第六章

 北口駅前の公園。SOS団の大抵の活動はここから開始された、団御用達ごようたしの集合場所。

 市内不思議探索パトロールは結局通算で何度やったんだっけか。

 結局それで不思議なものは何一つとして発見出来なかった。だが俺はそんな日々をとおして、かけがえのない別のものを見つけた。

 確かハルヒは前日に三人で廻ったルートを、あらためて一人で探索したと言っていた。

 常にハルヒと別チームだった俺は、午前に朝比奈さんとで西側、午後に長門とで南側を探索した。まあどちらも何かを探そうなどという気はさらさらなかったのだが。

 つまりハルヒはその逆で東側か北側のどちらかに向かっているはずだ。

 俺はハルヒの姿を見つけるべく、北方面に向けて当てもなく歩きはじめた。

 平日だというのに人通りが多い。相変わらず暇そうな若者たちがたむろしている。

 歩いてすぐ、いつもの喫茶店が目に入る。ここのコーヒーも随分とご無沙汰になるな。

 テーブルを囲みながら随分と色んな話をした。市内探索の方針やら、夏休みの活動計画やら、映画製作による悪影響の対策会議やら。まあ単なる無駄話が一番多かったがな。

 様々な思い出がよみがえっていた。ここのところ、俺には過去を振り返るような余裕はほとんどなかった。

 朝比奈さんに未来人の告白を受けた桜並木、長門と一緒に行った図書館、古泉との純高校生的徘徊、不服そうなハルヒのアヒル口……

 不意に誰かの指先が俺の肩を叩く。

 鶴屋さんか機関の誰かとでも出くわしたのだろうか。

 俺はなんの警戒心もなく振り向いた。そして俺は全く予想していなかった人物を前にし、たちどころに硬直した。

 そいつは実に晴れやかで、無邪気で、

「お買い物? それとも」

 そして二度と思い出したくもないあのときの笑顔でこう言った。

「人探し?」

 朝倉涼子。

 一度ならず二度までも俺を殺害しようとした、暴走宇宙人端末。

 俺はTFEI端末に近づかれることを何よりも避けなければならなかった。

 過去の長門の行動から、俺は下校後のハルヒにまで監視がついていることはないだろうと勝手に推測していた。自分の読みの甘さを激しく後悔した。

 朝倉は笑顔のまま、俺の返答を待っている。

 こいつは過去の俺と今の俺を混同したのだろうか。そんな楽観的観測をすぐさま俺は打ち消した。サングラスと髭面ひげづらの俺を呼び止めたのだ。例えそれがなくとも、こいつらがそんな単純なミスを犯すはずがない。

 俺は朝倉の問いかけを無視し、朝倉とは逆方向に走った。とにかくこいつから離れないとまずい。

 人ごみを避けながら走る。心拍数が急上昇する。走りづらい。

 一度目の襲撃は俺自身にもわけが解らないままに過ぎ去った。二度目のそれは考える余裕が全くないほどの不意打ちだった。だからそれらの事態に対して俺は取り乱す暇すら与えられなかったと言える。

 だが今回は違う。こいつが俺に対してこれから何をしようとしているのか、俺ははっきりと理解していた。そして今の俺には以前のような強力な助っ人は存在しない。

 俺はさっきの笑顔に、明らかに狼狽し、恐怖していた。

 呼吸が乱れる。足がもつれる。

 後ろを振り返る。朝倉は元いた位置に立ちつくし、不思議そうな顔でこちらを見つめていた。俺は前に向きなおり、なおも走り続ける。

 次の路地を曲がって、すぐに時間移動だ。同じ時空間にいるのはヤバい。

 あと数秒走れば大丈夫だ。このまま逃げ切れるか?

 その刹那、俺の目の前に突然朝倉が出現した。空間移動だと?

 この野郎、公衆の面前でなんて無茶しやがる!

 急ブレーキをかけた俺に、

「逃げることないのにな」

 と笑顔に戻った朝倉は、無茶をさらにエスカレートさせた。

 朝倉の右手が虚空こくうをつかむ動作をし、一呼吸でそれが振り下ろされたときには既に、奴の掌にアーミーナイフが光っていた。

 周囲の目を気にする様子など全くない。おそらくこいつは、コトが終わった後で周辺の人間全員の記憶を改変すればいい、くらいにしか思っちゃいねえ。

 一歩、また一歩と朝倉が歩み寄る。周辺から人が離れ、妙に落ち着いた感じで俺たちを眺めている。

 映画の撮影か、あるいは大道芸か何かだと思っているんだろうなきっと。女子高生がナイフを構えて怪しげなサングラスの男ににじり寄る姿など、普通に考えてありえない光景だ。

 ええい、どうする。俺も衆目に気を配っている余裕などなかった。モタモタしてる暇はない。ひとたび情報制御が開始されれば、この空間だっていつコンクリートに囲まれるか解ったもんじゃない。

 朝倉との間合いを測りつつ時空間座標を設定する。どこでもいい。朝倉の存在しない未来へ。

 朝倉が両手で固定されたナイフとともに勢いよく飛びこんでくる。俺は咄嗟に後方に飛び跳ねようとする。運悪く野次馬に激突する。まずい、避けられない。

 そして体全体が揺らぐ感覚がきた。



 間一髪、時間移動が間に合った。俺は、俺が高校三年だった頃の北口駅前に飛んでいた。

 俺が一番恐れていたことが現実となってしまった。情報統合思念体に俺の存在が知られてしまった。全てではないにせよ、おそらく朝倉は俺の記憶を読んだに違いない。

 だとすれば、当然ながら情報統合思念体からの攻撃が予想される。現に朝倉は俺に襲いかかってきた。

 今この時空に朝倉は存在していない。朝倉は異空間と化した一年五組の教室で長門に情報連結解除された。だがそれ以降の時空でも無論安心は出来ない。他のTFEI端末が襲ってくる可能性は十分にある。それが長門でないことだけを祈りたい。

