救世のホライゾンブルー
射月アキラ
Ⅰ 神話の国
序章 惨禍の刃
01
「邪神が嵐の内より解き放たれしとき、我が子は人の身より生まれ、救世の役を負うだろう」
──アレクシス大戦記 末尾より抜粋
*
天井が崩れる。
木材の割れるけたたましい音と共に、差し込んだ日光が建物の崩壊を知らせた。悲鳴と怒号、逃げまどう人の体に押され、グレンはとっさに腕で頭をかばう。
近くにクローディアがいないことに気付いたのは、屋根の崩れた建物の中央から人々が離れ、閂を外した扉から外へ逃げ出し始めたころだった。
「嘘だろ……クローディア!」
舞いあがった埃を腕で払いながら、グレンは崩れた屋根の残骸へ足を向ける。その向こうからグレンを呼ぶ声が聞こえて、しかし割れた木材が接近を許さない。
越えるにも崩すにも高すぎる瓦礫の山だった。
追い打ちをかけるように、背後から悲鳴が聞こえてくる。
──悲鳴、というよりは、断末魔の方が正しい。
グレンが振り返ると、出入り口の向こうに人が倒れている。
目を見開き、引きつった表情ではあるものの、その顔には見覚えがある。ついさっき、商店の並ぶ通りでクローディアに声をかけてマナの果実を売り込んだ、青果店の店主だった。
「おっちゃん!?」
思考など吹き飛ばして、グレンの体は倒れた店主に駆け寄った。
じわじわと、男の体から流れる血液が石畳に広がっていく。投げ出された手指はおろか、瞳さえ動いていない。
傍らにかがんだときには、店主が死んでいることなどグレンもとっくに理解していた。それでも手をのばそうとして、
「────!!」
ぞくりと総毛立つ感覚に、ほとんど反射的に飛びのいた。
グレンの頭があった場所を、歪曲した刃が通り抜ける。
刃先が店主の死体をかすめて、残った血がじわりと服ににじむのが見える。
両足で石畳を踏みしめて減速し、グレンは顔を上げる。無意識ながら広いスペースのある通りへ飛び出していたらしく、明るく開けた視界には半壊した建物があった。その入り口近くに立つ男が一人、武器の長い柄を地面についてもたれるようにして、グレンに目を向けていた。
黒と赤を基調にした、敵国フリーデンの軍服。長い柄の先についた、歪曲した刃。
こいつが、とグレンの中に敵意が生じかけた瞬間。気の抜けた甲高い口笛が鳴って、一気に毒気が抜かれる。
「よく避けたなぁ、今の。もしかして傭兵か? それとも兵士の息子とか?」
親しげに話す男は、しかしその目に鋭い殺意を宿していた。
グレンの思考に空白が生じる。
数瞬前、確かにその男に殺されかけた。なのに、その姿を捉えてから敵意や警戒心といったものがごっそりと抜け落ちていく。長物の武器すら男の延長に見えて、緊張感のない姿勢は背景の一部のようだ。
男がゆらりと長物を持ちあげて店主の死体をまたぐまで、グレンは呆けたまま固まっていた。自然体のまま歩み寄ってくる男に対し、慌てて腰の剣を抜く。
明らかな敵対行為を前にしたというのに、男は笑みを浮かべながら口を開いた。
「玄人みたいに避けたと思ったら、素人みたいに固まって、そっから反撃準備ときたか。ドキドキさせてくれるじゃねぇか」
「お、前……なんなんだよ」
震える手に力を入れて、グレンはどうにか問いを投げ返す。
いまだ、明確な敵意はグレンの中に芽生えていない。そのくせ男の視線に込められた殺意だけは感じとれていて、グレンの体は敵対よりも逃亡を訴えているようだった。
「なに、ってなぁ……随分難しい質問だ」
ふざけた調子で言う男から目を離さずに、グレンはじりじりと距離をとる。
男は片手で長物を掴みながら、空いた手で軍服の胸を示す。
「どう見ても敵国の人間だろ? それ以外のなにかに見えるのか?」
剣を向けられても、男は平然と歩いている。後ずさるだけでは時間稼ぎにしかならず、かといって背中を向けるには恐ろしすぎる相手だ。
ようやく湧きあがってきた緊張感に、グレンの呼吸が浅くなる。
「──スキナー親衛隊長」
と、声がして。
極度の集中で狭くなっていた視界が、急に開けた。
男からさほど離れていない場所に、同じくフリーデンの軍服を着た兵士が立っている。右手には抜身の剣、切っ先は石畳の上で座り込んだ一般人へ向いていた。
「────っ!」
「陛下のご命令を、お忘れなきよう」
「あー、はいはい。分かってるって。面白いからって、わざと逃がすこたぁしねぇよ」
流れるような動作で、スキナーと呼ばれた男は長物を構えた。
ようやく殺意と姿勢が噛み合って、グレンの意識が明確に「敵」を捉える。
しかし──遅すぎた。
視界の端にいる一人だけではない。グレンの周囲にはまだ何人もの人々が、同じ建物に逃げ込んだ住民たちが、抵抗する術も持たずにいる。
フリーデンの兵士だって、たった二人ではないだろう。
「敵国民は全員殺せ──なんて言われちゃ、逆らう理由は特にねぇ、なァ!」
言葉の最後を掛け声代わりに、スキナーが長物を振り回した。
首筋に走った悪寒を目印にして、グレンは剣を移動させる。刃同士がぶつかり合う金属音。耳元で発生した暴力的な音をよそに、グレンの目はスキナーから離れていた。
兵士に剣を向けられ、腰の抜けた住民へ。
「おいおい、他人の心配かぁ?」
スキナーの声音は、いまだに軽い調子だった。
対照的に重い蹴りが、グレンの腹に打ち込まれる。蹴飛ばされて石畳を転がり、呼吸を取り戻す間もなく、スキナーの追撃が再び首を狙っていた。
振りあげた剣がかろうじて刃を弾く。
金属音に紛れて、また口笛。満足げに笑んだスキナーが、蹴りを入れた場所へ今度は靴底を踏み下ろす。
「が、ぁ……!」
「本当に、分かんねぇなぁ」
呻くグレンを無視して、スキナーは愉快そうに問う。
「てめぇこそ、なんなんだ? ただのガキか? 修羅場くぐった化け物か?」
答える余裕などあるはずもない。グレンの口には鉄の味がにじみ、どうにか吸い込んだ空気にも鉄の匂いが含まれているようだった。
いや──事実、含まれている。
石畳の上で仰向けになったグレンの頬へ、生暖かいものが跳ねる。
人の体が倒れる音が、背中から伝わってくる。
金属音で潰されていた耳に音が戻り──住民たちの命乞いと断末魔が。
「────あ」
「まぁ、いいか。ガキも化け物も、死ねば死体だ」
風を切る音がして、歪曲した刃がグレンの額に向けられた。
しかし、グレンの目はそれを見ていない。見ているのだが、頭で認識できていない。
周囲で渦巻く恐怖と絶望が、憎悪と戦意が黒いもやとなって視界を汚染して、
グレンの意識は、そこで途切れた。
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