第117話 百獣の王

 今回から舞台が変わります。


************


 少女が親から厳しく教えられたことは一つだけだった。


 常に誇り高くあれ。


 それが獅子としての、百獣の王としての、父と母からの教えだった。


 魔力を持たない獣人は、人間から虐げられる。


 それは、魔力が存在しなければ、最強の生物の一つと言っても過言ではない、ライオンの獣人も同じだった。


 鉄をも切り裂く牙や爪を持ち、素手で岩をも砕く腕力を持ち、鋼の刃も通さない皮膚を持つライオンの獣人。

 そんなライオンの獣人は、たとえ魔力を使われても、並の相手であれば十分戦うことができた。


 だが、それはあくまで相手の実力が並であった場合だ。


 王国における二つ名持ちの騎士並の実力を持つ、商国自衛団の各隊長レベルや、各傭兵団の団長クラスには、全く歯が立たない。


 鉄をも切り裂く爪も牙も、一定以上の魔力を持った者が生み出す魔法障壁には、傷すらつけられない。

 岩をも砕く腕力も、魔力で強化された人間の身体能力には敵わない。

 鋼の刃も通さない皮膚も、魔法や魔力を帯びた武器の前では、豆腐のように簡単に切れる。


 少女もそれは理解していた。

 少女の父や母も当然理解していた。


 それでも、父と母は毎日のように告げる。


 誇りを忘れるな。


 少女の父は、商国で暮らす数多くの獣人たちの中でも、群を抜いて強かった。

 誰もが彼を尊敬していた。


 困りごとがあれば皆が彼に相談する。

 争いごとがあれば皆が彼に相談する。


 まさに、商国における獣人たちの王のような存在だった。


 ただ、そんな彼も一部の人間の前では無力だった。

 もちろん、街で遭遇する魔力を持たない人間たちなど、なめてかかってお釣りがくるほどの実力を、持ってはいた。

 たとえ魔力持ちの人間相手でも、並の兵士相手ならその戦闘センスのおかげで五分以上に戦えた。


 だが、魔力を持った相手複数人相手だと不利になるし、仮に人間を傷つけてしまい、自衛団隊長や傭兵団団長が出てくると勝ち目はない。


 だから、決して彼から人間に手を出すことはなかった。


 ただ、人間たちも、大柄で筋骨隆々とした彼を、敢えて怒らせるようなことはしなかった。

 不当な扱いを受ける獣人がいた場合、彼が一言言えば、その扱いはまともにせざるを得なかった。


 獣人であるにもかかわらず、人間からも一目置かれる存在。

 少女はそんな父親が誇らしく、誰よりも尊敬していた。

 自分にとっての誇りは何かはまだ分かっていなかったが、それでも誇れるものが何かと問われれば、それは父の存在である、と答えたらだろう。


 大人になったら父のようになりたい。


 少女は物心ついた頃から常にそう思い、そしてそうあるべく行動していた。


 ……彼女が病に罹るまでは。


 少女はある日、重い病に罹った。

 放っておけば命がない病。


 ただ、不治の病というわけではない。

 治療法は確立しており、適切な治療を受ければ後遺症も残らず、死ぬこともない。


 ……薬や治療費が非常に高額だというだけで。


 知識を学ぶ機会の少ない獣人では、できる治療に限界がある。

 必然的に人間に頼らざるを得なかった。

 だが、ほとんどの場合、商国の獣人は人間の通貨を多くは持たない。


 基本的には、獣人の間のコミュニティの中で流通を行い、どうしても人間のものが必要な場合以外、人間からものを買うことはない。


 獣人蔑視が激しい王国よりは多少まともとはいえ、商国でも獣人の扱いは酷い。

 獣人が人間の通貨を得るためには、圧倒的に不利なレートで通貨交換をするか、限られた手段の中で稼ぐしかない。


 百獣の王たる少女の父も、その点は例外ではなかった。

 獣人のコミュニティの中で使う通貨はそれなりに持っていたが、人間の通貨はほとんど持っていなかった。


 少女の治療を行うには、人間の通貨を得る必要がある。


 だが、獣人が人間の通貨を得る方法は限られている。


 先ほども述べた通り、圧倒的に不利なレートで交換するのが一つ。


 少女の治療をするための費用を得ようとすれば、獣人の世界で豪邸が何件も立つだけの金を払う必要がある。

 だが、慎ましい家で暮らす少女の家には、もちろんそんな金はなかった。


 もう一つは人間の世界で働くこと。


 人間では耐えられないような厳しい労働をすることで、運が良ければだが、通貨交換するより、幾分まともな条件で対価を得ることもできる。


 だが、少女の治療のためには、のんびり金稼ぎをしている時間はなかった。

 発症から一週間以内に治療を開始しなければ致死率が跳ね上がるとのことだったからだ。


 もちろん、信用の低い獣人に金を貸してくれる人間はいないし、給料の前借りもできない。

 それはたとえ、商国の獣人コミュニティの王である少女の父にとっても同じことだった。


 次の一つは、自分を売ること。


 女だったら体を売り、男だったら奴隷となってその肉体を酷使される。

 そしてその場合、ほとんどのケースで奴隷契約の魔法によって契約させられ、絶対服従を強いられる。


 そして最後の手段は、非合法的な手段に出ること。


