底辺奴隷の逆襲譚

ふみくん

序章

第1話 プロローグ

 俺の家は貧しかった。


 母親と二人きりの母子家庭。

 十七歳で俺を産んだ母親は、シングルマザーとして俺を育ててくれていた。


 父親は知らない。

 母親が話すことはなかったし、若い母親を捨てて何処かに行ってしまった男のことなどどうでもよかった。


 病弱な体の母親は、本来であれば生活保護を受ける権利があるはずなのだが、他の人が頑張って稼いだお金の一部である税金を貰うなんてできない、と保護を申請していなかった。


 そんな母親だから、親にも頼れないと言って、全ての生活費を自分で稼いでいた。


 だが、高校も出ていないシングルマザーの就ける仕事なんて限られている。

 なんとか仕事には就いているが、稼ぎは、びっくりするくらい少ない。


 おかげで俺は、物心ついた頃から、貧乏を理由にいじめられていた。


 いつも同じ服を着ている。

 買い食いやカラオケに行くお金がない。


 そんなくだらない理由で、俺は他の子供達から攻撃されていた。


 話しかけても無視されたり、持ち物が落書きされたりするのはいつものこと。

 イスに画鋲を仕掛けられたり、机に虫の死骸を詰められたり、トイレで上から水をかけられたり、攻撃の種類は、数え上げればきりがない。


 だが、小学校に入学した時から毎日いじめを受けてきた俺は、それらの嫌がらせに対する耐性ができていた。


 初めの頃は本当に辛かった。

 周りがなぜそんな仕打ちをするのか分からなかった。


 だが、母親に心配をかけたくないから、誰にも相談できない。


 心の出来上がっていない小学生の時に、毎日毎日繰り返される執拗な嫌がらせ。

 どうすれば俺の心が折れるか、みんなで競い合っているかのように繰り返される嫌がらせ。


 誰も味方がいない状況で、その嫌がらせに耐え抜くのは拷問でしかなかった。


 こんな生活を続けるくらいなら、死んだ方がマシだと思ったのは一度や二度ではなかった。

 だが、その度、自分が死んだ後に残された母親のことを考えると、自殺という選択肢は取れなかった。


 貧困からの脱出。


 それが俺の人生のテーマだった。


 ドラマ等だと、貧しい家の子供は、中学や高校を出るとすぐに働こうとする。

 でも俺は、中卒で苦労している母親を見てきているので、その選択肢は正しくないと確信していた。

 貧困の螺旋から抜け出せなくなるだけだ。

 

 まずはいい大学に入る。

 その後、いい会社に入るにしても、人脈を広げて起業するにしても、現代日本ではそれが貧困脱出のスタート地点だ。


 貧困の中でも、できるだけ俺に惨めな思いをさせないよう、病弱な体に鞭を打って働く母親へ、楽な暮らしをさせて恩返しをする。


 それが俺の人生の目標だった。


 どんな環境でも、目的があれば頑張れる。


 いい大学に入る手段は勉強だけではない。

 スポーツもある。


 俺は選択肢を増やす為、周りの誰よりも勉強し、周りの誰よりも体を鍛えた。

 家計を助ける為、新聞配達のバイトをやりながら。


 睡眠時間を削って体を壊しては元も子もないので、睡眠時間だけは維持しつつ、それ以外の時間は全て自分を磨くために使った。

 一分一秒も惜しんで。


 中学を卒業する頃には、勉強の試験も体力テストも、どちらも学年一位になっていた。


 その分、周りからのやっかみも含めた嫌がらせは苛烈なものになっていたが、その頃にはもう、それらの嫌がらせは朝の挨拶のようなものだと思うことにしていた。

 