 情報統合思念体に俺がいる時空間座標を割り出されるのはおそらく時間の問題だろう。時間移動を繰り返せば多少時間は稼げるだろうが、いつまでそんなことが続けられるだろうか。

 どうする? 考えろ。考えろ。

 未来の長門を頼れないか。いや、俺は既に情報統合思念体にマークされている。今、未来の長門に会うのは奴らに今後の計画を漏らすようなもんだ。危険すぎる。

 機関や古泉ならどうだ。だめだ。おそらく朝倉がその気になれば、一人で機関を壊滅させるくらい容易たやすいだろう。

 朝比奈さん(小)が役に立ってくれそうにないのは言うに及ばない。

 ハルヒ? そんなことをしたら今まで俺が苦労して積み重ねてきた歴史が全て水泡に帰す。考えたくもないな。

 つまりは、俺自身がこの状況をなんとかしなくてはならないのだ。

 これは既定事項なんだろうか? 朝比奈さんはなんと言った?

「わたしたち未来人はこれからのためのヒントを今まで色々と与えました。そのことをよく思い出して」

 焦燥する。頭が回転しない。思い出せない。

 あれこれと考えていた俺の背後から、呼びかける声がした。今さっきまで聞いていた声で。

「あなた、時間移動が出来るの? 驚きね」

 振り返る。そこには、この時代に現れるはずのない朝倉が立っていた。

 こっちの方が驚きだぜ。一体どうなってやがる?

 こいつはこの時間平面ではとっくに消滅しているはずだ。同期出来るわけがない。

 だったら何故こいつはここに来れる? 長門と違いTPDDを使えるとでも言うのか?

「何のこと? あなたの考えていること、よく解らないな」

 こいつ、やはり俺の思考を読んでやがる。考えるのは後だ。とにかく逃げなければ。

「どうぞご自由に。わたしはすぐに追いつくわ」

 朝倉の笑顔には余裕の色が現れていて、それが俺の恐怖をさらに煽り立てる。

 出来るだけ過去の座標を設定する。時間移動が開始された。体が揺れる。

 過去に到着した俺は、電波時計の時刻を合わせた。エラーが表示される。なるほど、まだ電波時計が実用化されていない時代までさかのぼってしまったようだ。

 俺は長らくの朝比奈さん捜索活動で時間移動を繰り返すことにより、一度に五十年近くの時間を移動可能になっていた。

 そうか。ならばここはハルヒの時間断層よりも過去で、奴は追いかけて来れないはずだ。これでじっくりと考える時間が取れる。


 まずは朝倉に関する情報を収集する必要がある。

 なぜ朝倉は未来にやって来れた?

 考えられるのは、この歴史では朝倉が消滅する事件がまだ起こってないか、朝倉がTPDDを使えるか、何らかの理由で朝倉が復活したかのいずれかだ。

 あの事件が起こったのは正確にはいつのことだ?

 そうだ。ハルヒが一人で市内を探索した翌日、つまりさっき俺が朝倉に肩を叩かれた日の翌日だ。

 俺は不思議なことが起こらないことで弱気になっているハルヒの姿を横目に見ながら、下駄箱に入っていたノートの切れ端に対して色々と考えをめぐらせていたのだ。

 ならばその日の前後数日間の機関の資料をあらためて確認すればいい。

 仮に、朝倉が消滅する歴史が生まれていないのだとしよう。ならば、その理由とはなんだ?

 俺は何かを間違えてしまったのか?

 あるいは、まだ足りない何かがあるのか?

 俺は今までの行動をあらためて振り返ってみた。

 俺は記憶を失い、ハルヒに出会って記憶を取り戻し、ハルヒの情報爆発を引き起こし、機関を作った。

 三年前の七夕でハルヒを手伝った。それでハルヒは北高に行くことになった。

 眼鏡少年を交通事故から救い、亀を与え、記憶媒体とハルヒの論文を送った。これで未来人組織は生み出された。

 未来人の男性の先祖にあたる男性を病院送りにし、未来人組織の男性に会い、朝比奈さんを救った。朝比奈さんが北高に行くことになった。

 長門の小説からヒントを得て、朝比奈さんと長門を引き合わせた。長門が北高に行くことになった。

 そして、古泉を北高に送り込み、SOS団は結成された。

 このうち、七夕、少年、先祖、記憶媒体、ハルヒの論文は、本来高校生の俺がするべきことをこの俺が肩代わりしている。

 だが七夕を除いては全て朝倉が消滅した後の話だ。七夕にしても、あの出来事は長門とは関係しそうだが、朝倉との関連性は薄いように感じる。

 では、まだ実行されていない重要な既定事項はとは何だ?

 俺が高校生だった頃の行動を振り返ってみた。

 俺は長門の世界改変事件に巻き込まれ、それを修正するために再び七夕に飛んだ。

 そして二人の俺と二人の朝比奈さんと長門があの十二月十八日へ飛び、世界を再改変した。

 鶴屋さん所有の山で岩を動かして、ハルヒにオーパーツを発見されることを防ぎ、元々岩があったところから鶴屋さんはオーパーツを掘り当てた。

 後は朝比奈さんの誘拐劇くらいしか思い当たらない。

 これらもやはり、すべて朝倉の消滅以降の出来事である。

 そうなると、朝倉が消滅するより前の時代に、俺が肩代わりして歴史を改変していることが原因で歴史に微妙なズレが生じている、と考えるのが妥当だろう。

 これは早急に正しい歴史に修正する必要がありそうだな。

 それにはさほど時間はかかるまい。少年にSTC理論を与えに行ったときと同じく、俺が過去の俺に事情を説明するだけでいい。おそらく二分あれば問題ない。

 さっき朝倉が再び俺の目の前に現れるのに、三分はかかっていた。それならば間に合うはずだ。

 待てよ?

