第49話
俺の股間に一陣の風が吹き過ぎた。と、背後から股の下に腕が伸びてきて急所をわしづかみにしてきた。なんだ?なんだ?と抵抗するよりまえに、容赦なく握りつぶそうとしてくるぞ。痛い。
「やめろおおおぅ!」
俺は、雄たけびを上げる。しかし太鼓の連弾はそんな些末な事など知る由もない。音はとどまることを知らないのだ。「やめてあげてください」とやさしい男の声。たまゆらに、股間が緩んだ。咄嗟に身をかわす。どうやら助かった?
「あいさつだよ、童貞くん」
見れば、戦国の真田勢のような真紅の甲冑を全身に装着した若者がひとり、そこで笑いながら俺を見ていた。甲冑の顔が歩みよってたちふさがる。息を合わせたように、太鼓の連弾がきれいにとまる。静寂なダークブルー。思わず眼前のぐるりを見回す。
美しい。4K顔負けの静止動画像とはこのことだ。さまざまな和太鼓の連弾の系譜を、まるで一振りの刃で切り落とし、メタリックの平面写真にしてしまった。多分、音という概念が一瞬にして、遠くの彼方へすっ飛んでいってしまったのだろう。バチを持ったストップモーションそのままに、時間だけが延びていく。行進の片足があがったままの者、曲芸のようにバチを宙に放り投げた状態のままの者。全国各地からの偉大な神々のはずなのに、間の抜けてる刹那の表情がなんともユーモラスに見えたりする。それらが水底深くの壁画に綿々と描かれてる。
こうして俺はてっきり、和太鼓の巨大なシンフォニーが終幕したとばかり思っていた。しかしオーボエの一筋の長い棒のようなものが微かに湖面の鏡を揺らしてるのに気づく。そうだったか、ただひとり、この目の前にたちはだかる男の顔だけが、さっきから動いていたのだった。視線は俺を見てる?何やら含み笑いを続けてるのが鏡に映って見える。含み笑い、そのふさいだ唇をゆっくりとあけようとして、頬にしわが寄る。えくぼがふたつ、髭も同時に動く。なるほど、世界共通のアルカイックスマイルという算段か。アルカイックスマイル、人間の一番美しい顔だと信じているから、わるくない。ということはいよいよ、ストーリー中のクライマックスの一幕になるかもしれんな。気持ちのどこかで期待がふくらむ。男の両肩にかかる甲冑の大袖が大きく息を吸った。そして吐いた。声だ。幾層もの重音域なのに、言葉が綾を成して聞こえる。諏訪湖の深い水底の隅々。
「ようこそ、アジスキノタカヒコさま、そして道案内のさるたひこ君」
すると隣にいたアジスキノタカヒコが、おそるおそる尋ねる。
「あのう、おにいさま、ですか」
「・・申し訳ない、私はあなたの兄ではないが、諏訪のタケミナカタだ」
「なんと・・おにさまではない?」
「事情はアマテルさまから、聞いてるが、残念ながら私はあなたの兄ではない」
「・・そうでしたか」
肩を落とすアジスキノタカヒコ。ふと、その手から十拳柄剣が離れていく。紫色した水の帯に乗ってやってきた緑色した藻の中に、その剣が絡まる。ご主人様はどこなの?困った十拳柄剣が揺蕩う。まるで源平の合戦で、瀬戸内海に身を投げ、海の藻屑となった三種の神器さながらに。その三種の神器のひとつであったはずの天の叢雲の剣。それが遠い諏訪湖の水底で今、誰の手にも触れられずにこうして静かに揺蕩うているのか。古事記も、歴史上の説話さえもひっくりかえす、不思議な光景が眼前に、動いている。
和太鼓たちのトリッキーなストップモーション、見ればいまだ微動だにせず、メタリックな光を帯びながら、これらの成り行きを見守っていた。一体なんだろう、この奇妙奇天烈なストーリーの展開は。そういえばこの野郎、俺のことを童貞と言いやがったな。これまでの人生が一般世間とはかけはなれた部外者の俺、だからなのか。どんごろの殻から抜け出せないで、もがいているだけの童貞野郎。俺は大きな声で割って入っていった。ここは毅然とした態度が必要。思ったときが行動、突き進むしかない。
「タケミナカタさんよお、あんた、俺の急所を握りつぶそうとしましたよね」
「・・そうだ。おまえにぶらさがってる金玉は、ただのぶらぶら飾りじゃからのう。おまえにとっては邪魔だろうと思ってな、ちぎりとってやろうとしたのじゃよ」
「やめてくれい!」
「あのなあ、アメノウズメさんが、おまえのことを、なさけない男だと、嘆いとったぞ」
「アメノウズメさんが?」
「おうよ」
「ありえないし」
緑の藻がタケミナカタの目の前に流れてきた。甲冑の腕が十拳柄剣を掴むと、アジスキノタカヒコの手の元に、再び掴ませる。
「いったい、あずみぞくとは、なんのことでしょうか」
アジスキノタカヒコが尋ねる。
「出雲族そして葛城族の大王アジスキノタカヒコさま。それはアマテルさまをはじめ、この日の本の、津々浦々すべての神々の、敵(かたき)でございます」
「アマテルさまとは?それはアマテラスオオミカミさまと、おなじ、かみさまなんでしょ?」
「いえ、実は全然ちがうのです」
「ちょっと待ったあ!」
俺はすかさず口をはさんだ。
「さっきから聞いてりゃ、俺の金玉を握りつぶすだとか、アマテルとアマテラスは違うだとか、、、あんたねえ、言ってることがめちゃくちゃだぜ!」
「おまえは、何にも知らない。地上の史実は濁ってしまって、もはや救いようがないところまできてる」
なんとまあ、未練たらたらとは、このことだ。この期に及んでなにを往生際の悪いこと言ってるのか。タケミナカタよ、おまえ、それでも古代諏訪の勇猛果敢な大将だったのかい。もう時代はとうに過ぎ去ったんだよ。過去はもはや見えない。過去が消え、今は平和な世の中。寝た子を起こすな。口出しは無用。だからここは、声を大にして言うしかなさそうだ。今生の限り、俺は罵りの言葉をぶつけてみた。
「おまえらは、もう元には戻れない!」
諏訪湖の隅々。反響している。和太鼓連弾の面々。騒めく。何やら一斉に隣どうしでおしゃべりを始めた。これまでの止まってたはずの時間が動き出した。神々と言えども、その情景たるや邪気を放つ妖怪変化だ。暗闇にうごめく魑魅魍魎という難しい漢字の四字熟語を彷彿とさせた。
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