第98話『笑顔の意味』

 息が荒く、背中の汗が滝のように流れている。僕はまず、自分の腹部を確認する……。出血はないし、穴も空いていない。それから、数分間の意識の混濁のすえ、ここが日本にある、一人暮らしの小さなアパートの一室であることに気がついた。


フィロスはどうなった……」


 一人の部屋にてつやの声が響く。


 そして、その問いかけに答えるかのようなタイミングで、机の上のスマートフォンが振動した。黒い画面には、倉橋理沙の四文字が写し出されている。


「おはよう哲也、今日は講義はないけれど、新歓はあるから、ちゃんと来てね? 私に新入生の相手は無理よ。じゃあ」


 必要事項を簡潔に述べ、僕の返事を待つ前に通話が終わった。あまりにも唐突で、実に理沙らしい電話だった。その影響なのか、動転していた気持ちが少しだけ落ち着いた。


 そうか、そう言えばもう四月か。ここ三ヶ月は、精神魔法の修業に専念していて、こちらの世界でもそのことばかりに気を取られていたからな。


 それにしても、フィロスが死の瀬戸際にいると言うのに、てつやときたら、新入生歓迎会とはな。あまりにも落差のある状況に心の整理が追いつかない。


 そんなことを考えていると、またしてもスマートフォンが震え始めた。今度の相手は……。


「先輩、おはようございます!」


「あぁ、おはよう」


 電話の相手の正体は、逢沢凛。この春から、僕達の通う大学に入学してきた、一つ下の後輩である。


「先輩、一緒に大学行きましょう!」


 彼女の期待に満ちた表情が、電話越しにでも伝わってくる。


「一年は午前からカリキュラムの説明があるし、それに、ゼミを決めたりもするだろ?」


 時計の針はすでに十一時を指している。説明会は始まっているはずだ。


「カリキュラムは熟読してますし、ゼミはもう決まってますよ。先輩と同じ井上教授のゼミです!!」


「説明会も受けずに、ゼミを決めていいのかよ」


「え? 先輩が選んだゼミなんだから、これが正解ですよ」


 当たり前の事実確認をするかのように、軽い調子で話を進める凛。


「そもそも、一緒に大学に行くって言っても、凛の家は僕の家からだとそれなりに距離があるだろ?」


 以前に家庭教師のバイトで凛の家に行った事があるが、割と遠かった印象がある。


「あぁ、引越したんですよ!」


 凛のその言葉と同時に、僕の家の扉が激しくノックされる音がした。


「あ、ちょっと待って」


 僕は凛にそう言って、スマホを置いて玄関まで走る。覗き穴から外を見ると、そこには、前髪ぱっつんの快活な少女の姿が……。僕はゆっくりとドアを開ける。


「おはようございます! 103号室に引越してきた、逢沢凛と申します!」


 そしてすぐにドアを閉めた。


「ちょっ、先輩!?」


 そう言いながら、激しいノックをしてくる凛。このままでは、ご近所様に迷惑がかかるので、もう一度ドアを開く僕。


「なんで、このアパートに来たんだよ?」


 ちなみに、僕の部屋は202号室なので、彼女の部屋は僕の部屋の斜め下にあたる。


「そりゃ、先輩がいるからですよ」


 当然のように語る後輩が、普通に怖い。


「そもそも、なんで僕の家を知ってるのさ」


 教えた覚えはない。


「そりゃ、尾行……、じゃなくて、えーっと秘密です!」


 なるほど、それは激しく怖い。


「まぁ、その、えっと、とりあえず大学に行こうか」


 今はまず、登校せねばならない。正直、この件について探るのが怖いという理由もあるが、新歓に遅刻すれば、一人ぼっちになった理沙から、怒涛の罵詈雑言をくらうことになる。今はそちらの方が問題だ。



 * * *


「あら、逢沢さんも一緒なのね」


 新歓の会場である大学内の食堂に到着した僕達。それを出迎えた理沙が、僕の隣にいる凛にちらりと視線を向けながら言った。


「はい、先輩のお家から一緒に来ました!」


 黒髪のショートヘアを揺らしながら元気いっぱいに答える凛。


「ふーん」


 興味無さげに短く相づちを打つ理沙。


 このイントネーションは、後から事情聴取を受ける時のパターンだ。


「それよりも哲也、希美さんの新しい著書、読んだわよ。相変わらず凄いわね」


 僕が理沙の正面の席に座ると、彼女が前のめりになって語り始めた。


「あぁ、あれね、僕も軽く読んだよ。姉さんらしい発想ではあったね」


【人工知能による、ゲノム編集】

 シンギュラリティを迎えた人工知能が遺伝子工学の技術を急激に進歩させ、その技術を駆使して、AIが人間の遺伝子操作を行うと言う内容だ。そして、最後には、そのAIと遺伝子操作の技術が、世界の設計までも行うであろうと書かれていた。