 ここで一つの疑問に行き当たった。

 朝倉がもしTPDDを持っているのだとしたら、俺が存在する時空間座標を割り出すのにたとえ時間が掛かったとしても、それさえ解ればその時間のその場所に移動すればタイムラグは起こりえない。俺から見れば、俺が時間移動をした瞬間に朝倉が同時にその場所に現れるはずだ。

 なるほど、そう言うことか。つまり逆に考えれば、朝倉はTPDDを持っておらず、時間移動はやはり同期によっておこなわれていることになる。

 あの駅前の歩道で見せた瞬間移動にしても、それはTPDDを用いた空間移動ではなく、単に高速で移動していただけということになる。

 ならば常に朝倉との距離を考えることが重要になる。

 あのとき同期先の朝倉がどこにいたかは解らないが、俺が飛んだ先は襲われたのと同じ北口駅前あたりだ。

 仮に光陽園のマンションに朝倉がいたのだとして、そこから駅前まではだいたい三キロくらいの距離だ。移動速度は時速にして六十キロくらいになる。最高速度はおそらくもっと速いはずだが、障害物を避けながらの移動になるだろうから、それくらい時間がかかるのだろう。

 ならば、もし朝倉に襲われた場合は時間移動をするよりも、なるべく遠くに空間移動したほうが安全といえる。

 これならなんとかなりそうだ。


 俺はまず朝倉に発見された日の三日後の、北口駅前にある機関本部に飛び、過去三日分の報告書を入手してすぐさま時間断層の先に戻った。所要時間二分だ。朝倉は来なかった。

 やはり予想は当たっていた。機関の報告書には、どの日付を見ても「TFEI端末 朝倉涼子 特に変化なし」という一文が記載されていた。

 まだ朝倉が消滅するという歴史が生まれていない。

 どうやら北口駅前での事件は朝倉が情報操作で揉み消したようだな。それは俺としてもありがたいことだったが。



 俺は、二年ほど前の俺が、高校生の俺の行動を肩代わりして実現した規定事項の再改変を開始した。

 一度目の七夕。これは二年前の俺がハルヒを手伝うことを、この俺が中止させればいい。

 その瞬間に未来が変わり、ハルヒが北高に行かなくなる歴史に塗り替えられる恐れもなくはないが、それはおそらく未来人組織の介入により俺の知る元の歴史に上書きしてくれるだろう。

 歴史の歪みを最小限に抑えるのが彼らの役割だと言っていた。ならば彼らがうまくやってくれるに違いない。そして、その結果がおそらく俺が知る既定事項、つまり高校生の俺が朝比奈さんの依頼によりハルヒを手伝うという歴史につながるはずだ。

 俺は以前の俺が妹に誘拐まがいの所業をおこなった現場に向かうことにした。

 その頃に朝倉が存在するのかどうかは解らないが、光陽園から北高まではおよそ一.五キロ。だがこのルートは障害物が少ない。一分あれば朝倉は到着するだろう。

 時間との戦いだ。妹との待ち合わせの正確な時間を思い出す。午後四時だ。あの時俺は待ち合わせ時間丁度にやって来た妹の背後から、気づかれないように意識を失わせた。ならば俺も待ち合わせ時間丁度のその場所に飛べばいい。一分以内でカタをつけてやる。

