第42話

川のほとり。霧が濃い。身体が濡れてる。これまで感じたことのない皮膚感覚。乾いたところだけがひりひり痛い。手を見る。緑色の指。1本ずつ、節くれだって異様に細長い。指と指のあいだに、なにやら水かきのようなものがついてる?すり合わせて撫でてみる。固くて、ザラザラしてる。これって?おそるおそる自分の体を見る。裸。辛うじて股間と乳首だけ、麻のような織物が覆っている。俺は恥じらいをもった生き物なんだろうか。しかし人間とはすこし違う。


誰かのザックが隣に置いてある。Corned beefと印刷された空き缶とフランスパンの詰め袋が無造作に散らばっている。何事かが起こった後だったのか。思い出そうとしたら、女性の声が耳の奥、蝸牛のループで、くるくる運動してるのに気が付いた。


「や、や、こ、や、や、こ、や、や、こ・・・」


これは、わたしのこえだわ。ああ、これはアメノウズメさんのこえです。あの時の、出雲の阿国の声に間違いない。


誰かのではなくて、これは俺のザックだし。とにかく重たかった。コーンビーフの空き缶がころがってる。俺はそれを食べたんだろうか。食べた記憶がいかにも曖昧だ。ううん、たべたわ。さかななのかしらん、やわらかくておいしかったわ。さかなではないよ、なまにくを、すえきで、かこうしてあったようです。すえき、あずみぞくのものなのかもな。ええっ?安曇族?いやぼくは、いずもぞくです。出雲族?お前は誰だ?あなたこそだれ?あなたち、ぼくのみかたなのでしょうか?


・・・たしかに食べ・・これがあくたがわのなか・・ここでのじだいのたべものなのですか?・・??それで俺は誰?わたしは?ぼくはだれですか?


コーンビーフとパンを食べた、だからお腹が満たされているのだ。ごみはちゃんと片づけないとな。このおおきな、いれもの、だれがもってきたものですか。それはサルタヒコさんです。いったいぜんたい、俺はサルタヒコなんかじゃないよ。さて、俺のザックだ、背負うぞ。おもたいわあ。そうでもないですよ。


いくつもの言葉がとびかっているよな。おまえら、聞いてるかい?おちつきましょうよ。ぼうくのからだが、ちがうものにかわってるよ。いまごろきづいたの?これってナナさんの足なのか。太ももを触りたいな。あしをさわる?サルタヒコさん、ばかなことしないでよ!さわちゃったよ、ギスギスで固いんだなあ。おねがいだから、やめてちょうだい。わかったよ。


あのねえ、どうやらわたしたちはかっぱさんのからだに、あわさってしまったようだわ。かっぱってなんですか?アジスキノタカヒコさんは、あくたがわりゅうのすけをしらないからね。ちょっと待った、アジスキノタカヒコが俺のなかにいるのか?いや、ぼくはサルタヒコさんのあとをおいかけて、はるばるタケミナカタさんにあいにきたのです。なんだって?ありえねえし。いずもは、きずきのおおやしろのながいかいだん、あなたのあとをおいかけて、タケミカズチとたたかいたかったのです。


・・アジスキノタカヒコさん、それはないしょにしておいてほしかったわ。どういうことですか?そうか、わかったぞ。だから今度は諏訪湖のお兄さんとタッグを組んで戦おうとしてるのか。アジスキノタカヒコよ、三澤の郷(さと)で、俺に、とつかのつるぎを見せて逆上なのですと言ってたよな。いえ、タケミナカタはおにいさんではないのですよ。それもこれも、なにもかもがつくりばなしなんですから。ああ、藤原不比等のでっち上げ話か。でも、ぼうくは、こじきにかいてあるおにいさんにあって、タケミカズチとけっとうをしたいです。だから、それはむりだといってるでしょ。このかわは、すわこにつながってない。いや、そんなことはないさ、そこの塩尻峠を越えればすぐに諏訪大社に行けるし。いえいえ、わたしたちはかっぱになってしまったのよ。それがどうかしたんですか?ちょっとみなさん、わたしのはなしをきいてください!


わたしたちはかわのそとには、ほとんどでられません。からだがかわいたら、かっぱは、しにます。だからとうげをこえることはできません。いや、ぼうくは、はやくはしれますから、だいじょうぶです。アジスキノタカヒコさん、とうげごえは、しにます。・・なるほど、アメノウズメさん、また謀ったんですね。3人をいっぴきの河童にしたのは、あなたの罠なんでし・・ばかなことをいうものじゃありません!