「それなら、私も読みましたよ。相変わらず、天才的な発想ですよね。新谷希美さんって、やっぱり、先輩のお姉さんなんですね〜」


 僕の隣りに腰掛ける凛が淡々と言った。


「あら、驚かないのね?」


 少し怪訝な表情で問いかける理沙。


「だって、先輩の論文は、新谷希美さんの影響をしっかり受けているじゃないですか? 切り口や文体も似ています。まぁ、その上で、私は先輩の方が好みですが」


 凛の言葉が、徐々に熱を帯びていくのを感じる。


「ありがとう。でも、姉の論文が著名な画家の絵画だとすれば、僕のそれは、子どもの落書きさ」


 姉と僕では才能モノが違う。一緒なのはジャンルだけだ。


「その子どもがピカソかも知れませんよ?」


 そう言って、悪戯っぽい笑みを浮かべる凛。


「とんでもない、狂信者っぷりね」


 凛の笑顔に対して、理沙が試すように笑う。


「信じて疑わないという行為は、狂ってないと出来ないですよ〜。だから、私も理沙さんもね?」


 その言葉だけで、互いに何かを察し合っている二人。非言語に頼る察しによる会話が、僕には理解出来なかった。内容が高コンテクスト過ぎる。


 二人の少女の対照的な笑顔が、周囲の温度を奪っていた。


「よく分からないけれど、君達がヒートアップすると、周りの温度が下がるから、二人ともクールダウンしてくれ」


 僕がそう言うと、凛は、「はい!」と元気な返事をして、理沙は「誰の所為だと思ってるのよ」と小さく呟いた。どう考えても二人の所為だと思うのだが。


 僕の注意の甲斐あってか、二人が落ち着くと、周りの空気が活気立つ。



 テーブルに並べられたオードブルがレモンだけを残して、綺麗さっぱり消え去った頃、井上教授の締めの挨拶で、歓迎会はお開きとなった。


「二次会あるけど、参加する?」


 僕はわかりきった質問を理沙に投げかける。


「いかないわよ」


 一切のタイムラグ無しで、即答する理沙。


「私は先輩が行くなら行きます!」


「僕は、幹事を頼まれてるから、行くよ」


「な、何よそれ、じゃあ私も……」


 理沙が小声で言いかける。


「理沙さんは行かないんですよね?」


 挑発するように、笑う凛。


「やっぱり、行く……」


 悔しそうに歯噛みする理沙。


「理沙さんのそういうとこ、嫌いじゃないですよ?」


 勝ち誇った凛の笑みが印象的だった。


 なんだかんだ言って、この子は笑ってばかりだな。



 * * *


 時刻は二十三時、オレンジ色の街灯や、電光掲示板の光がチカチカと眩しい。


「理沙、飲み過ぎだよ……」


 僕の肩にもたれかかってくる理沙に、静かに語りかける。四月に誕生日を迎えたばかりの彼女は、お酒を飲んだのは、今日が初めてだったようだ。


「うるひゃい、よっれないわよ」


 泥酔者の常套句を口にする理沙。


「先輩〜、私も酔っちゃいました〜。肩貸して下さい!」


「そんなに意思表示が明確な酔っ払いはいない。それに、凛はソフトドリンクしか飲んでないだろ?」


「理沙さんだけ、ずるいです」


 そう言って、道路に転がる丸い小石を蹴り飛ばす凛。


「えへへ」


 理沙が屈託のない笑顔を見せる。

 街灯の光を受け、彼女の後ろ髪を留めている緑のバレッタが光る。これは、この前、理沙の誕生日に僕が買ったものだ。


「今日は理沙を泊めてやってくれないか?」


 この調子では、理沙が自力で家に帰るのは厳しいだろう。


「わかりました、先輩も一緒にどうですか?」


「僕は遠慮するよ。アパートが同じなんだから、わざわざ泊まる必要もないしね」


 本音を言うのならば、今日だけは、誰かと同じ部屋で眠りにつきたかった。何せ、あの夢の続きを見るのだから……。


「どうしたんですか、先輩? まるで荒波にのまれて漂流してしまった海賊のような顔をして」


 何かを見透かしたかのような、奥行きのある意味深な笑顔を浮かべる凛。


 本当に様々な笑みを浮かべる子だな。


 楽しそうに『笑って』


 何かを含むように『哂って』


 無知を嘲るように『嗤う』のだ。

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