 時間移動の開始。すぐに電波時計の時刻を合わせる。午後四時〇分三秒。想定どおりの時間と場所だった。

 目の前には以前の俺がいて、今まさに妹の背後から忍び寄ろうとしていた。

 俺は無言で肩を叩く。

 体をビクっと揺らすもう一人の俺。

 俺はそいつの手を引き、妹から遠ざけたうえで説明を開始した。既に二十秒が経過している。

「見てのとおり俺は未来のお前だ。詳しい理由を話す時間はない。この計画を中止してくれ。でないとこの先、七夕の日にお前と高校生の俺たちがかち合うことになる」

 もう一人の俺は呆然とした表情で俺を見ている。無理もない。

 時計を見る。三十五秒経過。

「もう時間がない。ここは危険だ。お前もすぐに時間移動しろ。今すぐにだ。俺を信じろ」

 四十五秒経過。

 もう一人の俺は何かを言いたげだったが、答えている時間はない。

「急げ」

 そう言い残し、俺はすぐさま元の時空に飛んだ。

 次に俺はその結果を確認するためにあの七夕の日に飛ぶことにした。

 ハルヒが通っていた東中は、朝倉たちのマンションからおよそ七百メートル。四十秒足らずで朝倉が来る計算になる。

 高校生の俺や二年前の俺がハルヒの落書きの手伝いをしたのは、午後九時十五分から九時四十五分の間くらいだ。

 ならば、九時三十分あたりで東中のグラウンドの様子を窺えばいい。

 いや、それはダメだ。ハルヒや過去の俺に近づくわけにはいかない。暗がりの中、遠くからどちらの俺がハルヒを手伝っているのかを判断するのも容易ではないだろう。

 ならば、体育用具倉庫の裏の壁にもたれかかって寝ているのが朝比奈さんなのか、妹なのか、あるいは誰もいないのか、それを確認すればいい。

 寝ているならば至近距離まで近づける。二人が似ているといはいえ、俺が見ればそれは一瞬で判断出来る。

 決まった。午後九時三十分。用具倉庫の裏。朝比奈さんや妹が寝ていた場所へ。

 体が揺れ、到着した。果たして、ぐっすりと眠りこんでいる女性を発見した。時計を合わせる。午後九時三十分五秒。

 目の前の女性に近づき、顔を覗き込む。

 間違いなく朝比奈さんだった。未来人組織は俺の思惑おもわくどおり、俺の知る正しい歴史で上書きしてくれたのだ。

 時計を見る。十六秒経過。長居は無用だ。俺は即座に元の時空へと飛んだ。まるで曲芸飛行のようだな、まったく。

 これで、朝倉消滅以前の歴史再改変は完了したが、さらに俺はその他に肩代わりしたものについても同様に再改変をおこなうことにした。

 朝倉に襲われるリスクと、これらを後回しにするリスクを比較して、やはり今のうちにやっておくべきだろうと判断したからだ。

 次に事故から少年を救った二年前の俺を止めに行った。

 森さんに連絡して少年襲撃の中止を伝え、少年を救う直前の俺に会い、前回と同じようなセリフを述べ、計画を中止させた。

 続いて同じ方法で、男性を病院送りにしようとする俺を制止し、少年に亀を与えようとする俺を制止し、ハルヒの論文と記憶媒体を郵送しようとする俺を制止した。

 その度に未来人たちが、敵対組織も含めて、俺の期待通りに俺の知る正しい歴史に上書きしてくれたことを確認した。

 俺はこれら全てを三時間ほどでやり遂げた。頭と神経を使いすぎてクラクラしそうだ。これもひとえに朝倉によるプレッシャーのおかげだな。


 俺が肩代わりした歴史は全て元の歴史に修正された。

 後は、高校生の俺が実行するはずの残りの既定事項が、俺の知る歴史どおりになっているかを確認すればいい。

 俺はさらに気合を入れ、それらを確かめることにした。

 まず俺は、俺と朝比奈さんが時間凍結されていることの確認に向かった。

 高校一年の春頃に飛び、長門や朝倉が学校に行っている隙を狙って長門の部屋に侵入した。

 俺が朝比奈さん(大)とともに長門のマンション行ったとき、長門は和室の襖は開かないと言っていた。部屋ごと時間を凍結しているからだと。

 ならば今俺の目の前にあるこの襖も開かないはずだ。襖に力を込める。

 そして襖は実にあっさりと開かれた。目の前にあるはずの布団がなく、そこに居るはずの俺と朝比奈さんもおらず、ただ畳だけの空間が広がっていた。

 早速つまずいた。軽い挫折感。なぜだ?

 俺は時空断層の先に戻り、理由を考えた。

 あのとき俺たちが時間凍結されたのは、朝比奈さん(小)が何らかの理由でTPDDを失ったからだ。

 つまりこの歴史では朝比奈さん(小)のTPDDは失われておらず、そのまま元の時空へと戻ったらしい。

 あのとき朝比奈さん(小)からそれを奪ったのは朝比奈さん(大)だ。当時は推測でしかなかったが、今なら確信を持って言える。

 ならば、どうやら俺がそれをするしかなさそうだった。

 TPDDを奪う。もちろん俺は今まで一度もやったことはないが、妹の意識を失わせたのや、男性に時空間座標を伝えたのと同じ原理で出来るはずだ。

 いや、出来てもらわないと困る。

 またしても七夕のあの日に飛ぶ。体育用具倉庫の裏。さっきより時間を三十分ずらして。

 俺に与えられた時間は四十秒弱しかない。すぐさま朝比奈さんの首筋に指を当て、脳内にあるTPDDの位置を探る。

 俺は彼女の脳内の様子が、自分の指先を通じて俺の脳内に伝わってくるのを確かに感じていた。

 なぜこんなことが出来るのか、それは俺にだって解らない。理解しているのではない。感じているのだ。

 見つけた。TPDDの起動スイッチがある。妹の意識を失わせたのと同じ要領でそのスイッチをオフにする。

 時計を見る。三十三秒。

 直ちに元の時空に座標を設定し、体が揺さぶられた。

 続けざまに、再び長門の部屋に向かう。もちろん日を変えて。

 和室の前に立ち、襖の取っ手に手を掛ける。

 動かない。さらに力を込める。微動だにしない。

 俺は襖の向こう側に時間を凍結された高校生の俺と朝比奈さんが居ることを確信し、元の時空に戻った。


 次に、またしても同じ七夕の日の午後九時に飛び、公園を出た路地で朝比奈さん(大)と過去の俺が出会うことを確認する。これからこの二人は二度目の長門宅訪問を果たすのだ。

 さらに十二月十八日のあの夜に飛び、暴走した長門による世界改変を修正するために集結した二人の俺と二人の朝比奈さん、そして長門の姿を確認した。

 これは結構危険な賭けだった。暴走した長門による改変が終わり、未来の長門による再改変が始まるわずかな間を狙って時間移動しなければならなかった。そうでないと、どちらかの改変に巻き込まれてしまう。『午前四時十八分です。後五分くらいで、世界は変化します』あの時の朝比奈さんの言葉を覚えていなかったら完全にアウトだった。自らの記憶力に感謝する他ない。

 二月九日夕方、雨天の鶴屋山に行き、過去の俺と朝比奈さん(みちる)が動かしたはずの岩を確認した。

 おかしい。岩が移動していない。

 あれを動かしたのは確か雨が降る直前だった。ならば既に岩の位置が変わっていなければならないはずだ。

 さっきの襖といい、歴史はまだ微妙にズレているみたいだった。

 考えている暇はなく、俺は自分で岩を動かした。相変わらず重い。元の位置から西に三メートル。所要時間四十五秒。

 あのとき俺と朝比奈さんとでやったようなカモフラージュをしている余裕はなかった。この雨が地肌をならしてくれることを祈って、急いで次の移動先に飛ぶ。

 その四日後、誘拐された朝比奈さん(みちる)が助け出されたことを確認した。正確な時間は覚えていなかったが、大体の目星をつけ向かった先では、まさに機関のメンバーと敵対組織が対峙している真っ只中だった。

