第14話 晴香の決意 1
目の前での出来事を認識するのに、少しばかりの時間を要した。
自身の身勝手で樹が大けがを負い、自分も殺されそうになっていた。突如樹が立ち上がり、手に持った刀が青く煌いた。そして、
気が付いたら、ジャイアントオークの身体には大穴が開いていた。
「————え?」
ひどくかすれた声が、口から洩れた。あまりのことに対応できず、体が置いてきぼりを食らう。
「神谷、くん?」
想い人の名を、この状況を作った張本人の名を呼ぶ。だがその声に返事はなく、突き技を発動した構えのまま、樹は硬直する。晴香の世界から音が消え、異様な沈黙があたりを支配する。チリチリと、刀身の周りに青い粒子が待っているだけだ。
ぐらり……。
不意に、樹の身体が傾く。あっと思った時にはすでに遅く、前のめりに地面へと倒れこむ。
「神谷くん⁉」
慌てて抱き起すも、樹は目を覚まさない。脱力した身体は想像以上に重く、上半身を持ち上げるのがやっとだ。だが——、
「熱っ⁉」
思わず、樹の身体を取り落としそうになる。晴香を襲ったのは、想像もしなかったほどの高熱。それも、常人が出すようなものとは一線を画すほどのものだった。優に四〇度は越しているだろう。さらに、傷口を見て驚愕する。
蒸気が出ていた。
一昔前の巨人漫画のように、晴香からは患部が見えなくなるほど蒸気が勢いよく吹出し、じゅうじゅうという焼けるような音を立てている。人間ができることではないその所業に、晴香は言葉を失う。
だが、それだけではなかった。腹部からの蒸気が少し治まると、そこには明らかに先ほどよりも縮小された傷口が。唖然としている今この間にも、筋肉が盛り上がり、血管が生まれ成長し、その上を皮膚が覆っていく。煙を上げる傷口がどんどんとふさがっていく。それに比例して、樹の身体が、少しずつ細くなっていた。
全く動くことができず、ただただ状況を見守ること数十秒……、
煙が消える。樹の身体からは、傷口がすっかり消えていた。
「……すぅ……すぅ……すぅ……」
耳を近づければ、少し浅いがしっかりとした呼吸音が聞こえる。これは、完治したと考えていいのだろうか。
「……………………」
意味が解らない、現実が呑み込めない、理解ができない。こんなことは人間ができることではない。いや、超速再生など、どんな生物であっても不可能だろう。一体、樹の身体で——、
——何が、起きてる、の?
唖然とし、そんなことを考えてしまう。もちろん、答えるものなどいない。
《……ォォォォォォオオオオ》
「⁉」
いや、いた。欲しかった答えではなく、恐怖の二文字を押し付けてくる怪物が一匹。
鼓膜を震わすうなり声に晴香が顔を上げれば、そこには動く物などなく、いるのは機能停止したオークがいるだけ。
……ピクリ。
そのオークの指が、致命傷の傷を負ったはずのオークの指が、かすかに動いた。それは見間違いなどではなく、
ピクリ、ピクリ……
何度も、何度も、痙攣とは違う動きを行う。その可動範囲は、数センチから数十センチへと、少しずつ広くなっていく。四肢の筋肉が動き出し、穴の開いた腹部はそれをふさごうと盛り上がる。だが、完全には塞げず血は止まらない。目は濁った光を取り戻し、開いた口からは血がしたたり落ちる。
《オオオオオオオオォォォォッ‼》
腹を貫かれてなお、致命傷を負ってもなお、晴香を、樹を握りつぶさんと右手が伸びる。逃げなきゃと、そう思ってはいるのだが、足が動くことを拒絶する。
——嫌、嫌、嫌!