 推薦や特待生であってもスポーツには金がかかることを知った俺は、勉強に重点を置くことにしていたが、それでも体を鍛えることはやめなかった。

 暴力に対する抑止力にするために。


 学年一位の成績で地区トップレベルの高校に特待生で入った後も、嫌がらせは止まなかった。


 どこかの会社の社長の息子。

 政治家の息子。

 医者の息子。


 そういった奴らの中で、俺は高校でも学年一位を維持していた。

 プライドの塊のようなそいつらは、貧乏人の俺に負けていることが許せないらしく、これまで以上に執拗な嫌がらせをしてきた。


 肉体的な暴力はなかったが、水筒にドブ水が入れられたり、鞄にネズミや小鳥の死骸が入っていたり、水泳の授業の後、服が全て捨てられたりしていたこともあった。


 嫌がらせする方も大変ではないかと、ある意味感心したくなる仕打ちだった。


 正直、勉強するだけなら学校なんて行かなくても、独学でどうにかなるが、大学に入るには、高校の成績の影響もゼロではない。

 大学に入るだけなら大検という選択肢もなくはないが、高校を出ていないことが、就職に影響しないとも限らない。

 この何の役にも立たない仕組みのために、俺は学校へ行かざるを得ない。


 だが、高校に入って一つだけ変化点があった。


 俺に味方ができたことだ。


 学校で一番可愛いと評判の女子。

 運動もできて、勉強もできて、性格も良くて、誰からも好かれるマドンナ的存在。


 そんな彼女がことあるごとに俺をかばってくれた。


 初めは単なる偽善だと思って、むしろ嫌がらせをして来る奴らより腹が立っていた。


 だが、他の生徒が来る前に、早朝、落書きされた俺の机を拭いている姿を見たり、自分の手が汚れることも厭わず、ゴミ箱に捨てられた俺の私物をゴミ箱から取り出して洗ったりしてくれている姿を見かけるうちに、彼女の行為が偽善ではないのではないかと思い始めていた。


「迷惑だからやめてくれ」


 たまたま教室に二人だけが残った日の放課後、俺は彼女にそう言った。


 人間はどうしようもない生き物だ。


 学校で一番人気がある彼女が俺に気をかけていることで、俺への嫌がらせはより陰惨なものになったていた。

 彼女の目につかないところで、執拗な攻撃を受けていた。

 ただ、それは俺の問題だからいい。


 だが、その内、その怒りの矛先は、彼女本人にも及ぶだろう。

 これまでも俺に手を差し伸べてくれようとした人はいた。

 そして、そのことごとくが俺の巻き添えでいじめに遭い、心を折られてしまった。

 彼女をその二の舞にするわけにはいかない。

 自分に手を差し伸べてくれた人が傷つくのは、自分を傷つけられることの何倍もつらい。


「それはごめんなさい……でも、やめるわけにはいきません。ここでユーキくんを見捨てたら、私は私のことを許せなくなりますから」


 彼女は普段の優しい目とは違う、強い目でそう言った。


「矛先があんたに向かうぞ?」


 俺は脅すような口調と目で彼女へそう言った。

 優しい彼女を酷い目に合わせたくなくて、あえて突き放すつもりで言った。


「望むところです。それでユーキくんへの負担が少しでも和らぐなら」


 俺は返す言葉がない。


「……なぜ俺なんかのためにそこまでしてくれる?」


 俺は日頃から思っていた疑問の言葉を投げかける。


「あなたのことが好きだから」


「えっ?」


 予想外の言葉に俺は動揺する。


「……って言ったら納得します?」


 彼女はいたずらそうな笑みを浮かべてそう言った。


 他人と、いじめられること以外で接してこなかった俺は、こういうやりとりに慣れていない。

 彼女の真意が全く読めない。


 一転、彼女は真面目な顔になった。


「ユーキくんみたいに誰よりも頑張って、誰よりもすごい人が認められないなんて、そんな世の中間違ってると思うんです。私には世の中までは変えられないので、せめて自分にできることをやりたいと思っているだけです」


 周りに流されず、自分の身に害が及ぶかもしれないことを恐れず、自分の正義を貫く。

 並大抵のことではそんなことはできない。

 自分のことで精一杯な俺とは大違いだ。


 彼女ともう少し早く出会っていれば俺の人生も、少しはマシになっていたのだろうか?

 彼女と出会ったこれからの人生、少しはマシになるのだろうか?


