第18話 魔法の世界 2

 目を開けると、見知らぬ天井が見えた。

 見たことのない木目に、これまた見たことのない配線のようなものが縦横無尽に這っている。よく見ると、その線は天井につけられた電球のような何かに密集している。もしかしたら、これは電気をつけるための設備なのだろうか。

 のそりと、身体を起こす。そこで、強烈な倦怠感とあり得ないほどの感覚の変化にうめき声が漏れる。身体がひどく思い。まるで、身体そのものが鉛の塊になったかのようだ。


「……はぁ、はぁ、はぁ」


 身体を起こす——たったこれだけの動作で、息が上がり心臓が早鐘のように鼓動する。頬を何かが伝う。汗かと思い額をぬぐうが、拭った袖には湿り気の一つもない。それなのに、水滴がどこからか生まれ頬を伝い、おとがいに集まってしたたり落ちる。


 ——涙……?


 ようやく、自分が泣いていることに気が付いた。

 理由はわからない。だが、なぜか大粒の涙が次々と生まれ零れ落ちる。経験したことのない生理現象に、少しばかり動揺する。どうすればいいか解らず、反射的に涙をぬぐい、その原因を探すため思考を飛ばす。

 そういえば何か、長い夢でも見ていた気がする。

 見ていたとしても、その夢はきれいさっぱり霧散しており、俺の記憶には残っていない。だが、なぜかとても大切な夢だったような気がする。忘れてはいけないような、忘れるはずがないと思ってしまうほど強烈なもの……だった気がする。涙を流す理由として考えられるのはそれしかない。

 ぐるりと、周りを見渡す。

 俺がいるのは、それなりに広めの部屋。家具と呼べるものはほとんどなく、あるのは俺が寝ているベッドと端に据え付けられた机、そしてベッドのすぐそばに置かれている椅子のみ。その椅子には毛布が丸められており、触ってみると少しだけ温かく感じた。もしかしたら、誰かがここにいたのだろうか。

 腕をもう一度見る、布団をめくって足も見てみる。知らない服を着ている以外、何の変化もない。拘束具もされていない。だとすれば、俺をここに連れてきた人物の目的は介抱なのだろうか。そもそも、俺はなぜここにいるのか。

 ここまでに至るまでの経緯を、頭の中で整理してみる。頭の中で、先ほどまでの出来事がフラッシュバックする。

 ジャイアント・オークと鉢合わせし、飯田が殺される。そのとき俺も重傷を負い意識を失った。どうやったのかは知らないが、なぜか気が付いたらオークの腹に大穴が開いていて、雨宮が叫んでいた——。


「……あっ、雨宮」


 そうだ、雨宮はどこにいるのだろうか。

 雨宮は、俺よりもよっぽど軽傷だったはずだ。だとしたら、俺が助かっているということは雨宮も助かっていると、ここにいると考えていいのだろうか。いや、もしかしたら俺が意識を失っている間に、想像以上の無茶をしているのではないだろうか。ひょっとすると、俺よりも重症だったりはしないだろうか。

 考えれば考えるほど、思考が最悪の結末に向かっていく。そんな馬鹿なと笑い飛ばしたかったが、それなりの付き合いで雨宮の性格は熟知している。あいつなら、やりかねない。この後何が起こるかなどは考えもせずに、いまこの状況を動かすために全力を注ぐ。前科はいくつもある、もしかしたら……と考えてしまう。

 いてもたってもいられず、ベッドから降り立ち上がる。不思議と先ほどまでの倦怠感は全く感じず、それどころか、身体が軽いとさえ感じてしまう。本当に、俺の身体はどうなってしまったのだろうか。

 靴が見つからなかったため、裸足で部屋を横断し扉の前で立ち止まる。鍵がかかっていれば、俺はここで足止めだ。それ以上のことはできない。

 ドアの握り玉に手をかけ、ゆっくりと右に回す。コツリという感覚が掌に伝わると、そのまま前に押し出す。


「開いた」


 鍵は、かかっていなかった。ドアはすんなりと開き、温かめの淡い光が部屋へと侵入する。外に出てみれば、そこには長い廊下と数々のドアが。部屋番号がドアに張りつけられており、それは俺のいた部屋も同様だ。だが、その文字は日本語ではなく、俺の知っている外国語でもなかった。それなのに、


 ——読める?


