023:『忘れ物』


 『近いうちにまた来るよ』そう言うと九十九無接は、神社の階段の中央を、堂々と、淡々と、下って行った。

 その背中は、どこか悲しげにも窺うかがえた。


 そういえば、九十九は気になる事を言っていたな。『最近変だとは思わないか』とか、ある男を知らないか、とか。

 確か...いえしき...とか言ったか。いえしき、漢字はどう書くのだろうか。家指揮? それとも、家式だろうか?

 まぁ、そんな事はどうでもいい。知らないものは知らないのだから。


 日課である神使の餌やりも終えた事だし、神室に戻ろう。


 神社の裏手。海を眺める事が出来る表側とは違い、見渡せど木々が生い茂るだけの神社の裏側。表側を庭と呼ぶとしたら裏庭と呼ぶべきであろう区域。その裏庭に佇む、一見すると蔵にも見えるであろう俺達が神室と呼ぶ建物。

 ボロボロな神社とは比べ物にはならない程立派な、その蔵の様な建物へ俺は向かった。


 神室の扉を後ろ手で閉めつつ、俺達が居間の様に使っている六畳程の和室へ入ろうと戸に手を掛けた時、中からワイワイガヤガヤと楽しげな話し声が聞こえてきた。


 相変わらず元気な奴らだな。まぁ、元気な事は良い事なのだが。


 ん? 


 中から聞こえてくる声。それは、景の声と俺の二人の妹達の声だけ。

 美月は何処かに行ったのだろうか?こんな楽しそうな会話に参加しない美月ではない。

 きっと何処かに行っているのだろう。トイレとか、散歩とか。

 いや、トイレは考えられるが、散歩というのは考えにくい。そもそも美月が独りで居る所を見た事がない。

 今まで不本意ながらも一緒に暮らしてきた俺には分かるのだ。

 

 美月は寂しがり屋だ。


 不本意と言うと、まるで俺が美月と一緒に居たくないみたいに聞こえてしまう。

 別に一緒に居たくない訳ではない。一緒に居たいと言うと大袈裟だが、一緒に居たいか一緒に居たくないかと聞かれたら、一緒に居たいと答えるだろう。

 勿論、美月だけではなく、景や俺の上の妹であるところの黒峰くろみね 志乃芽しのめ、下の妹の黒峰くろみね 志乃花しのかとも一緒に居たいのだが。

 

 そんな事を考えながら、美月が何処に行ったのか、とも考えながら俺は、ワイワイガヤガヤと賑わう部屋の戸を開けた。


 「暑っ!!」


 夏に、しかも今年の夏の中でも一段と暑いこんな日に、よくもまあ戸を閉め切り騒げるもんだな。

 

 「灯夜殿、お仕事お疲れ様です」


 「いや、神使の餌やりなんて仕事でもなんでもない。趣味の範囲だ」

 

 「ほぉ、灯夜殿はそんな嗜好しこうがあったのか」


 「なぁ景、嗜好という言葉のその使い方は間違っている訳ではないのだが、嗜好とは飲食物に使う事が多い言葉だから嗜好と言うと、まるで俺が神使を、神使と呼ぶ鶏にわとりを食べようとして餌やりをしているみたいに聞こえるじゃあないか」


 「違うのか? 灯夜殿? 私はそうなのだと思い、色々と調理法も考えていたのだが」


 「違う!! 食わない!! 食べたくない!!」


 「しかし、鶏肉が嫌いな訳ではなかろう。いつか私の作った鶏とりの照り焼きを貪むさぼっていたではないか」


 「貪ってはいない!! 確かに鶏肉は、それこそ嗜好品ではあるが、でも自分が愛情もって育てた鶏にわとりを食べるなんて俺には出来ない!! 頼むから神使を食用として見るのは止よしてくれ」


 「分かった。灯夜殿がそこまで言うのならば、今日の食事の予定だった神使の照り焼きは先送りにしよう」


 「先送りにもするな!! 中止だ中止!! しかも神使の照り焼きってなんだよ!! 鶏とりじゃなく神使と呼ぶのなら尚更なおさら食べるな!! 神の使いを食べるなんて罰当たりも甚はなはだしい」


 なんて怖い女だ。しかも今日食べようとしていたなんて...いつか俺も調理され兼ねないな。神の姿焼きとか...

 いや、それは流石にないか。


 景は、そそくさと本を広げ、ぶつぶつ言いながら神使の照り焼きに代わる食事を考え始めた。


 「祟り神兄ちゃん!!」「バ神様兄ちゃん様!!」


 そんな声の主は俺の妹、メカ姉妹と言われる、俺の可愛い二人の妹である志乃芽と志乃花だ。


 「おい、お前ら兄ちゃんを敬うやまっているのか見下しているのか、いったいどっちなんだよ」


 「見下しながら敬っている」


 そう答えたのは逆靴下でお馴染みの、元気溌剌げんきはつらつ日焼け少女、上の妹で中学二年生の志乃芽だった。

 しかし、見下しながら敬うとは器用な事をするもんだ。と、志乃芽の方を見ると、志乃芽は腰を下ろした俺に、まるで鉄塔の如く、腰に手を当てながら偉そうに見下ろしていた。

 見下しながら敬っているとはそういう事か。


 「まったく、お兄ちゃんは見下されるのが好きなんだから。変態さんなんだから」


 トラさんとかゴリラさんみたいに、一見すると怖そうなものでも、語尾に『さん』をつける事によって可愛らしく聞こえてしまうという『さん』の力を持ってしても、変態には敵わないのだ。むしろ、変態に『さん』をつける事によって、変態を更に変態化させている様にすら思える。変態でスケベ。そんな風に聞こえてしまう。

 こんな感じに俺を蔑さげすむのはメカ姉妹の小さい方、元気凛凛げんきりんりん絵描き少女、下の妹で中学一年生の志乃花だ。

 鉄塔の様に佇たたずむ志乃芽の足の間から、困った様な顔をしながらこちらを見つめている志乃花。


 なんなんだこの姉妹は。

 よく見ると、三人とも凄い汗じゃあないか。


 「三人ともよくこんな暑い所に居れるよな」


 「そうかなぁ、暑いとは思わなかったよ」


 志乃芽の足の間から志乃花が言った。


 「いや、そんな汗だくで説得力ないから...」


 「暑いと思うから暑いのだ兄者」


 微動だにせず志乃芽が言う。

 兄者って...