 これらの確認を、計画、実行含めておよそ二時間かけて全てこなした。さすがにもうフラフラだ。


 予想外の事態が二つあったものの、これで俺の知る既定事項は全ておこなわれたことになる。

 その二つに関しては、またいずれ元の正しい歴史に上書きする必要があるだろう。それを一体いつやればいいのかは俺には全く見当がつかないのだが。

 こんなことなら朝倉に見つかる前に先に片付けておくべきだった。あの時の油断を俺は心底後悔した。

 だが、まだ最後の確認が残っている。これで朝倉が消滅する歴史が生まれていなかったら、これはもう笑うしかない。

 俺は数時間前の俺が機関の報告書を取りに行った日の翌日に移動し、機関の過去四日分の報告書を入手し、時間断層の先に戻った。

 祈る気持ちで機関の報告書に目を通した。


 そこには無常にも「TFEI端末 朝倉涼子 特に変化なし」という一文が記載されていた。



 もう俺には、過去の自分がやり残したことを何も思いつかなかった。やれることは全てやっているはずだ。

 ならば、なぜ朝倉は消滅しないんだ。何が足りないっていうんだ。

 そうして、俺はふと思いついた。


 待てよ……過去の俺がやったことではなく……今の俺がこれからやるべき何かがまだ残されているということか?


 俺はしばらくの間あらためて考えてみた。そして俺はようやくそれに思い至った。

 そうだ。俺はあのオーパーツが何のためにあるのか、考えもしなかった。

 岩を動かすという行為は、ハルヒにオーパーツを発見されないようにするためのものだったのだろうか。

 俺は別の仮説を考えた。もしかすると、あれはオーパーツの存在を俺に知らせるためだったんじゃないか?

 オーパーツがどういう意味を持つものなのかは解らないが、もしかしたらこの状況を打開する鍵になるのかもしれない。

 既に俺には他に手がかりはなかった。ならばあれに賭けるしかない。いつまでも朝倉から逃げ続けるわけにはいかない。

 今から鶴屋山に行ってオーパーツを掘り出す余裕はないだろう。

 一体あれがどれだけの深さで埋っているのか解らない。掘り出すのに一分で済むのか一時間かかるのかさえ解らない。

 掘っている最中に朝倉がやってくれば、これはもう最悪の事態だ。

 俺は、鶴屋さんがオーパーツを掘り起こした日の翌日、つまり高校一年の二月十五日の鶴屋邸に時間移動した。

 この日鶴屋さんは、昼食中の俺を屋上手前の階段に連れ出しオーパーツを掘り出したことを告げ、放課後の部室に朝比奈さんの制服と上履きを持ってやってきた。その後家に真っ直ぐ帰ってくれていればいいが。

 鶴屋さんの部屋におもむいた。幸いなことに鶴屋さんは帰宅済だった。

「久しぶりだな。元気か?」

 一応、元気かとは聞いてみたが、この人が元気でなかったところを俺は一度として見たことがない。

「ジョン兄ちゃん! めがっさ久しぶりだねっ!」

 鶴屋さんの時間軸では、俺に会うのはおよそ三年ぶりのことだった。俺は機関の設立が終わった後、未来人の男性や朝比奈さんの系譜を追うのに都合がよいという理由で、機関本部の近くに住居を移していた。あの頃は毎日のように現在と未来の間をめまぐるしく移動しており、生活リズムがボロボロの状態だったからな。

 久しぶりに会う鶴屋さんは、当然ながら既に俺の記憶に残る鶴屋さんの姿になっていた。そんな鶴屋さんにお兄ちゃんと呼ばれるのは、いささか気恥ずかしいものがある。

 いや、そんなことを考えている暇はない。俺は、挨拶もそこそこにオーパーツのことについて訊いた。

「あれっ、どうしてあれのこと知ってんのっ?」

 そう言いつつも、鶴屋さんは明らかに含みのある顔つきで笑っていた。

「まぁいいやっ。もうすぐうっとこの研究所の人たちが取りにくる予定だよ。厳重に保管してもらわないとねっ」

「すまん、あれをちょっと見せて欲しいんだが。大至急で」

「いいよっ。ちょっと待ってて」

 既に三十五秒が経過している。朝倉のマンションから鶴屋邸までの距離はおよそ一.四キロメートル。直線的に来れるルートはないから、朝倉の野郎が到着するまで一分半程度のはずだ。