 恐喝や盗み。


 獣人が人間の通貨を得るために取る手段は、最後のものが圧倒的に多い。


 その高い身体能力を用いて、強盗を行う者。

 聴覚や嗅覚、夜目が利く視力等、各種族が持つ特性を活かした盗みを行う者。


 獣人が簡単に金を得ようとすれば、その手段を用いるのが一番手っ取り早いだろう。


 だが、少女の父親はその手段を選ばない。


 それは、己が百獣の王だから。

 誇り高き獣人の王だから。


 力に任せて罪を犯せば、それはもう、獅子ではない。


 少女の父親は、妻と少女に告げる。


「ちょっと薬代を稼ぐために、出稼ぎに行ってくる。しばらく戻れないだろうから、お前は母さんの言うことをちゃんと聞くんだぞ」


 父の言葉に、素直に頷く少女。

 母親の眼に浮かぶ涙は、しばらく会えないことに対する寂しさの涙だと、その時は思っていた。






 少女は、父の稼いだ金で無事治療を受けることができた。

 元どおりの健康な体になった少女。

 少女は自分のために出稼ぎに出ている父に、どうやって感謝を伝えるか考えていた。

 いつもは感情を表に出さない父が、泣いて喜ぶくらい、驚かせてやろう。


 そう考えていた少女の想いが、成就されることはなかった。






 二ヶ月後、父親は帰ってきた。


 ……物言わぬ死体となって。


 鬣のように立派だった髪の毛は、縮れてみすぼらしくなっていた。

 筋骨隆々だった肉体は、痩せて骨と皮に近い状態になっていた。


 指の骨は全て折れていた。

 爪は全て剥がされていた。

 左右の目は空洞となっていた。

 左手と右足の関節は逆を向いていた。

 鼻は削がれていた。

 耳は切り裂かれていた。

 牙は抜かれていた。


 目を背けたくなるような無残な姿で帰ってきた父。


 なぜそんなことになっているか分からない少女は、母親の顔を見る。


 だが、母親は、目に涙を浮かべながらも、決して何も語らなかった。


 出稼ぎに出ただけの父がなぜ無残な死体となって帰ってきたのかを知りたかった少女は、周囲の大人たちに、何か知らないか、聞いて回った。


 ほとんどの大人たちが口を閉ざす中、年中酔っ払っているような、ロクデナシの獣人が、理由を教えてくれた。


「何やら、娘の治療費を稼ぐために、人間にその身を奴隷として売ったらしいぞ。その売られた先の人間の貴族様というのが、拷問好きの最低な人間らしくてな。そこに売られた奴は人間でも獣人でも、ほとんど生きて帰れないらしい。生きて帰れても、体か心かどっちかが壊れてるから、まあ、そこに売られた時点で人生終了ってことみたいだな」


 なるほど、それは私には聞かせられないな、と少女は思う。

 私なんかのために、誇り高き父は、奴隷となり、その命を落とした。

 そんな事実を私自身に伝えられるはずがない、と。


 少女は憎んだ。

 父を拷問した貴族を。

 そんな貴族に父を売り渡した奴隷商人を。

 そして、病などに罹ってしまった自分自身を。


 少女は、父の墓前で泣いて詫びた。

 そして、生き残った以上、父以上に強く、誇り高くあることを誓った。


 ……だが、その誓いは長くは続かなかった。


 商国におけるリーダーだった父亡き後、商国内での獣人の地位は地に堕ちた。

 獣人が獣と扱われる王国よりはそれでもまだ幾分マシだったが、あくまでマシなのは幾分かだけで、かなり酷い扱いであることに変わりはなかった。


 食事にありつくために、男は命を削って働くか、女は体を売るしかなかった。


 それは少女の家にしても、例外ではなかった。


「あっ……」


 毎日のように、薄い壁の向こうから聞こえてくる母親の喘ぎ声。


 父を亡くした少女の家では、明日の食事代を稼ぐために、母親が体を売るしかなかった。

 しかし、少女は許せない。


 誇り高く生きろと言った当の本人である母親が、ひ弱で汚れた人間なんかに体を開くのを。

 たとえ泥を啜ってでも、気高く生きるべきではないかと。


 娘のそんな訴えに対し、母親は曖昧に笑って頷くだけだった。


「この淫売が! そんなことでは死んだお父様に申し訳が立たないと思わないのか!」


 もはや、親への尊敬を忘れ、口汚く母親を罵る少女。

 それでも、母親は言い返さない。


「貴女が言う通りよ。貴女は気高く生きなさい」


 そんな母親を軽蔑し、少女はそれ以上の言葉を吐き出すのすら嫌になり、家を飛び出した。


 飛び出した先で、人間のゴミ箱を漁る同胞たちを見つけ、八つ当たりする少女。


「お前たち、いい歳した大人がゴミを漁るなど、恥ずかしくないのか! こんなことをするくらいなら、人間から略奪でもした方がましだ! 人間が怖いのか?」


 そんな少女に対し、死んだ目をした獣人たちは、鼻で笑う。


「ふんっ。何も知らないお嬢様が何を偉そうに」


 その言葉に激昂する少女。


「……何だと?」


 怒れる獅子を歯牙にもかけず、獣人の一人が告げる。


「お前の母親が、人を襲うなと言うからこうしている。略奪など、誇りを持つ者がすべきことではない。かと言って黙って死ぬべきでもない。今は歯を食いしばり、泥を啜ってでも耐え凌ぐべき時だ。いずれ栄光の時は来る、と」