静寂、だな。


わかりました、そしたらまずこのかわをくだって、ほだかじんじゃまでいきましょう。はあ?穂高神社だと?昨日寝る前に読んで初めて知ったが、古代安曇(あずみ)族が穂高岳に降臨して祭られてるとガイドブックに書いてあったからな。安曇族はのちの中臣氏の先祖だときいたことがある。ナナさんよう、もういい加減、嘘をつくのは、なしにしようぜ。キャバクラで、あの教授みたいな男に何を言ったんだい?それとも何か言われたのかい?俺は正直、アジスキノタカヒコがかわいそうでたまらなかったよ。なんとか力になりたかったよ。盗人の、タケミカズチが憎らしくて仕方なかった。


しかしあなたは、古代出雲でアジスキノタカヒコが抹消しきれなかった無念の残骸を、今度は安曇族らが揺蕩う明神池でもって懐柔しようと企んでいるのですかね。それって、オモイカネさんから言われたのですか?あるいは天孫族からの新たなミッションといったところかな。河童橋に立ってあなたは、梓川に話しかけていましたね。河童さん、私と明神池で大人の遊びをしましょ、ふざけるのもいいかげんいしてくださいな!まだうら若きアジスキノタカヒコを、骨抜きにしてしまおうとしている!


ぼうくはそんなのはいらないですよ。いずものおくにさまというのはアメノウズメさんのことです、だからわたしとおなじ、いずものかみさまだったはず、なのになぜ、あまつかみなのですか?待て、アジスキノタカヒコよ、よき聞け。おまえたち葛城族の栄華は古代のどこかにきっとあったと思うが、残念ながら人知れず抹消されてしまったのだよ。しかしこんなことは日本の長い歴史において日常茶飯事なこと。消え去ったものをいちいち人々の記憶に残したいとは思わないようにできてるのだよ。だって、あとから考えれば、はかなくも消えてしまった者というのは結局、とるに足らないつまらない結果だったのだから。それが理由だよ。悔しいが、この世は優生だけが生き残れる。残酷そのものだな。自然界とか社会とかの成り行きなのだし、それがまた偽らざる人の気持ちというものなのだろう。アジスキノタカヒコよ、おまえの気持ちはわかるが、ここらで諦めよう。


・・・むねんです。しかしあきらめるしかない、それだけのぼうくだった?それならいっそのこと、じぶんでじぶんを、あやめたいです!サルタヒコさん、ひどい。それじゃあアジスキノタカヒコさん、あまりにすくわれないわ。おっと、アメノウズメさんよ、仏心(ほとけごころ)が出ましたね、とは言っても神代(かみよ)の時代は仏教がなかったから通じないかもなあ、話するのもいちいち苦労するなあ。ほとけ?しらないです。いや、ほとけさまよ。


三人で一役とは。まいったなあ。あのなあ、こんな古事記のいざこざなんて、俺は金輪際、付き合いきれんし。もう外は暗くなりかけてるし。上高地の最終バスに乗り遅れたら困るし。


・・・・・・錯綜した会話が徐々に重心を見失い、川に傾いて、まるごと水没していくのがわかった。


しかし、泳げるぞ、おかしいな。およぎがうまいです。わたし?わたしもおよげる、ぼくもだ・・・


俺は橋の下の岩場を縫うようにして旋回してみた。水中は息苦しいと思ってたがそうでもない。水を得た魚、ということわざが霞む。なに?みずをえたってどういうことですか?もう一回、もういちど、はやくタケミナカタにあいたい。そうだとも、最終バスに乗り遅れたら大変だ。さあ、これから川を上る?それとも下る?ぼううくは、すわこまでいきたい。だからそれはむりだってわたしはさっきからいってるわ。俺は最終バスに間に合いたい、明日、会社だから。かいしゃ?かいしゃですか。


・・・おう!そうだとも!バス乗り場のある河童橋までとりあえず俺は戻る!わかりました。わかった・・・あのう、、かっぱばし、ですか、あなたたちふたりが、たっておはなししていた、そのよこを、ぼううくがないしょで、わたった、あのきれいな、はしのことですよね。



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