001:『失った夜』
俺は夜が嫌いだ。
普通の人が普通に過ごす日常。それは俺にとって普通ではない。
俺には、皆に有るものが無いのだから。
人間誰しも嫌いな物は有るはずだ。
【嫌い】それには色々な要因が有る。
醜いから 痛いから 寂しいから 恐いから などと、色々理由が有る。
俺は夜が恐い。だから夜が嫌い。
人が何かを怖がるのは、それを知らないから。知らない物だから恐いのだ。
黒峰 灯夜(くろみね とうや)、親がくれたこの名前も、実のところあまり好きではない。
夜が嫌いな俺に夜の灯火なんておかしい。
俺は夜というものを知らない。
そう、俺は記憶の中に夜というものは無いのだ。
つまりは、夜を見た事が無い。と、言うよりは、見たくないと言った方が正しいのだろうか。
俺は記憶上、一度も起きながらにして夜を迎えた事がないのだ。夜に目覚めた事も無い。
だからと言って、別段昼間が好きという事でも無いのだが。
昼は昼で光を避ける様に日陰ばかりを歩いている。何故かと問われれば、何故かは分からない。なんとなく、光の中に居ると体力が奪われていくような、そんな気がしてならないのだ。
俺がこうなってしまったのは中学の時の事。中学二年の夏休みに話は遡る。
友達と一日中遊んで疲れた俺は、帰り道にある神社で少し休んでいた。気付くと眠ってしまっていた。
辺りは暗くなり、焦った俺は、急いで家に向かって走った。
今思えば、あれが夜というものではないだろうかとも思う。
家に向かい走っていると、衣服は乱れ体のあちこちに傷を負い、血を流している、年齢は40代位でやせ型の男が急に、眼前に現れた。
眼前、読んで字の如く本当に目の前に現れたのだ。暗夜(あんや)の礫(つぶて)の如く、突然に俺の眼前に現れた。
さっきまでは居なかった。
太陽は空には無く、辺りは暗かった。
だが、太陽には敵わないのだが、空には光る丸い球体の様な何かが有り、俺の行く道を照らしてくれていた。
それは空のずっと向こう、俺のこの時居た暗い世界とは別の世界、光の満ちた別の場所にあるというのは、この時なんとなく分かっていた。
その光る何かが何なのか、俺にはまだ分からなかった。
もしかしたら、前の俺ならば、その光る何かの事を知っていたのかもしれないが。
その何かの光によって照らされた道を走っていた俺には、この血だらけの男がさっきまでは俺の前に居ない事は確認済である。
その男は、まるでずっとそこに居たかの様に、俺を待っていたかの様に忽然と、忽如(こつじょ)と眼前に現れた。
正直言うと、怖かった。怖くて恐かった。恐怖、それである。
血だらけで立つ男は本当に恐かった。
お化け屋敷で怖がるのとも違う本当の恐怖。
お化け屋敷であれば、怖いというのは当たり前であって、今から怖い事があると知っている。
お化け屋敷が怖いというのは一般論であって、俺はお化け屋敷を怖いとは思った事が無いのだが。
本当に大人気ないのだが——いや、中学生はまだ子供か。
じゃあ、子供気ない。
こんな言葉の使い方は正しくはないのかもしれないが。
俺がお化け屋敷を怖がらない理由は、本当に子供気ないのだが、お化け屋敷のお化けというのは人間だから。そんな理由である。
もしもお化け屋敷に本物のお化けが出たとしても、俺は人間だと勘違いして怖がる事はないだろう。
怖がらないとは言ったものの、確かにお化け屋敷では怖がる事はないのだが、驚きはする。
お化けでなくとも急に何かが現れたら、誰だって驚くものだ。
だから俺は、お化け屋敷ではなく驚き屋敷でいいのではないかと思うのだ。
もしも急に現れたものに驚かないという強靭な神経の持ち主がいたとして、確かにそれは凄いのだが、それは神経が強靭なのではなく逆に、神経が衰えているのではないかと、俺は考えてしまう。
そんな、お化け屋敷でも怖がらない俺でも、急に現れた血だらけの男は怖かった。
勿論、突然現れたという驚きもあったのだが、驚きだけではなく、この時俺は恐怖も感じた。驚きと恐怖とが両々相まって、俺はその場に尻餅をついてしまった。
腰が抜けるとはよく聞くが、本当の恐怖を感じると、人は本当に腰が抜けてしまったかの如く立ち上がれないらしい。