 鶴屋さんが急いでオーパーツを持ってきてくれた。実物を見るのははじめてだ。手に取ってみると案外重い。

 鶴屋さん曰く、チタンとセシウムの合金の、直径約二センチ、長さ十センチ足らずの棒状の物体。

「離れは今使えるか? ちょっと貸して欲しいんだが」

 目の前で時間移動するわけにはいかないからな。

「空いてるよっ。一昨日までお客さんが泊まってたけどねっ」

 そうか。過去の俺が朝比奈さん(みちる)を預けていたんだった。

 いかにも「知ってるよね?」と言いたげに首を傾ける鶴屋さん。この鶴屋さんは既に、下級生でありSOS団員である高校生の俺と、目の前の俺が同一人物だと勘付いてる。

 離れまで移動する間に、オーパーツに目を落とす。

 写真で見たのと同じように、表面に無数の幾何学模様が描かれている。何か意味のある言語のようなものだろうか。無論俺にそれを読めるはずもないが。

 棒の両端には中心から十個ばかりの円が同心円状に刻まれており、その円と円とを繋ぐ直線が無秩序に並んでいた。やはりその意味は解らない。

「すまんがしばらく一人にしてもらえないか。すぐにすむ」

「お客さんの友達にも同じようなこと言われたにょろよっ!」

 ああ、確かに朝比奈さんと二人にしてくれと何度かお願いしたなそういえば。あのときと変わらない鶴屋さんの笑顔で思い出した。


 離れに入り、引き戸を閉める。

 時計を見る。一分二十五秒経っていた。慌てて時間移動を開始する。

 時空間座標を設定。体がグラっとする感覚――――

 おかしい。

 なぜだ? あの感覚が来ない。

「無駄」

 背後からの声に背筋が凍りついた。

 振り返る。そこには見慣れた姿、見慣れた笑顔で、朝倉涼子が立っていた。

「この部屋に時空間障壁を展開したの。あなたには解除出来ないわ」

 まずい。退路を塞がれた。

「随分と振り回してくれたわね。おかげで一日中走り通しだったわよ」

 そう言いつつも、朝倉は笑みを絶やさない。

「おまけに異時間同位体もたくさんいたし。あなたを探し出すのに苦労したわ」

 さあ、どうする。この部屋から出れば時間移動は可能なのか? だが、出口の方角には朝倉が立ちはだかっている。

「俺に何の用だ?」

 時間を稼ぐしかない。このオーパーツに何か秘密があるのだとしたら、それを解き明かすしかこの状況から逃れる方法はない。

「わたしたちに用があるのはあなたの方じゃないの?」

「お前、俺の記憶をどれだけ読んだんだ?」

 俺はオーパーツを後ろ手で持ち、魔法のランプよろしく表面をこすってみた。何も起こらない。

「わたしたちに対する強くて危険な思念を感じたんだけど。これが怒りという感情なのかな?」

「さあな。お前に感情が解るとも思えないが」

 オーパーツを振ってみる。何も起こらない。どうしろって言うんだ。

「あなたはどう思う? 涼宮さんはあたしのことなんかちーっとも相手にしてくれないじゃない? あなたと長門さんには話しかけるのに。長門さんだって涼宮さんとあなたのことばっかり気にかけてさ。あなたもそう。あたしだけ蚊帳の外。わたしが長門さんのバックアップだから相手にしてもらえないのかな?」

 何を言っているんだ、こいつは?

「だからね、あなたがいなくなったら涼宮さんや長門さんがどういう反応を示すのか興味があるの。わたしの方を向いてくれるようになるかなあ?」

「だったら、ハルヒの近くにいる方の俺を狙えばいいだろうが」

 事実、俺の知る朝倉は夕暮れの一年五組の教室で俺にナイフを向けた。

「ふーん。やっぱりあなたもそう思う? でもね、それは上の方にいる人が許してくれないの」

 その口上は以前にも聞いた。

「だからね、わたしはあっちのあなたじゃなくて、今あなたを殺したい気分なの。これが嫉妬や怒りってものなのかな?」

「知らねえよ」

 朝倉はどこまでも無邪気な物言いだ。こいつは既に情報統合思念体など関係なく自分の意思だけで動いてやがる。

「うん、多分そう。わたしはあなたに死んで欲しいんだと思うの」

 朝倉は自分勝手に結論を導き出し、

「じゃあ、そろそろ死んで」

 朝倉は数時間前と同じ仕草で虚空こくうからナイフを掴み取った。

 緊迫のあまり、俺は無意識にオーパーツを握りしめていた。

 突然、頭の中に直接メッセージが飛び込んできた。聞き覚えのある声。メッセージの主は朝比奈さんだった。


『あなたはこの装置によって涼宮さん復活の可能性を得ることが出来ます。ですが、それはあなたにとって大きな代償を伴うことになります。あなたはこの装置を起動するか、そうしないかを選択することが出来ます。それによって未来は大きく変わります。この選択にはあなたと涼宮さんの運命だけでなく、地球の運命が懸かっていると言っても過言ではありません。これからの未来は誰にも解りません。ですが、あなたにはそれを選ぶ権利があります。あなたにとって望ましくない未来になるかもしれません。あるいは未来人にとって望ましくない未来になるかもしれません。わたしたちは未来をあなたの手に委ねることに決めました。あなたがあなた自身で選ぶ未来です』


 大きな代償?

 俺にとって望ましくない未来?

 それは一体何だ?

 そんなものはどうでもいい。俺は既に答えを決めている。俺がどんな代償を払おうとも、遠い未来がどうなろうと、そんなことは構いはしない。

 ハルヒを救う方法がこれにしか残されていないのであれば、いまさら選択の余地などない。

 朝倉が歩を進め、目の前に迫ってきていた。あの教室であれば、まだ多少逃げ場は残されていた。だがここは違う。逃げる場所なんてどこにもなかった。

 ここに突然長門が現れて、こいつのナイフを素手で掴んでくれやしないだろうか。そんな身勝手な期待は叶うはずもなく、朝倉が振ったナイフは無常にも俺の左脚を切り裂いた。

 激痛が走る。悲鳴を上げる。

 立て続けに右脚にナイフが突き刺さる。この野郎、俺をなぶり殺す気か!