 別の獣人が続ける。


「俺たちだってこんなことしたくはない。だが、生き残った獣人の中で最も力を持つお前の母親が、人間ごときに股を開き腰を振り、娘であるお前を生かすために、死ぬより屈辱的な思いをして耐え忍んでいるのに、俺たちが人間を襲うわけにはいかない」


 母親が強いと言うのは、少女にとって初めて聞く事実だった。

 弱いからこそ、戦いもせず、体を売ってまで生きているのだと思っていた。


「母親のおかげで生かされていることを忘れ、人を非難するとは、いい身分だな、お嬢様。そんなんじゃお前に温かい飯を食わせるために体を売る母親も、草葉の陰からお前を見守る父親も浮かばれないぞ」


 獣人たちの言葉に何も言い返せず、血が出るほどに下唇を噛んで下を向き、背を向ける獣人の少女。


 誇りとは何か。

 自分はどう生きればいいのか。


 力はあるのに略奪は行わずに、体を売る母親や、ゴミを漁る同胞たち。


 彼らは卑しいのか。

 誇り高くはないのか。


 少女は分からなくなった。


 少女が家に帰ると、母親が人間の客に体を許している最中だった。


 気づかないふりをして自分の部屋へ帰ろうとする少女に、人間の客が気付いた。


「へえ、娘がいたのか。年増の未亡人より、やっぱり女は若いに限る。金は倍払うから、娘ともヤらせろ」


 勝手なことを言う客に、母親は艶かしい肌を露出させ、しなだれかかるようにしながらその腕を取る。


「もう。娘はまだまだ子供。私がちゃんと満足させてあげるから、こっちに来て」


 そんな母親の腕を振り払う人間の客。


「うるせえ! 獣の分際で人間様に指図するな! いいからお前は、娘が犯されるのを黙って見てろ!」


 汚らしい裸体を晒しながら近寄ってくる人間の男。

 そんな男を前に、少女は悩む。


 魔力を感じない男を殺すのはきっと簡単だった。

 だが、母親が我慢して耐えているのに、自分がその我慢を無駄にしていいのか、と。


 だが、その悩みは無駄になる。


ーーブシャッーー


 少女の顔へ血飛沫を撒き散らし、人間の男の首から上が消えた。


「ごめんね、汚しちゃったわね」


 そう言いながら爪に付いた血をなめとる母親。

 そんな母親に、食ってかかる少女。


「な、何で殺したの? 人間なんて殺したら、お母様が殺人罪で処刑さてしまうわ」


 少女の言葉に首をかしげる母親。


「そうね。でもそれの何が問題かしら? 大事な娘が汚されるより、百倍マシだわ。この身を汚すのは、私だけで十分」


 少女は分からない。


「どうして? 獅子の獣人にとって、誇りより大事なものはないんじゃないの? 人間なんかの奴隷になったお父様も。人間なんかに体を売るお母様も。何で誇りも、命も捨ててまで、私を救おうとするの?」


 少女の母親は、にっこりと笑う。


「私もお父さんも誇りは捨ててないわ。人によって誇りの形は異なる。私とお父さんにとっての誇りは、貴女の親であること。貴女の親であるためなら、貴女を守るためなら、例えどんな目に遭おうとも、命を失おうとも、誇りを失うことにはならない」


 それでも少女は分からない。


「……お母様が処刑されたら、私は何を誇りに生きればいいの?」


 そんな少女の頭を母親は優しく撫でる。


「それは貴女自身が見つけなさい。そして、誇りを見つけたならば、何があってもその誇りを守りなさい。……それが私の遺言よ」






 翌日。


 母親は処刑された。

 人間に逆らった獣人は見せしめのため、残酷な方法で処刑される。


 少女の母親は、淫売だったということで、魔物に犯され、昂ぶった魔物にそのまま殺されるという方法をとられた。


 美しい獣人が、醜い魔物に犯されながら殺されるというショーに人間たちは歓喜した。


 その歓喜の裏で、少女は誓う。

 この凄惨な景色を、しっかりと脳に焼き付けながら誓う。


 誇りが何かはまだ分からなかったが、今やるべきだと思ったのは一つだけ。


 復讐を。

 母親より惨たらしい死を人間どもへ。


 その誓いを胸に、いつまでも鳴り止まない人間の歓声を耳にしながら、少女は暗く決意した。

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