男は、腰を抜かし震える俺に、今にも途切れそうな命を精一杯繋ぎ合わせながら、掠(かす)れかかった細々とした声で話しかけてきた。
「君、名前はなんと言うのかい」
俺は声を震わせながら言う。
「黒峰・・・灯夜・・・です」
「灯夜君か——良い名前だ」
ポタポタと、男の傷口から流れ出る血が薄暗い道を濡らす。
男は随分と弱りきった様子で話を続ける。
「灯夜君、怖がらせてしまって悪かった。灯夜君、君に頼みがあるんだ」
「なっ・・・なんでしょうか」
「私の代わりに皆を助けてくれないか」
「えっ・・・ 皆って、誰の事ですか?」
「君が力になってくれるなら、いずれ分かるよ」
「何の事ですか・・・ 意味が全くわかりません! そんな事より、病院に行った方がいいです!! このままじゃ・・・」
「ありがとう。でも私はもう助からない。分かるんだ」
「でっ・・・でも・・・」
「そんな事より、どうか皆を救って欲しい。お願い出来るかい」
善人と言える程の行いを今まで行ってきていない俺が、この後言った言葉というのは、偽りの言葉なのかもしれない。
偽りの善——偽善なのかもしれない。
人が為ると書いて偽り。
これじゃあ人の為すこと全てが偽りみたいじゃあないか。
世の中では、偽善を嫌う風潮があるが、忌み嫌う傾向があるのだが、偽善とはそもそも悪いものなのか。
善人とは呼べない人が行った善。それが例え偽りであろうとも、行った行為は偽りでは無く真実であって、嘘であろうともその行為自体は評価されるべきではないだろうか。
善的行いを行っていない人だって世の中には沢山いる。それなのに、善人でもない人が行った善を偽善と言って罵(ののし)る。偽りであろうとも善は善であって、何もしていない人に偽善者を罵る権利はないのではないのだろうか。
「俺に出来る事なら・・・何でもやります! 俺は、何をすればいいんですか?」
俺がそんな善的言葉を言ったのも、いくら偽りであろうとも、偽物であろうとも、偽善であろうとも、悪よりも善でありたい。善人でありたい。善人であろうとした。こんな俺でも善人になりたかった。俺なんかでも誰かを救えるならば救いたいと思ったからである。
「灯夜君、ありがとう」
そして男は、『とりあえず』と話を続ける。
「とりあえず——君の夜を私に貸してくれないか?」
訳が分からない。
男は、更に続ける。
「それ以外はしばらく何もしなくても大丈夫だろう。当分はもつと思う」
「夜をくれって、当分はもつって・・・いったい何の事ですか?」
「結界の様な物だよ。君の夜を使って結界を張る。結界は現状維持に過ぎないのだが...後は、時が来たらきっと君は少女と出会うだろう。その子の事を頼む——私の娘だ。灯夜君、宜しく頼む。娘と皆を救ってくれ」
男は空に光る球体を見上げながらそう言った。
訳が分からない事を宜しく頼まれてしまった。
そんな事を言った男は俺の方を見るなり優しく微笑んだ。
すると男はすこしづつ闇に薄れていく。
いや、これは男が薄れていってるのではなく、俺の意識が薄れていっているのだ。
と、気づいたのは、それからすぐの事だった。
はっ!
目が覚めたら、さっきの神社に俺は居た。
辺りはまだ明るく、夕方頃だった。さっきのは夢? だったのだろうか。
俺は、まだ覚束(おぼつか)ない足を無理やり動かし、帰路(きろ)につく。
きっと・・・夢だったのだろう。
俺が異変に気づいたのは、翌日の起床時のこと。
寝起きに昨日の事を思い出した。
昨日の出来事は本当に夢だったのだろうか・・・もっと詳しく考え直そう。
そんな事を思い、記憶を呼び起こした時だった。
・・・ん? 昨日の事は思い出した。鮮明に思い出したのだが。何かがおかしい。
昨日より以前の記憶が——無い。
以前の記憶どころか、それ以降の俺には夜を記憶する事は出来なくなった。
もう、俺に夜がやって来る事は無くなったのだ。
それが全ての始まり。
それがこの物語の、始まりの出来事となったのだ。
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