 「私なんて寒い寒いって考えていたら本当に寒くなったんだ」


 「そんな事...って、志乃芽、本当に寒いのか?」


 志乃芽は鼻水を出しながら青ざめていた。

 考えただけでそんな事があり得るのだろうか。

 確かに、イメージトレーニングには効果があるそうだが、この志乃芽の状況というのは異常ではないだろうか。

 もしかしたら志乃芽の想像力が異常なのかもしれない。想像異常で想像以上なのかもしれない。


 「なぁ妹よ。妹達よ」


 「ん? なんだい兄者?」「なんなんだい兄上?」


 「美月は何処に行ったんだ? トイレにしては些いささかならず遅いと思うのだが」


 「あぁ、美月さんならそこだ」


 と、志乃芽は掘り炬燵こたつ式になっている炬燵に指を指した。

 すると、炬燵の板の部分の中央、今までこいつ等が食べていたであろうスナック菓子が散乱する中央部分が、『ゴンッ』と大きな音を立て、スナック菓子が一瞬宙を舞ったと思ったら、なんと炬燵が『痛っ』と、喋ったのだ。


 日本には民間信仰における観念で、長い年月を経て古くなった物などには神が宿ると言われている。付喪神つくもがみの事だ。

 恐らく、この炬燵も付喪神になったに違いない。

 いや、この炬燵はまだ新しい。そんな考えが正しかったとしても、この炬燵が付喪神になるには、まだ日が浅過ぎる。

 じゃあ、と炬燵の下を俺は覗き込んでみた。


 「おい...そんな所で何をしているんだ...美月」


 「いやぁ ちょっと暑くてねぇ。此処に居れば日が当たらないから、少しだけ涼しいんだよ。灯夜も来る?」


 「行かない!! 早く出て来るんだ。」


 美月は小動物の様な小さな体で、ヒョイと炬燵の中から出てきた。


 ん?


 「美月? その手に持っている物は、俺の日記帳ではないか?」


 「そうだよ。私の事ちゃんと書いているか気になって見てしまいました。ゴメンナサイ」


 「まぁ、別に良いけどな」


 そうか、さっき美月の声が聞こえなかったのは、俺の日記を読むのに夢中になっていたからだったのか。

 美月は俺の横にちょこんと座り、お尻でぐいぐいと俺に近寄る。

 

 「灯夜ー、この字は何って読むのー? 多分、人の名前だと思うのだけども字が読めなくって」

 

 語尾が緩い特徴的な喋り方で美月はそんな質問を投げかけてきた。

 

 この日記を書いている間は、殆ほとんどと言っていいほど美月と一緒に居たのだから、美月が知らない人物が日記に登場しているとは思えないのだけども。

 さっき会った九十九つくも無接むつぎの事ならば美月も知らないだろうが、九十九の事はまだ日記には書いていない。

 美月はいったい誰の事を言っているのだろうか。


 「どれどれ?」


 【己己己己】


 ......己己己己いえしき!! なんでだ?! 何故俺は今まで己己己己の事を忘れていたのだ。こんな存在感の強い男を俺は...

 記憶が雪崩の様に戻ってきた。


 「己己己己だ美月!! 己己己己いえしき 神威かむいだ」


 「いえしき? かむい? だーれ?」


 嘘だろ...

 その後俺は、景にも妹達にも己己己己の事を聞いてみたが、皆から返ってきた言葉は『知らない』だった。


 なんでだよ...それに己己己己は何処に行ってしまったんだよ。

 あの男、九十九というあの男も己己己己の事を探していた。

 日記を見返す事によって一度思い出した事は絶対に忘れる事はなかった俺の記憶からも居なくなった己己己己。

 あんたはいったい何をしたんだよ...


 そうだ、境内。己己己己がいつも寝起きしていた境内に行けば、何か分かるかもしれない。


 走った。距離にして二百粁にひゃくキロメートルもないだろう境内まで俺は走った。

 『どうしたの』と四人に聞かれたが、言葉を返すこともなく俺は走った。


 境内の中には己己己己が使っていたであろう布団、いつか己己己己と話しをした時に差し出された己己己己の手編みであろう円座。その横に静かに横たわる一本の剣。


 十束剣とかのつるぎ、かつて須佐之男スサノオが八岐大蛇やまたのおろちと戦った際に使ったといわれる直ぐに伸びる鍔つばの無いその剣は、まるで眠っているかの様に静かだった。

 物に対して静かという表現が正しいのか分からないが、本当に静かだったのだ。


 まるで人が眠っている様に。


 後ろを振り向くと四人が心配そうにこちらを見つめていた。


 「灯夜...」


 美月の心配そうに俺を呼ぶ声を遮る様に、四人の後ろ、境内の向かい側、神社の長い階段を上り終えた所から男の声がした。


 「やっぱりな。そんな事だろうと思っていたよ」

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