 なぜか、俺にはそのニュアンスがなんとなく解った。はっきりと理解しているわけではなく、強いて言うなら意訳している感覚だ。例えば、前の扉は目の前から右に向かって読んでいく。

『試薬調整室』『薬剤保管庫』『研究資料庫』『鉱石貯蔵庫』『魔粒子分配室』『魔粒子遮断室』『機材保管庫』——、

 そして、俺のいた部屋は……

『劇物保存室』


「………………」


 なんだか、無性にこの部屋から離れたくなった。


 ◆◇


 江戸時代の人間が東京都の真ん中に連れて来られたら、どんな反応をするのだろうか。

 自分の常識が、経験が、理解が追い付けない光の摩天楼に、どんな反応をするのだろう。

 驚きか、恐怖か、畏怖か、

 おそらく俺がその人ならば、こう思っただろう。


 美しい、と。


 外に出れば、視界いっぱいに草原が広がっていた。下ったところにはまた森があり、後ろを振り返ればそこにも森の入り口が大きく口を開けている。ここはどうやら、森と森の狭間にある高原に近い場所のようだ。月はまぶしいほどに光を投げつけ、あたり一面を昼のように染め上げる。銀の光がそこかしこを照らし、色という色に調和をもたらす。

 雪が降っていた。

 いや、よく見ると雪ではない。それらは自ら発光し、大気中を舞っている。形が崩れもしなければ、冷たくもない。銀に染まった世界に浮かぶ色とりどりの光源は、触るとホウセンカのようにはじけ飛び、小さな粒子を大気にまき散らし空へと昇っていく。

 幻想的だった。

 規格外の美しさに、それを表す語彙が存在しない。足が根を張ったように張り付き、動くことを拒絶する。立ち尽くす俺の周りを、光源たちはまるで蛍のように踊る。風に流され、夜に調和し、自我を見出したのかと錯覚するほど鮮やかに。


「——星雪というんだ」 

「星、雪?」

「そう。大気中のマナ濃度が高く、かつ微精霊がいて、そして彼らが活性化する満月の夜になると見られる。と言っても、そんな条件がそろうことなどまずないからな。君は運がいい」

「へぇー。…………ッ⁉」


 反射的にその場を飛び退く。会話が発生するはずのない状況で会話が成立したことに、ひどく動揺する。

 すぐ後ろに、長い黒髪を首の辺りで無造作に束ねた女性がいた。まるで、ずっと俺についてきていたと錯覚させるほど自然に、言葉を交わしてしまっていた。彼女がいたことにも、成立するはずのない場所で会話が成立していたことにも、今まで全く違和感を抱かなかった。抱けなかった。

 呆然とする俺を見て、まるでいたずらが成功した子供のように無邪気に笑う。


「これほどマナ濃度が高いなら、少々魔法を使ってもバレんからな。ズルをさせてもらった」


 そう言って、彼女は両手を胸の前まで持ち上げる。そのまま大きく両腕を広げ、拍手を打った——かの様に見えた。

 音が鳴らなかった。それなりの速度を持って、手は互いに衝突したはずだ。手の隙間から押し出された空気が、彼女の髪を、服を、確かに揺らしていた。その事実を、至近距離で確認していた。手が衝突したことは間違いない。だがしかし、音だけが鳴らなかった。


「魔法で音を消した。正確には、君の方へ向かう音を相殺した。どうだ、気づかないだろう?」


 確かに、その方法を歩行時に使えば、歩くときに生まれる音は俺の耳に入らない。音が消えてしまえば、景色に見とれた人間一人に気づかれないことなどたやすいだろう。現に、俺は全く気が付かなかった。

 こくりと、無言でうなずく。それを見て、満足そうに彼女は笑う。


「そうだ、名乗るのを忘れていた。ミレーナだ。一応、君たちを保護した責任者になる。よろしく、イツキ」


 ミレーナ、そう名乗った女性が右手を差し出す。とっさに、差し出された方の手を握り返す。こっちの世界にも、握手という概念があるのか。いや、それよりも。


「ミレーナさん。雨宮は……」


『君たち』と、いまミレーナは確かにそう言った。あの場所で、俺以外に近くにいたのは死体の飯田と雨宮しかいない。そして、俺の名前を知っているのは雨宮だ。ミレーナが知っているということは、雨宮もここに……。

 ふっと、ミレーナが微笑んだ。


「君の訊きたいことには、きちんと答える。とりあえずは中に入ろうか。話はそれからだ」

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