第1話 聖夜の記憶
玄関にいた老犬のベスが名残惜しそうに私の顔に鼻を近づける。そんなベスの頭を撫でながら立ち上がった。
「
「いえ、お気になさらないでください。お義父さんもきっと──」
最後まで言わなかった。義母の
「あんなにお酒に強かったお父さんがつぶれて眠ってしまうなんて。悠真さんが来るといつも嬉しくて飲み過ぎるのね」
私は苦笑いしながら会釈をして、玄関のドアを開けた。冷たい師走の空気が大きな音を立てて入り込む。
「大丈夫? 夜道、気をつけてね」
「はい、慣れてますからご心配なく。今日はご馳走様でした。お義父さんにもよろしくお伝えください。……じゃあなベス」
ベスに目をやるとベスはくぅんと悲しそうな鳴き声で答えた。
本当に優しい御両親だ。妻の
私は義父の
美沙の実家のある横浜市都筑区中川中央の一帯は、緑地公園や遊歩道が住宅街にうまく融けこんでいる。私は自然と調和した遊歩道を歩きながら、美沙とよく並んで散歩したことを思い出していた。長い散歩の時は二、三駅の距離を歩いたこともあった。毎回新しい発見があって退屈しなかった。
地下鉄の出発のアナウンスが風で散り散りになって聞こえてきた。駅に近づいたのだろう。街の灯でライトアップされた赤い観覧車を見あげる。
センター北駅に隣接するショッピングモール『モザイク港北』の屋上には観覧車があるのだ。街のシンボルになっている。
市営地下鉄ブルーラインの走るセンター北駅、センター南駅の周辺はこのようなショッピングモールが併設されているため、ちょっとした買い物にも困ることはない。美沙はこの街が大好きだった。
センター北駅の改札はまだ多くの家族連れやカップルで賑わっている。今日は十二月二十四日。聖夜を幸せに過ごすのだろう。
横浜へ向かう電車に乗り込むと、美沙と過ごした最後のクリスマスイブのことを思い出した。
そう、あの日も今日のように風が冷たい日だった──
──二年前のクリスマスイブ
仕事から帰ってきた美沙が玄関でロングブーツを脱ぎながら、先に帰っていた私に廊下越しに話しかけてきた。
「ねぇねぇ悠真、今日ショップでこんなのもらっちゃたんだ!」
ショップとは美沙がパートで働いている小さなアンティーク販売店のことだ。結婚後、勤めていた大手食品会社を辞めた美沙は、自宅の近くで求人広告を出していたその店で働き始めていた。
美沙はアンティークには昔から目がなく、買い物やネットサーフィンでお気に入りのアンティークを見つけると、時間がたつのを忘れて一日中見とれていたほどだった。そんな美沙にとっては、趣味を兼ねて働けることは幸せだったのだろう。
ダイニングに入って来た美沙は、クリスマスイブのディナーの準備をしていた私の手を強引に引っ張った。外はかなり寒かったのだろう、美沙の手はまだ氷のように冷たかった。
リビングのお気に入りのリサイクルウッドテーブルの上には、真っ黒な古めかしい時計のような物体が置かれていた。
「美沙、これは?」
「ショップの倉庫で古いチェストを廃棄しようと解体していたら、二重底に細工された引き出しを見つけたの。そこから……」
その物体はA4のノートパソコンを開いたほどの大きさで、厚みが五センチほど。ルーレットのように窪んだ形をしていて、大きさの異なる円が三つ、同心円状に描かれている。いや、円状に文字が並んでいると言った方が正しいだろう。
そして何よりも特徴的なのは、中央部から突き出している異常なほど先端が尖った円錐と、その円錐の周りに付いている三本の奇妙な時計の針のようなもの……
「店長に報告したら、どうせ捨てるつもりだった価値のないチェストだから、中のものも全部もらってくれて良いって──」
「気前がいいな」
「店長からの『少し早めのクリスマスプレゼント』よ」
私は美沙がもらってきたプレゼントよりも、作りかけのクリスマスディナーに意識が向いていたのだが、それを悟られないように話をつないだ。
「時計ではないみたいだが……」
「うん……大きさの違う円が三つ、そしてこの長さの違うこの三本の針……」
三本の針はそれぞれ、悪魔、
最も長い針が悪魔。いわゆるよくある三叉槍を持った悪魔ではなく、頭部は大きな二本の角の生やしたヤギ、上半身は人間、下半身は毛むくじゃらの獣の姿をした悪魔である。
二番目に長い針が道化。トランプに描かれているような道化で、口は大きく裂け、無慈悲な微笑みを浮かべている。手足の関節はマリオネットのようにありえない方向にまがっている。アメリカの小さな子供が見ると泣きだしてしまいそうだ。
短い針が女性。女性は中世ヨーロッパの貴族のような服装を着ていて、右手に松明を持っている。布で目隠しをされているのが不気味だ。
「何だか気味が悪いな……」
「あれ? この針、全く動かないわ。さっきは動いたのに……」
私の心配をよそに、不気味な針を興味津々に指でなぞっている美沙。
そんな無邪気な美沙を愛おしく思い、私は彼女の右肩にそっと手をおいた。
美沙は優しく微笑みながら、私の手に華奢で色白な手を重ねる──
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