1章10話
広場の賑わいに交じり、遠くで鉄を叩く音が聞こえます。それはこれまでも聞こえていたのですが意識を向けなければ直ぐに零れ落ちて行く類のものなのでしょう。
ゼペットさんに起こった変化も、もしかしたら私達が気にせず零していただけで、日々着実に何かが蓄積された結果なのかもしれません。
「……精霊達が……歓喜しておる」
静かにそう発して深く座り直したゼペットさんは、両手を空に掲げて何かを浴びるような姿勢をしています。昼下がりの陽光は等しく全てに降り注いでいますが、彼の周囲だけ他より強い光に包まれて感じるのは不思議ですね。
「おじいちゃん、本当にどうしたのよ」
「じいさん、光合成ならよそでやれ」
さすが翔くん、私が感じていたことを的確な言葉で表現してくれたわ。陽の光を全力で取り込んでいるような格好は、さながら向日葵のようです。
「すまんかったなフェル、それとショウくんだったか」
「凄い、おじいちゃんが初対面で名前を……」
「何だよそのくらい。うちのるり子なんて戦闘もできるんだぞ」
自慢げに私の肩へと手を置く翔くん。でも「うちのるり子」だなんて、少し恥ずかしいわ。あと半世紀も若かったらのぼせ上っていたことでしょう。
「それとルリコさん、貴女と過ごした時間は覚えておりますぞ」
「あら、やっと名前を呼んで下さったわね」
出会って二ヶ月もの間、深い場所で眠っていた彼が戻ったのを確信しました。
「改めて名乗ろう、儂は魔導士のゼペット・ミラー。老い先短い齢九十ではあるが心持ちは八千代に壮年ですぞ。失礼ですがルリコさんはお幾つですかな」
「おじいちゃん、女性に歳を聞くのは失礼よ」
幾つになっても歳は気になるものですが、そんなことを言っていては偏屈な老人だと思われてしまうわね。
「フェルさん良いのよ。今年で八十一になります」
「信じられん、まるで七十代に見えますな」
「違いが分からねぇ……」
フェルさんから聞いてはいましたが、やはりゼペットさんは魔導士なのね。それにお口もお上手だし、若い頃は相当おモテになったことでしょう。
その後も彼は饒舌に色々と語って下さいました。若かりし日の体験談、奥さんとの出会い、子供が産まれた日の興奮、孫ができた時の喜び、死を覚悟した冒険の数々、そして意識が心の深淵に沈んで行き、自分ではどうすることもできなかった悔しさ。そのお話はどれもとても興味深く、軽口を叩いていた翔くんでさえ静かに聞き入っているほどです。しかし余りにも長く喋っているせいか、お口の回りが渇いて見えますね。
「ゼペットさん、一服されたらどうかしら。粗茶ですがどうぞ召し上がれ」
「これは助かりますわい……ふぅ、冷えていて美味しいですな。それに何だか力が漲ってくるような。薬効飲料ですかな」
「いいえ、ただの麦茶ですよ」
「ふむ、しかしこれは……少し調べさせてもらいますぞ。【数多の精霊を統べる光の大精霊よ 我ゼペット・ミラーの錬魔素と引換えにその智を貸し与え賜え エグディード】」
よく分からない言霊を唱えたゼペットさんの目が一瞬白く輝きました。初めて見ましたが、これが魔法なのでしょうか。暫く真剣な眼差しで私の方を見つめていた彼は、やがて信じられない物を見たような顔になりました。
「どうかされましたか」
「これは凄いなんてものではない……慈愛の麦茶。聖属性、滋養強壮、解毒作用、疲労減退。それに微弱な若返り効果。まるで神代の飲物ですな」
「むしろ、相田さんが神だけどな。知ってるか、すげー優しくて金持ちなんだぜ」
そう言って自慢気に胸を張る翔くん。神様だなんて勿体ない、それを言うならこの世界へ落として下さった方こそが神様だわ。
「それだけでも驚きですが……聖なる手押し車。アイダルリコ専用アイテム、聖属性、退魔障壁、魔素集積」
「おおっ、やっぱ魔道具だったんだな」
「尽未来際のヤカン。アイダルリコ専用アイテム、無属性、内容物無限維持。尽未来際の紙コップ。アイダルリコ専用アイテム、無属性、数量無限維持」
「まあ! なんて経済的なのかしら」
翔くんやフェルさんも驚いているようですが、私が一番驚いています。毎日使っていた物にそんな素晴らしい効果があったなんて夢のようです。
「すると、じいさんが元気になったのは」
「うむ、間違いなくルリコさんのおかげでしょうな。二ヶ月もの間、慈愛の麦茶を振舞ってくれたのだから。何を持って礼に変えるか想像もできんわい」
ゼペットさんが日々隣りにいてくれたおかげで退屈もなく過ごせておりました。誰かが隣りにいる、それだけで老人は安心できるものです。実りのある話こそ出来てはおりませんでしたが仄かな仲間意識は芽生えておりました。
「お礼なんて要らないですよ」
「いや、そうはいかん。儂にできることは何かないかね」
この歳になると欲しい物は健康くらいですが、それはもう叶いました。ですからこれまで通り、お話相手をして下さるだけで嬉しく思います。
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