1章12話
記憶の中にある場所は、どこであれ未知の場所よりも安心できるものです。若く探究心旺盛な頃は新たな発見や出会いを求めたものですが、歳を取るに従いそんな熱意は薄れて行きました。未知との遭遇よりも自分が迷子になってしまうことが怖いからです。
本日は朝から外の様子が騒々しく、街のあちらこちらで大きな声が聞こえてきます。宿を出ると近隣の建物に飾り付けをしている人達の姿が目につきました。
「今日はお祭りなのかしら」
「領主様の御令嬢パーティが迷宮の未踏破階層を攻略して新たな階層入口を見つけたそうなのです。それを祝して領主様自らがお祭りを企画されたのですよ、全く親馬鹿なことですが」
お店の前を掃除していた宿の女将さんがそう教えてくれました。御令嬢主催のパーティにお祭りを被せるなんて、本当に親馬鹿ですね。若者の集いに親がしゃしゃり出て良いことなど一つもないのですから。
「領主様のお気持ちも分からないではないのですけれど」
「そうなのですが、別に迷宮を攻略しなければならない大義もありませんからね。目の色を変えて絶賛するのは迷宮を研究しているような学者先生だけですよ」
ゼペットさんなら目の色を変えるのかしら。私は興奮してパーティを絶賛する彼の姿を想像してほくそ笑みました。
「まあでも街を上げてのお祭りですから、近隣の街からも観光者が来るでしょうし私らにとってはありがたいのですけどね」
この街以外にも人の住む場所があることを失念しておりました。翔くんもいづれは色々な場所に行きたいと語っていましたし、もっと広い世界に目を向けなければいけませんね。私は女将さんに会釈をしてから広場へ向かいました。今日はのんびり黒猫を探してみる予定です。
猫は塀の上でよく見かけた記憶がありますので、宿から広場までの間を探してみたのですが見当たりませんでした。と言いますのも、この区画には塀がないのです。眺める限りどこまでも滑り台のような建物が並んでいるだけなので、この区画どころかもしかするとこの街には塀がないのかもしれません。
別に塀がなくとも猫くらいはいると思うのですが、黒も白もトラも三毛も、その姿を見かけることはありませんでした。いつか黒猫とばったり出会うのを待つしかないのでしょうか。
広場の中央にはステージが組まれ、そこかしこに動物らしきものを模して飾り付けられた急造のオブジェが立ち並んでおりました。いつもは見かけない、一般人とは明らかに異なる武装をした兵士と思しき人達の姿もあります。
ほら、そこもっと右!
急げよ、夕方までに終わらんぞ。
祭りは一週間続くんだ、その間に儲けねばな。
違いない、御令嬢さまさまだぜ。
活気があるのは嫌いではありませんが、賑やかすぎるのは苦手です。いつも座っていたベンチの周囲にもオブジェが設置されており、のんびり一休みできる雰囲気ではありません。この広場以外で寛げるような所に心当たりはありませんし、そもそも宿と広場とゼペットさん宅くらいしか一人で行けるような場所はありません。この街にきて二ヶ月以上経ちますが、私の行動範囲は恐ろしく狭いのです。
途方に暮れている私の前を、荷台を空にした数台の馬車が横切って行きました。その馬車列は街の門へと向かっているようです。お祭りなので商人さんも忙しそうですね。そう考えてもう一箇所だけ一人で行ける場所があることに思い当たりました。
私と翔くんが初めてローマンへ来た時に見た、壁の外側にある貧民街です。あそこならここから一本道ですし、何となく猫もいそうな気がします。少し休憩してから足を伸ばしてみようかしら。
街を囲む壁はとても厚く、抜けるまでのトンネルは手押し車を押した私の足で三十歩もありました。トンネルの中程に扉があるのを見ると、内部で誰かが暮していたり事務所のようになっているのかもしれません。
街側の入口あたりから徐々に悪臭が漂い始め、外側の出口に辿り着くとそれはよりいっそう顕著になります。正にトンネルを抜けるとそこは別世界ですね。以前通った時も悪臭を感じましたが、あの時は気持ちが先の街中にありましたのでさして気にも留めませんでした。けれど今回は目的地がここなので、この不衛生極まりない空気と暫く格闘しなければなりません。
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