第47話

両側のつり革が行儀よくそろって、右に左にと揺れる。梓川のよう。不意打ちに流れが急角度で変転し、深みに差し掛かるところでは凄まじい勢いで身体をもみくちゃにされてきた。


そのつり革の行列の真ん中につり下がる週刊誌の広告。つり革のせわしげな動きとは対照的に悠然と天井からのエアコンを涼し気に受けている。大きな見出しは「東欧の小国クロアチアの団結力」と書いてある。ちょうど1週間前の夜中、フランスに惜敗したときの見出し。世界中がワールドカップで騒めき、テレビで実況中継され、飛び上がって抱き合い、喜び、泣いた。世界が一番熱くなった時。その記憶が人々の時系列に刻まれた・・。


長いトンネルはもう十分以上も経ってるようだ。出口があまりに遠い。トンネルの上は真っ暗な塩尻峠なのか。今宵は月も出てないから・・。

突然、これまでなりひそめていた持病の耳鳴りが噴出した。頭蓋を引き裂かんばかりの大音響。そうだ、この長いトンネルがいけないんだ。 天井の広告が霞んで見える。そのまま目をつぶる。そうして耳鳴りの奥に1匹の蝉の、かすかな鳴き声を探しだす。羽化したばかりの蝉の赤ちゃんだ。1年に数回あるかないかの強烈耳鳴りの始まりだ。四日市駅のホーム以来での出来事。


蝉の大洪水の中の、小さな蝉の誕生。ルーチンを突き破る、かすかに震える一刹那。梅雨が終わった後の8月に入るまでの、7月の中でも突出した時季。そう、1年間という日々の営みは、この突出した一刹那のためにだけ生きているのだと俺は今でも信じてる。そこには、まぶしい白いTシャツを着た自分の姿が夏の強い日差しを浴びて輝いてるはずだから。


高1の始まったばかりの夏休み。残酷にも梢の明るさは移り行き、重たい夜の闇が木々の間をぎゅうぎゅう詰めに埋め尽くしてきた。樹林帯の勾配を這いずり回った挙句、ついに力尽きた。気づけば4人とも身体が動かくなっていた。口が乾いて仕方ない。ふと、身体の軸がぶれて倒れそうになる。しかし樹木につかまってないと、谷底へ転落してしまう。この夜のうちに、何人が眠気で転落してしまうのだろうか。「おれたちはみんな、ここで童貞のままで死んでいくのか」おふざけの言葉で誰かがこの場の笑いを誘おうとした。しかし誰も笑わない。思考の途絶えた頭に、なぜかその言葉だけが鮮烈に焼き付いた。


しかし、間もなくして1匹のどんごろが眠りから覚めたのだった。自然の摂理に違わず、樹皮にのぼってしたたかに羽化を待つやつがいたのだ。助け出された4人のうちのひとりが夏休みの終わり、同じクラスの子と付き合いだし、まさにその日に童貞を捨てたのを直接聞かされた。ショックだった。俺もその子に思いを寄せていた。そして奮い立ったほかの2人も自力で同じ学校の子と付き合って、立て続けに童貞を捨ててていった。打ちのめされた思いだった。一人取り残された俺は焦った。焦ったまま何事も起こらず、高校生活が過ぎ去った。焦り続けて、気づけば40年もの年月が過ぎていた。だからあの場所だ。あそこで身動きできずに、ずっともがき続けてる自分がいる。それを痛いほど俺は知っている。


どんごろ、樹皮にしがみついているよ。こんなこと、恥ずかしくて誰にも言えないし。


残った気力を振り絞って、暗い山肌をよじ登る。むき出しの肘と膝からは、擦り傷で血が出てるのがわかる。しかし俺は木々の節々をかき分けて、あの時のどんごろを探すのだ。自分では殻を脱ぐことができないでいる。ならばそのどんごろを見つけ出し、外側からその殻をひん剥いてやればいい。なぜそれに今まで気づかなかったのか。自分でどうにもできないのなら、外からの手で無理矢理、殻を壊しちまえばいい。壊してしまえば、中の羽が見えるはず。そして飛ぶ。


腰まで足を上げて、根っこにつま先をかける。ゴツゴツの節々を両手で握って、ひときわ高い崖を上りきる。上りきった立木の向こう。なにやらろうそくの灯りのようなものが揺れるのは幻か。いや、予想は的中した。ここまで這い登ってきた甲斐があったというものだ。パンフレットのお地蔵さんは、峠の手前で明かりをともし、ちゃんと道を照らしてくれていた。下の方の中山道の暗闇から化け物の陰が蠢く。その陰が影を千々に引きちぎらせて駆け上がってくる。灯りに照らされた女の顔は凄惨だった。髪を振り乱し、耳まで裂けた口に1匹の魚をくわえて、駆け上ってくる。女が視界に俺をとらえる。と同時に力尽きて倒れた。口にくわえてた魚が、地面に放り出される。魚は驚いて一度だけ跳ねあがった。


・・・・おうよ、次は俺の出番よ!高校だったか、中学だったかに習った万有引力の法則を、外側から壊す時がやってきたというわけか。急げ!俺はその小さな魚を両手ですくい、胸に抱きかかえる。踵を返し、峠のてっぺんにまで出る。塩尻峠のてっぺん・・・暗闇の眼下に、こやつの目指す諏訪湖はまったく見えない。水の音はどこだ?そうだ、水の流れる音を探せ!峠を下る。自分の加速に追い越されるよりも前へとスピードを上げる。塩尻峠の「夜通道(よとうみち)」伝説の男は、峠を走り登ってきた女の怖いなりを目にしておののき、死にものぐるいでこの峠を走って下ったという。伝説はきっと俺に力を貸してくれてるはずだ。諏訪湖のほとりの岡谷へと、死にものぐるいで中山道をひた走るのだ。

・・・時間がない。アジスキノタカヒコ、乾いたら死んでしまうから。身体よ、走れ。もっと早く。もっと早くだ!峠を越えたからには、川はどれも諏訪湖につながってるはず。水はどこだ?目の前に水はある?



・・・サルタヒコさん、もう、おきてくださいな。


あれ?アメノウズメさんですか?目を開ける。身体が宙に浮いているのを知る。目に飛び込む虹色のプリズム。それらが夥しい束をつくって、伸びたり歪んだりしている。上空の水面を通してまっすぐ水底の奥の方まで届いているのもある。差しこむ金字塔が水底に向かって突き刺さっていくよう。そうか、朝がきてたのか・・体を動かす。節々が痛む。昨夜、幾度となく木々の瘤にぶってやられたから。血も少しは出てるかもな。痛い胸びれをそっと動かし、尾を振る。ほう!まるですーいすーいだよ、思った方にまっすぐ、勢いよく進むぞ。河童の時よりもずっと身軽だ。息もできる。傷も痛くない。


これが諏訪湖というところなのか。きれいな水中だな。宇宙の隅々にまで波打って奏でる光の渦。変幻自在な彩色の襞がとどまることを知らない。絵にも描けない美しさが、間断なく展開してる。透き通った魚たちの金、銀が、あちらこちらで飛ぶ。そのたびにキラリと刷毛を描き、さらにそこから無数のプリズムが泳ぎ出す。手前の方ではひらひらと魚の子供たちが戯れてる。なんて気持ちのいい湖なんだろう。愉快。


俺は回遊しながら、水面に浮かぶ光の粒を顔じゅうに浴びてみたり、深くてひんやりした水底の神秘な紫色の幽界と顕界の狭間をかいくぐったりして、蘇生した自分をしばらく楽しんだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る