 気付くと彼女の手が俺の目の下に伸びてきていた。


 彼女の白く細い指が俺の涙を拭う。

 不覚にも涙を流してしまっていたようだ。

 人生で初めての経験に、感情が漏れ出してしまったようだ。


 いい歳して女子の前で涙を流す俺に対して、彼女は全く馬鹿にする様子はない。


「ありがとう。こんなこと言ってくれたのは人生であんたが初めてだ」


 俺は素直に礼を言った。


「私は私のエゴを貫いてるだけです。お礼を言われるようなことはしていません。ただ……」


 彼女はそう言って言葉を濁した。


「ただ?」


 俺は聞き返す。


「できればこれから仲良くしたいので、名前で呼んでくれると嬉しいです」


 俺は苦笑する。


「すまない。人と接するのに慣れてなくて。よろしくな、ミホ」


 俺がそう言うとミホは顔を赤らめる。


「名前で呼んでって言ったのは私ですけど、いきなり下の名前で呼び捨てっていうのは……」


 口ではそう言いながらも嫌そうな顔ではないミホを見ながら、俺は十七歳にして、生まれて初めての感情が胸に湧いてくる。


 母親以外から優しくされた経験のない俺。

 そんな俺に、強い意志で手を差し伸べてくれる美しい少女。

 思春期の男子高校生に、何も感じるなというほうが難しい話だった。


 ーーこれが恋というものなのかもしれない


 そう思った瞬間、教室は光に包まれた。






 あまりの眩しさに目を閉じた俺が、しばらく経ってから閉じた瞼を開くと、そこは真っ白な空間だった。


 正確な広さはよく分からないが、かなり広いのは間違いない。


 この空間には数十人の人間がいた。

 全員がおそらくうちの高校のメンバーで、見知った顔が多い。

 学校でも勉強や部活でトップレベルの成績を持つ者たちばかりだ。


 俺に嫌がらせを繰り返しているクラスメイトも何人かいた。

 こんなところまで一緒に来るのは心底嫌だったが、強制的だったのだから仕方ない。


「ユーキくん……」


 俺の隣にいるのは、直前まで話をしていたミホだった。

 不安そうな表情で俺を見るミホ。


 不安なのは当然だろう。


 放課後の教室で普通に話をしていたかと思えば、突然光に包まれ、いきなり変な空間に移されたのだ。

 俺だって混乱しているし、不安でいっぱいだったが、ミホの前で俺まで不安を見せるわけにはいかない。


 優しく抱き寄せて上げたいところだが、当然俺にはそんな度胸はない。


 そこで俺は、ミホの手を優しく握った。

 細く、柔らかい手に、俺はドキッとするが、今はその感触を楽しんでいる時ではない。


「大丈夫だ。俺が付いている」


 慣れない行動をした俺は、恥ずかしさのあまり、まともにミホの顔も見れない。


 数十分前の俺なら、絶対なこのような行動は取らなかっただろう。

 だが、今の俺はミホの存在により、以前の俺とは明らかに変わっていた。


 女子どころか、ここ十年くらい母親以外の人間とまともなコミュニケーションを取ってこなかった俺には、自分の行動によって相手がどう感じているかは分からない。


 付き合ってもいない男からいきなり手を握られ、臭いセリフを吐かれたら、気持ち悪いと思われるかもしれない。

 でも、何かしてあげたかった。

 ミホの力になりたかった。


 俺の言葉と行動により、ミホが少しだけ落ち着いたような気がしたのは、俺の錯覚ではないはずだと思いたい。


 そんな時、後ろの方で、いつもゲームやアニメの話ばかりしている集団が何やら、これはまさか異世界転移では、とブツブツ言っているのが聞こえてきた。


 あいつらは何か知っているのかもしれない。

 決定的な情報じゃなくても、この事態解決のヒントになるような何かを。


 そう思った俺が、ミホに目配せして断りを入れた上で、つないでいた手をそっと離し、その集団を問い詰めようと一歩踏み出した時だった。


 部屋が再び光に包まれた。

 教室の時よりは光は弱く、目を開けられないほどではないが、光の発生源は、さすがに眩しくて見えない。


 しばらくして光がおさまると、光の発生源だった場所には、ギリシャ神話にでも出てきそうな白い服を着た、金髪碧眼のスラリとした女性が立っていた。


 その顔は絵画のように整っており、神話の世界から飛び出してきた女神のようだった。


「皆様、急にこのような空間へお連れしてしまい、申し訳ございません」


 美しい、楽器のような声で発せられた、金髪の女性の第一声は謝罪だった。


「謝ったって何も進まない。何なんだここは?」


 謝る金髪の女性を睨みつけながら、政治家の息子がそう質問した。

 世の中のトップは自分だと思っているようなやつで、普段から傲慢だった。

 俺に嫌がらせを行うメンバーの筆頭だ。


「皆様が別の世界へ転生する前に、事情を説明するため、私が一時的に作り出した空間です」


 淡々と答える金髪の女性。


「転生?」


 大手メーカーの社長の息子が声を上げる。

 金にモノを言わせて人を操る、クズみたいな男だ。

 直接俺を攻撃する度胸はなく、間接的に人を使って俺を攻撃してきていた。


「はい。皆様にはこれから別の世界へ転生していただき、その世界を救っていただきたいのです。色々聞きたいこともあると思いますが、この空間はそう長く維持できないので、手短に説明させていただきます」