「これでもう動けないでしょ? じゃあ、とどめね」

 朝倉は変わらない笑みをまといながらナイフを振り上げた。

「死になさい」

 なされるがままにメッタ刺しだった。両手、腹、胸。次々にナイフが突き立てられる。血しぶきの向こうに朝倉の笑顔が見える。一片の混じり気もない、純粋な殺意。

 意識が遠のいていく。もうどこを刺されているかも解らない。かすかに朝倉の声が聞こえてくる。

「生命維持機能停止率九十八.六三%、死亡までの推定時間十五秒……」

 薄れゆく意識の中で、俺は朝比奈さんの言葉を思い出していた。『あなたはあなたの信じる行動をとって』

 俺はありったけの想いを、右手に握るオーパーツに込めた。


 ――俺は絶対にハルヒを救ってみせる――


 ………………

 …………

 ……


 誰かが俺の頬を叩いている。

 意識を取り戻した。視界がぼんやりとしている。俺は助かったのか?

「お兄ちゃん!」

 ようやく目の前のものの輪郭がはっきりとしてきた。俺の脇で誰かが泣いてる。鶴屋さんだ。俺のために鶴屋さんが泣いてくれているのか?

 俺は上半身を起こし、鶴屋さんに事情を聞いた。

「驚いたよ……離れから大きな物音が聞こえて……あれのせいで何か起こったのかと思って……。扉を開けてみたらお兄ちゃんが血まみれで倒れてて……。あたし、てっきり即死だと思ったよ。だって辺り一面血の海じゃない……」

 部屋を見回してみる。壁から天井に至るまで、鮮血でまみれていた。

 鶴屋さんが、しゃくり上げながら続ける。

「だから、誰かに刺されたんだと思ったよ。服もボロボロだったし……。でもさ、あたしずっと母屋から離れを見てたけど、誰かが出入りするようなことなんてなかったよ。それで、お兄ちゃんに近づいて傷を調べてみたの。血の出てたところ。そしたら傷なんてひとつもないじゃない。それにこの棒が光ってて……これは一体なんなのさっ……」

 つまり、このオーパーツが俺を蘇生させ、傷を回復してくれたということなのか?

 そして、朝倉がいなくなっているということは、おそらく奴は俺が死んだことを確信しているに違いない。

「驚かせてすまなかった。もう大丈夫だ」

 鶴屋さんは涙を流し続けながらも、俺に笑顔を向けてくれた。


 その後、俺は鶴屋さんにオーパーツを譲ってくれないかと頼んだ。もちろん詳しい事情は話せなかったが。

 鶴屋さんは、俺がこれを必要とするのなら、それは俺が持つべきものだと言い、承諾してくれた。

 俺は元の時代に戻りあらためてオーパーツを調べてみたが、特に新しい情報は得られなかった。

 メッセージも二度と流れてこなかった。だがそれは必要ないことだ。俺の頭の中には既にそのメッセージが一語残らず確かに記憶されているのだから。

 結局代償とは何だったのか。それともそれはこれから背負うことになるのだろうか。


 翌日から俺は朝倉の調査を開始した。奴の出方が気になる。俺のことを諦めてくれているのか?

 そして調査はあっけなく、意外な結末をもって終了した。

 朝倉は暴走していた。俺が知るあの日の歴史どおりに。機関の報告書には、

「TFEI端末 朝倉涼子 カナダに転校。詳細不明。不自然な点多数。何者かによる情報操作の可能性あり。至急の調査を要する」

 と記されていた。

 つまり、昨日の出来事により朝倉の消滅が既定事項になったということなのだろうか?

 朝倉は俺を殺したことにより、過去の俺を殺す決意をしたというのか?

 詳しい理由は解らないが、これでいよいよ歴史は俺の知るとおりとなったはずだ。


 それから数日間かけて、俺は今の歴史における全ての出来事を検証するために、機関の報告書を片っ端から読み漁った。

 報告書に書かれていたことは全て、ひとつの漏れも間違いもなく、俺が知る正しい歴史と完全に一致していた。


 俺とハルヒが結婚する歴史が生まれ、そしてその二ヶ月後にハルヒは原因不明の病気でこの世を去った。



 歴史の改変に関して俺がすべきことはもう何もない。

 俺はサングラスを外し、髭を剃り、時間移動をおこなった。

 あの卒業式の日。再び長門に会うために。

 駅前で長門と最後に会話を交わした直後。長門のマンション、708号室前。

 そして、エレベーターホールの方からあのときと同じ、見慣れた人影が現れた。

 二年数ヶ月ぶりに会う長門。

 長門はあの時と同じ、驚きの色を浮かべた表情で俺を見ていた。

「久しぶりだな、長門。お前はこの時間平面上の俺たちと別れたばかりだろうがな」

 以前と同じやりとりをし、俺はリビングに通された。

 俺は単刀直入に今までの経緯を話した。

 ハルヒが死んだこと。

 その原因が解らなかったこと。

 長門の力を借りるために、俺は既に一度この時代に来ていて、当時の長門に会っていたこと。

「お前の今の気持ちは解ってる。あらためて言うが、自分を消したいなんて二度と思うんじゃないぞ。俺がお前をずっと地球で生きていけるように努力する」

 長門はあのときと同じように、目を閉じ静かに肯いた。

 俺は話を続けた。

 当時の長門が言うには、ハルヒの病気は情報統合思念体急進派がハルヒに仕掛けた時限装置が原因だということ。

 長門が、ハルヒの力を利用した情報統合思念体の抹消を提案し、第二の情報爆発に向かったこと。

 そこで情報統合思念体の統括者である老人に発見され、長門は消滅し、歴史を塗り替えられてしまったこと。 

「そのときお前は、俺を老人から逃がすために自らを犠牲にしてくれたんだ」

「そのわたしの判断は適切。もし同じことが起れば、わたしはまたその道を選ぶ」

「ありがとよ……長門。本当に感謝してる」

 そして、老人により塗り替えられた歴史を、俺が二年かけて元の歴史に戻した。

 歴史の修正を全て終えて、今こうして再び長門に会いに来た。

「あなたの存在は朝倉涼子により発見され、その情報は情報統合思念体に送られた」

「俺の情報はどこまで知られてるんだ?」

「わかっているのは、あなたが高校にいたあなたの異時間同位体であること、そして情報統合思念体に敵意を持っていること。でも情報統合思念体は、あなたは朝倉涼子によって殺害されたと認識されている。そしてそれ以降いかなる時空間においてもあなたの存在は確認されていない」