拒絶はするも、身体が動かない。
——まだ、死にたくないっ‼
こんなところで死んでたまるか。こんな理不尽で死んでたまるか。まだまだやりたいこともあるのだ、お礼を言っていない人もいるのだ。それなのに、こんなところで死にたくない。
樹を抱き寄せ、ぎゅっと目をつぶる。だが、そんなことをしてもここから逃げられるわけではない。
オークの手が近づく。晴香と樹を握りつぶさんと迫る。
一メートル、〇・八メートル、〇・六メートル、〇・四メートル————、
「それは感心しないな」
少年の声が響いた。
刹那、
衝撃が、晴香たちを襲った。続いて耳に届いたのは、メキメキと何かがきしみを上げる音。そのコンマ数秒後、オークの悲鳴じみた叫びが耳をつんざく。
目を開ければそこには、騎士がいた。
歳は晴香たちと同じくらいか、それより少し年上。純白のマントと鎧を身に着け、腰にはバランスを崩すほどの大剣が取り付けられている。短く切られた金髪の髪をなびかせ、少年は体勢そのままこちらを振り向く。
「やあ、無事だろうか」
「………………」
声が出ない、言葉が出ない、またもや現実から置き去りを食らう。
「もう大丈夫だ。我々騎士団が、君たちを守る」
晴香を見て問題なしと判断したのか、少年は苦笑しオークへと向き直る。
少年の顔を確認するや否や、オークは激情の声をとどろかせた。鼓膜が破れるほどの声量に、思わず耳をふさぐ。
「無駄だよ。そんな力じゃ、僕は倒せない」
ギリリと、力の均衡が崩れる。少年の手がオークの手に食い込み、出てはいけない音を響かせる。
「君を相手に、剣を抜く必要はない」
バキンッ!
オークの手首から、何かがへし折れた音がした。
《————————ッ⁉》
声にならない悲鳴が、大気を震わす。拳を押さえ、オークは数歩後ろに下がる。
「ありがとう、後ろに下がってくれて。これで僕も——」
「——加減なしで戦える」
少年が消えた。
いや、消えたのではない。そう錯覚してしまうほどの、目では追えない速度で前に踏み込んだのだ。現に今、少年の拳はたたらを踏んだオークの顎を下からとらえていた。
オークの首が、垂直に跳ね上げられる。激しく脳を揺さぶられ、オークの足元がふらつく。その足元を、少年が蹴り払った。
支えるものを失った巨体が、大きく後ろに傾く。脳震盪を起こしているため、手をつくことすらもできない。自分が倒れかかっていることすら気づいてはいないのかもしれない。
「後は頼みますよ。ミレーナ様」
言うが早いか、
巨体が、燃え上がった。何かで炙られているのではなく、オークの体そのものが燃料となり発火している。それゆえに、自力で火を消すことが出来ない。
オークが悲鳴を上げる。消せない火を消そうと、必死にもがく。
「さあ、ルナ。魔法の試験だ」
「はい」
「⁉」
気づけば、二人の人間が晴香の隣に立っていた。片方は銀髪の少女、もう片方は髪色の判別はできないが長髪の女性。
少女が両手を前に突き出す。掌が、立ち上がったオークを正面にとらえる。
「アーク・ウィル・ステェートゥ——」
少女が詠唱を始める。両掌の前に揺らぎが生まれ、透明な球体が生成される。それは詠唱を進めるごとに、どんどん大きく、回転を増す。この技を、晴香は知っている。
「——レイス!」
《ブレイク・ショック》風系統の高ランク魔法だ。
オークがこちらをにらみつけ、補足する。
詠唱が終わると同時に、爆風をまき散らして風玉がオークめがけて直進する。
最後の力を振り絞り、走り出す。
肥大することなく、高出力を保ったままそれは直進し、
爆散した。
解放された風玉は、強力な衝撃波を与えた後、すさまじいほどの上昇気流へと変化する。周りの木が根っ子ごと持ち上げられるような風の檻にオークを監禁し、火を巻き込んで火災旋風となる。
すべてが収まり、視界が晴れた時、
オークは、立ったまま絶命していた。
「……さて」
それを確認した少女はほっと息をつき、女性は足元にいる晴香の方へと視線を向ける。
「その少年を私の家へ連れていく。君もついてきなさい」
「あ、え————……」
「大丈夫、結界が張ってあるから、変な奴らは入ってこれないよ。もちろん、魔獣も」
少年にまでそう言われては、晴香には選択肢などなかった。
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