 金髪の女性はそう言って話を続ける。


「皆様に転生いただくのは、あなた達の世界で言うところの、中世から近世くらいの技術レベルの世界です。そこでは魔法や人間以外の亜人種、それに魔族や魔物も存在します」


 魔法や魔物という言葉に、周りはざわめく。


「おいおい。ただの人間である俺たちに、そんな世界でどうやって世界を救えって言うんだよ」


 大手メーカーの社長の息子が金髪の女性を問い詰める。


「皆様には、元の世界での能力に応じて、異世界で生活していくための能力が付与されます。また、地位についても、元の世界での地位が反映されます」


「なぜ俺たちなんだ?」


 政治家の息子が質問する。


「次元を渡る際の地理の関係で、私の力が及ぶのが、たまたまあなた達の学校周辺でした。その範囲の中で、若くて能力が高い人間を選んだ結果です」


 今度はゲームやアニメの話ばかりしている集団の一人が質問する。


「転移ではなく、転生ですか?」


 金髪の女性は頷く。


「はい。これだけの人数を転移させると、向こうの世界に混乱を招いてしまいます。もともと存在し、生活している人に転生することで、混乱を抑えます」


 その話を聞いた、生徒会長の女子が質問する。

 直接接点はないが、真面目で正義感に溢れた女子だ。


「私達が転生すると、転生される側の人はどうなるんですか?」


 その質問を聞いた金髪の女性は沈痛な面持ちで答える。


「……世界の為に犠牲なっていただきます」


「そんなことって……」


 まだ何か言いたそうな生徒会長を手で制し、深く頭を下げた後、金髪の女性は話を続ける。


「時間がないので、申し訳ございませんがこちらの説明を続けさせていただきます。世界を救った段階で、皆様はそのまま異世界で生きるか、元の世界に戻るか選択できます。そして、活躍次第で私からご褒美を与えましょう。お金でもなんでも、私の力の及ぶところなら望みのままに与えましょう」


 その言葉を聞いた一部の生徒の目の色が変わる。


「それではそろそろお時間です。頑張って世界を救ってください」


 金髪の女性がそう言うと、辺りが再び光に包まれ始める。


「待て! 世界を救うって言うけどその条件は……」


 俺の質問の言葉は光にかき消されていく。


 聞きたいことは他にもいくらでもある。

 この女性は言いたいことだけ一方的に説明したが、肝心なことは何も言っていない。


 与えられるのはどんな能力なのか?


 敵がいるとして、自分達の強さはどれくらいなのか?


 異世界で死んだら、元の世界でも死んでしまうのか?


 転生している間、元の世界の俺たちの存在はどうなっているのか?


 俺の人生の目的は、身を削って俺を育ててくれた母親に、恩返しすることだ。

 これまで苦労させた分、何倍にもして恩返ししたい。

 元の世界に戻ったにも関わらず、すでに母親が亡くなっていたりしたら、目も当てられない。


 だが、それらの疑問に対する答えを得られることもなく、体が光に包まれていくのを感じる。


 仕方なく俺は、気持ちを切り替えてミホの方を向く。


 母親以外で唯一心を許せる存在。

 このわずかな時間で、ミホの存在は、俺の中で驚くほど大きくなっていた。


 他人からの好意に飢えていたせいかもしれない。

 だからミホのことが、よく見えているだけかもしれない。


 それでも今、ミホのことを守りたいという気持ちには嘘がない。

 母親がいないのなら、異世界において俺が最大限守るべき存在はミホ以外にない。


 俺は光の中でミホに向かって手を伸ばす。

 ミホも同じように俺に向かって手を伸ばす。


 もう少しでお互いの手が触れようかというまさにその時、俺たちは再び光の渦に飲み込まれた。

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