気のあるパンダだ。
可愛らしく笹を手に持って頬張っているパンダを見ているアニイはパンダそのものを初めて見たらしく、「何で目の周りだけ黒いの?」と直人に尋ねたが、直人も知らなかったので「あそこの飼育員が墨で塗った」と適当に答えた。
そして次に向かったのは、チンパンジーのいるケージ。
しかし今日のチンパンジーは虫の居所があまり良くないようだ。柵を叩いたりして周囲の人間たちを激しく威嚇している。
だが、アニイが近くに歩み寄ると突然様子が豹変した。
跳ねるように柵から後ろに離れると、隅に向かってそこで縮こまってしまった。
「おいでー」とチンパンジーに手招きするアニイだが、寧ろ逆効果で飼育員に助けを求めるようにキーキー鳴き始めてしまう。
アニイはそれにご不満の様子で、「何で来てくれないのー!」と言っているが、横でそれを眺めている直人は内心「アニイを怖がってるんだろうな⋯」と思っていた。
今こそ魔力を封印されているため動物たちはアニイに警戒心をあまり抱かないが、一部の野生の勘が鋭く働く動物たちは、今の時点でもアニイのことを相当強く警戒していることを直人は知っていた。
その証拠に、アニイが近くを通りかかったカピバラのブースでは、ずっと温泉の中でまったりしていたカピバラたちが一斉に逃げるように陸に上がり始め、ライオンのブースでは、アニイを見るや逃げ惑う百獣の王らしからぬ光景が続いていたのだから。
しかし直人は動物園を満喫しているアニイにその事実を言えなかった。
その後は猿山を見たりカワウソを見たりと、様々な場所を順に巡っていく二人。そしてゆっくりと時間を過ごしていく中で気付けば閉園時間も近づいてくる中、ここでふとアニイはある動物を見ると指差した。
「ねえねえ直人。あそこ、見てみたい」
そこは、ペンギンのいるコーナーだった。
特設で用意されたプールの中で数匹のペンギンたちがスイスイと泳いでいる。
二人はペンギンのいるプールに向かって近づいていく。
と、ここで直人にも予想外のことが起きた。
今までアニイを避けることの多かったはずの動物たちだったが、ペンギンたちはアニイの姿を見るとまるで彼女に引き寄せられるかのようにこちらにやって来たのだ。
丁度餌の時間で大好物の魚を飼育員が用意しているにも関わらず、それに一瞥すらすることなくアニイを見ているペンギンたち。
「もしかして⋯⋯」
ここで直人が何かに気付いてアニイに口を開く。
するとアニイは小さく頷いた。
「アニイの前の姿はペンギンだったから、あの子たちは怯えてないんだよ」
アニイが生まれたのは凍てつく南の果ての大地、南極大陸だ。
ペンギンの形をした企鵝型DBとして誕生したアニイは、同じ大陸のダンジョンを次々と吸収して強さを増していき、そしてS級に到達した。
かつては同じ動物の形を模した縁あってだろうか、アニイに対してペンギンたちはまるで仲間に手を振るかのように羽をパタパタさせている。
「あの子たちは怯えてないって⋯⋯」
しかし、直人はアニイのその言葉に何かを感じ取った。
ここまで天真爛漫に動物園でのひと時を楽しんでいると直人はアニイに対して思っていた。だがしかし、彼女のその言葉は彼女の内に隠していた心理を表している。
「みんな、アニイのこと怖がってたよね」
悲し気にそう呟くアニイ。
彼女は、自分が動物たちに避けられていたことに気付いていたのだ。
「アニイ分かってるもん。動物は敏感だから、アニイを見るだけで皆逃げ出しちゃう。でも魔力さえ封じていれば、人間はアニイのことを受け入れてくれる⋯⋯」
それは、彼女が動物たちにも強い恐怖を与えていることを自覚しているが故の発言だったのだろう。そう語るアニイは、サングラスの奥にある金の瞳でペンギンたちを旧友と出会ったかのように穏やかな視線で見つめている。
直人とアニイはそこで暫く時間を潰すことにした。
やがてペンギンたちもアニイから注意を逸らし始め、各々自由にプールを泳ぎ始める。それをアニイは笑顔で見つめていた。
そして一体どれ程時間が経っただろうか。
気付けば日の角度も徐々に傾き、影も長く変わっている。
「人、いなくなっちゃったね」
閉園の時間が近づき、ペンギンのブースが動物園の奥に位置していることも影響してか、人気が殆ど見られなくなっていた。
「ねえ直人。一つ、アニイに教えて欲しいことがあるの」
すると、アニイは直人にそう問いかけた。
対して直人は言葉を返さずに、続きのアニイの言葉を待つ。
「直人の本当の気持ち、教えて」
本当の気持ちを教える。それはアニイに対しての気持ちということだろうか。
しかし本当のことをもし言ってしまえば、それはアニイを傷つけてしまうかもしれない。中途半端な優しさで、そんなことを心で思う直人。
だが、アニイはなおも直人に問いかけた。
「隠さないでただ思うことを言って欲しいの。お願い」
それは、直人がアニイに思うことを彼女自身も分かっているからなのだろうか。
すると直人はほんの少しだけ間を開け、ゆっくりと言った。
「アニイは、異種族の壁を越えて分かり合える『友人』。きっと、この気持ちは俺がこの先何年経とうと、どんな立場になっても変わらないはずだ」
友人であって、恋人ではない。