「なら、長門も俺は死んでいると思ってたわけか」

「わたしはあなたの生存を確信していた。それを知るのはわたしだけ。他のインタフェース端末では知ることは出来ない。わたしはあなたとの記憶からそれを知った」

「どういうことだ?」

「図書館」

 久しぶりに聞く長門の簡潔すぎる回答だった。もちろん俺には意味が解らない。

 長門は唇の中央を極々僅かに歪めながら解説してくれた。初めて見る表情かもしれない。

 つまりは、俺が過去に鶴屋さんと図書館に行ったとき、俺は鶴屋さんに長門との思い出を話した。その鶴屋さんの記憶を読んだ長門は、それが自分のことだと理解した。

 その後の鶴屋さんの記憶から、離れで朝倉に刺された俺が蘇生したという事実を知ったのだという。

「他のインタフェース端末では、たとえ彼女の記憶を読んだとしてもその事実には辿り着かない」

 長門は俺の目を見据えて言った。

「図書館の記憶は、あなたとわたしだけのもの」



 俺と長門はあらためて作戦を練り直した。

「おそらく情報統合思念体の統括者はまた現れる」

「なんとかならないのか?」

「以前のわたしはおそらくそうならないように努力したはず。でも結果的に統括者は現れた。つまり今のわたしにもそれを防ぐ手段はないと考えられる」

「ならば、奴が現れるのを前提で考えないといけないということか」

「前と同じことを繰り返すことは避けなくてはならない。それは極めて困難。前の歴史との違いは今のあなたが前の歴史を知っていること。だが統括者が現れればあなたの記憶を読まれてしまう。統括者は即座に全てを理解するはず」

「遮蔽フィールドだかコーティングだかで防げないのか?」

「統括者の情報処理能力はおそらくわたしの数万倍のスピード。外的措置による防御は不能。わたしの記憶はメモリ空間の暗号化でしばらくの間防御可能。あなたの記憶を暗号化することは物理的に不可能」

 統括者ってのはそんなとんでもない奴だったのか。

「おそらく前回と同じ方法、すなわち涼宮ハルヒの能力を利用した情報統合思念体の抹消は不可能」

 ここまで来て俺は諦めなくちゃならないのか?

 だが俺は朝比奈さんの言葉を信じる。ハルヒは必ず復活する。そして、そのための切り札はこれしかないはずだ。

「もうひとつ以前と違うことと言えば、俺がこれを持っていることだ」

 俺はふところからオーパーツを取り出した。

「お前が鶴屋さんの記憶を読んだならこれは知っているな。俺はこれで命を救われたらしい。これが何だか解るか?」

 長門に促され、オーパーツを手渡した。

 長門はオーパーツ表面の紋様をひとしきり眺め、前に俺がしたようにそれを握りしめた。

 次の瞬間、長門の掌がわずかに開かれ、オーパーツが転がり落ちた。

「どうした、長門?」

 しばらく放心したように固まっていた長門は、

「…………大丈夫」

 そう言うと、ゆっくりとした動作でオーパーツを拾い上げた。

「これはあなたの生命の保全と情報統合思念体からの遮蔽機能を持つ」

 俺が蘇生した以降、情報統合思念体に発見されなかったのも、鶴屋さんの記憶から俺を特定できなかったのもオーパーツの機能だったということだ。

「さらにこれは情報統合思念体に膨大な影響を及ぼすもの」

 やはりこいつが鍵になっているのか。

「それ以上詳しくは話せない。あなたがそれを知れば、その記憶から統括者に内容が知れる。わたしを信じて、全てをわたしに委ねてほしい」

「お前がそういうなら、俺はお前を信じるさ」

 いつだってそうだ。俺が長門を信じなかったことなんて一度もない。

「これは賭け。失敗すれば、おそらく二度と涼宮ハルヒを蘇らせる機会は訪れない。だからあなたに言っておくことがある」

「聞かせてくれ」

「あなたには三つの選択肢がある」

 また選択か。

「一つ目は、涼宮ハルヒの復活をあきらめ、TPDDと一部の記憶を放棄したうえで、涼宮ハルヒの能力を利用して元の時空間に戻り元の生活を送ること。あなたはその生涯を平穏に送り続けることが保証される」

「二つ目は、やはり涼宮ハルヒの復活をあきらめ、記憶を保持したまま今の生活を続けること。あなたは情報統合思念体からの偶発的な脅威を継続的に受け続けることになるが、わたしがあなたを守ることが出来る」

「三つ目は、このまま涼宮ハルヒを復活させる道を歩むこと。これには多大なリスクを伴う。失敗した場合、あなたとわたしは消滅し涼宮ハルヒも復活しない。成功すれば涼宮ハルヒは復活するが、それによってあなたは大きな代償を負わなければならない」

 つまり、全てを捨て元の生活に戻るか、記憶を残して情報統合思念体に見つからないように細々と暮らすか、危険を冒し代償を覚悟してでもハルヒを救うか、ということか。

「長門」

 選択の余地などない。俺は既に答えを決めてここに来ているんだ。

「ハルヒを救う道がそれしかないのなら、俺は可能性にかけてみたい」

 長門は真っ直ぐな視線を俺に送り、そしてゆっくりと首を振った。

「わかった」

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