第14話
洞窟を抜けると同時に、降り注ぐ柔らかな光に目を細める。あれほど濃かった霧も、ここまでは届かない。洞窟を抜けた先は、よく晴れた山の麓であった。
「ケ。長いだけで化け物の一匹もいやしねえ。シケた洞窟だぜ」
「何もないに越したことはないだろう。あの洞窟はただの通路だ。それよりあれを見ろ」
促すまでもなく、皆の視線が集まる場所。洞窟から山頂へ向かって道なりに進んだ先に佇む巨大な門と、聳え立つ壁。恐らく、いや、まず間違いない。竜の国はあの先であろう。となれば、俺たちはあの門の前に待ち構える彼らと話をしなければならないのだが。
「――わはは!そりゃあいいや!」
「そぉら、乾杯だ!」
ここまで聞こえてくる、大声。巨大な酒樽をジョッキ代わりにぶつけ合い、派手に粉砕して大笑いする竜族の男たち。人間の五倍はあろうかという巨躯に、鎧のような鉄色の鱗。見るからに強靭な四肢に、太い尻尾と立派な翼。そう、あれこそまさしく俺の知る竜族の姿である。
だが、何やら賑やかだ。あの谷の惨状を見るに、竜族も決して少なくない数の兵を失っただろうに。少なくとも、悲しみに暮れているという様子ではないな。
「す、すごいお酒の匂い……ここまで漂ってきます」
「……なァ、おいギルバート。この匂い……うん、間違いねえ。ありゃあ神竜酒だぜ。魔神たちも愛したってんで有名な極上の酒だ。ただ事じゃねーぞ」
「よほどめでたいことがあったんだろう。クロノス神の生誕祭……は違うな。何か、でかい戦にでも勝ったか?」
「とりあえず行ってみようぜ。あの様子なら、酒を分けて貰えるかもしれねーぞ!よっしゃあ酒だ酒だ!」
「あ、おい待て」
止める間もなく、バラムスは喜々として走り出す。全く、あいつはいつもこうだ。
「行こう。リリア」
「はいっ」
俺は抱き上げた少女の背を撫でながら、バラムスの後を追う。そうして門の前に立つと、豪快に酒を飲み交わしていた竜族の男たちが陽気に手を上げた。
「よォ魔族ども!よく来たなあ」
「こいつぁ珍しい客だ。おら、座れ座れ。今日は無礼講だ」
「俺たちにも酒を分けてくれるのか?随分と気前がいいじゃないか」
一足先にたどり着いたバラムスは既に酒を啜っている。少女を座らせ、リリアと共にその横に座ると、それぞれの前に勢い良く置かれた大皿に溢れんばかりの酒が注ぎ込まれる。降り注ぐ光にきらきらと輝くそれは、押し寄せる香りだけで頭がくらりとしてしまう。半ば無意識のうちに、俺はそれに手を伸ばしていた。
「っ」
自らの意思とは関係なく両手で皿を抱き上げ、口をつける。たちまち口いっぱいに頬張って、ごくりと喉を鳴らす。美味い。なんて、美味い酒だ。溢れる芳醇な香りと共に染み渡る魔力。喉を通じて全身を満たす幸福感。口の端から溢れたそれを拭うことも忘れ、ただ喉を鳴らす。まだ足りない。口を離せない。たまらず皿を傾ける。
「はあ」
一息。すぐさま、口を付ける。そのときばかりは全てを忘れ、ただその味に酔い痴れる。それがたまらなく心地よい。気がつけば、大皿に並々と注がれたそれは無くなっていた。
「どうだ美味いだろう?ハハハハ」
「そっちの黒い嬢ちゃんは倒れちまったな。竜の酒は早すぎたか?」
「あぁ。美味い。こんなに美味い酒は初めてだ」
体に満ちる魔力と心地よい気怠さに溜息をつく。バラムスはもはや酒樽に口を付け、リリアは目を回して寝そべり、少女は目の前に置かれたそれをただ見つめている。俺は膝に手をついた。
「いつもなら、よそ者は軽く追い返してやるんだがな……たまには酒を交わすのも悪くねえもんだ」
「今日だけだぜ、今日だけ。運が良かったなァ、魔族ども。そら、新しい龍姫様に乾杯!」
酒樽をぶつけ合い、それを豪快に煽る竜族の男たち。ふと聞こえたその言葉に、俺は顔を上げる。
「……なんだって?今、なんて言った?」
「あぁ。新しい龍姫様だ。今日はその祝いだよ。人間どもに捕らえられていた龍姫様が、ようやくお戻りになられたのだ。これほどめでたいことはねえ」
「これで我らが国もしばらくは安泰だ!クロノス様もさぞやお喜びになられることだろう」
そう言って笑い合う竜族の言葉に、俺は首を傾げる。捕らえられていた龍姫が、国に帰ってきたと。そう言ったのか。あぁ、今こいつらは確かにそう言ったな。ぼんやりと歪む意識の中、ちらりと隣に目を向ける。
「……」
少女は、いや、龍姫はただじっと酒を見つめたまま、動かない。
こいつら、何を言ってるんだ。龍姫はここに居るじゃないか。ちょうど今、国に帰ろうとしているところだ。それなのに、もう既にその帰還を祝って大騒ぎしている。本来であれば追い返すはずの俺たちにすら、酒を振る舞ってくれている。これから帰ってくるのではなく、既に帰ってきたと、こいつらはそう言ったのだ。
「神器を人間に奪われたというのは残念だが、まあ仕方あるまい。いずれ取り返せば良いだけの話よ」
「ははは!我らがクロノス様の神器を扱える人間などいるものか。奪われたところで、何の脅威にもならんわい」
「ちょ、ちょっと待て……神器なら、ここにある。これがそうだ」
俺はバラムスの隣に転がった剣を掴み、見せつける。だが竜族は、高らかに笑うばかり。
「酒の席にぴったりな冗談だな。魔族よ。だがそんなチャチな剣じゃあ、面白みに欠けるぜ?」
「そうだそうだ。クロノス神の剣は、一薙ぎで百の山を刻む剣だぞ。そんなに小さな刃で山を切れるか?確かに真っ白な刃であるとは聞くが、その刀身は我らの身の丈を有に超えるほどの巨剣であったはずだ」
「ま、待て。本当だ。この刃は、伸び縮みして――」
「あぁ分かった分かった。ほれ、もっと飲め。もっと伸びて見えるかもしれんぞ?」
「そうだ飲め飲め。我らが酒を浴びるほど飲める機会はそうないぞ。わはははは!」
その手に掴まれた酒樽から、輝く美酒が降り注ぐ。押し寄せる香りに、思考が掻き消される。紡ぐべき言葉が、溶けて消えてゆく。俺は全てを忘れて口を開き、それを浴びる。波打つ美酒の津波に、やがて意識すらも飲み込まれた。
「…………っといけねえ。流石に潰れちまうか。そっちの蟲も、良い飲みっぷりだったがもうダメだな」
「はははは!やれやれ、弱すぎて話にならんわ。おい、お前さんは飲まねえのかい?……なんだこいつ、まるで動きやしねえ」
「んん?よく見りゃ、同胞じゃねーか。にしてはやけにヒトくさいが……」
「見ろよ。鱗も尻尾も翼もねえぞ。妙なやつだ」
「龍姫様に報告せんとな。こいつらはどうする?」
「知るかよ。放っとけ」
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