恋人以上の関係になることはできないし、きっとそれを望み続ければ本来あるべき距離感が破綻して、いずれは二人の関係性にも歪みが生じる時が来るかもしれない。
それが直人の正直な本音だった。
「そっか⋯⋯きっとそうだと思った」
だが、アニイはそれを驚くほどに静かに受け止めた。
するとここで、鐘の鳴る音と共に閉園の時間が来たことが告げられる。
二人は無言で同時に動物園の出口に向かって歩き出す。しかし鈍感とはいえさすがにアニイが落ち込んでいるのを感じ取った直人は、彼女にフォローの言葉を掛けようと口を開こうとした。
しかし、それより先にアニイが話し始めた。
「アニイね、直人に会えなかったら今頃生きてなかったと思う」
「俺もそう思う」
「ふふっ、きっとそうだよね」
アニイの声は明るかった。それが果たして彼女が無理しているのか、それとも吹っ切れたのか、直人にはそれがまだ分からなかった。
「実はね、アニイはDBの声が分かるんだ」
「DBの声?」
「人間には分からないけど、DBにはテレパシーみたいにしてお互いの思っていることが分かるの。でも人間の姿にならないと人の言葉を離せないから、きっとDBの言葉を人の言葉に翻訳できるのはアニイだけ」
直人も、知識としてはそのことを知っていた。
ただDBであるアニイ本人の口からそれを聞いたのは初めてだった。
「直人、覚えてる? パンドラを倒した時のこと」
「一生忘れないだろうな」
するとアニイは地面に転がる小石をコツンと蹴りながら話を続ける。
「アニイが異能を使った時ね、パンドラの声が月まで聞こえてたの。アイツ、アニイのことを『裏切り者』って言ってた」
「裏切り者⋯⋯か」
「そうだよね。パンドラにとってアニイは敵であるはずの人間に味方しているんだから、裏切り者だよね⋯⋯」
その言葉に何処か暗いニュアンスを感じた直人。
足を止め、直人はアニイに問う。
「アニイは、あの時パンドラを倒したことを後悔しているのか?」
するとアニイは小さく首を横に振る。
「後悔してないよ。アニイは人間が好きだし、人間と戦いたくない気持ちは変わらないから。だから同じDBでも、直人の敵になるんだったら倒す」
しかしここで、直人は何かに気が付いた。
アニイは今、『直人の敵になるんだったら倒す』と言った。
つまり彼女は『人間のために倒す』とは一切言っていないのである。
それが何を意味しているのか、直人はうっすらと見えてきたような気がした。
そして同時に思う。これ以上聞けば危険なゾーンに踏み込んでしまうと。
しかし、直人のそんな思考はここで急遽打ち止めとなった。
「キミ、これから用事とかある? 無いなら俺達と遊ぼうよ」
それはアニイと直人が動物園を出た直後だった。
2人の大学生くらいの男たちが、アニイに近づいてきたのだ。
彼らは直人には目もくれず、一直線にアニイをナンパし始める。
「これから私達、行くところがあるんです」
だがテンプレ文句を暗唱するように2人にそういうアニイ。
こういうシチュエーションのために備えていたのだろうか、するとアニイは直人の腕を抱えて身を寄せる。
まるで直人とアニイは恋人関係だとアピールするように。
「そういうことなんで、すみませんね」
それに乗っかる形で、直人もそう言いながらアニイを抱き寄せた。
腕の中で「キャッ♡」と乙女な恥じらいを見せているアニイの様子を見て、彼らも直人が彼女の彼氏だと認識したのだろう。
「何であんな奴が⋯⋯」とブツブツ言いながらも離れようと踵を返した。
が、ここで2人組の内の1人がふと口にした。
「あれ? あの子、パピイにスゲー似てない?」
ギクッ、と腕の中のアニイが身を震わせる。
その声は思いのほか大きかった。
少なくとも、近くにいる数人の人目を引きつけるくらいには。
ここでようやくアニイは、自分がサングラスを外していたことに気付く。
そして直人もまた迂闊なことに、話に集中しすぎてそれを完全に失念していた。
いくら黒いウィッグを被っているとはいえ、その顔立ちはまさに今最も流行しているスーパーネットアイドル、パープルガールそのものである。
「間違いない! パピイだよ!」
「マジで!! どこどこ!?」
「ほらあそこだよ! しかも彼氏もいるって!!」
そんな声が突如として湧き上がるのと、直人がアニイを抱き抱えるのは同時だった。
周囲の数名には自分の顔を見られてしまったかもしれない。しかし何より優先すべきは、今この場から一刻も早く立ち去ることだと直人は判断する。
「逃げるぞアニイ。これ以上俺達を見られるのはマズい」
一方の抱きかかえられているアニイは、そんなのどうでもいいわとばかりに直人の腕の中で幸せそうにしている。最早今の幸せに比べれば、今の状況もさほど気にならないのだろう。
「行くぞ!」
直人は風すら追い抜くほどの高速で走りだした。
集まり始めた野次馬の間を瞬く間にすり抜け、建物の影に身を隠すようにしてビルの隙間をジグザクに壁キックしながら走り抜けていく。
そして直人は路地裏の一角に隠されているフォールナイトに続くマンホールの蓋を見つけると、そのまま二人共にその中へと飛び込んでいった。
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